加速。燃焼。即ち、
疾走。そのための、そのためだけの姿勢。コンマミリ単位で身体の位置を移行、調整、確認、固定。発射台に設置されたロケットの如く。
呼吸。吸って、吐いて、吸って、停止。
全身に血流が巡る。血管という血管が開く感覚。筋肉の全てが適切な膨張と加熱を覚え、オレという個人が消失していく。
破裂音。同時にスタート。フライングギリギリ、ルールの範疇に収まれば問題ない。足裏で爆発が起きる。四千日以上にわたって繰り返し神経と筋肉に叩き込んだ最小限かつ最大限の、最適の動作を最速で行う。体内の酸素を燃焼させて走る。走る。走る。
疾走という純粋な行為に、人間は不要だ。必要なのは敵。目標ではない。倒すべき相手。競わない。敬意も示さない。何故なら、それはただの過去であり記録であり、そこに人間性は存在しない。ただ存在する歴史如きに、オレが負けていいはずがない。
「素晴らしい記録です、ロゥ」
「結果」
御託は不要。言葉は無意味。重要なのは結果だ。
「九秒八八です」
「昨日と変わりなしか」
クールダウンを始める。今日はここで終い。過剰な運動は逆効果。進まない記録に苛つきを覚える。覚えるが、肉体年齢からすれば破格の数値だ。だから【ライブラリ】は素晴らしい、などと口走った。
それは無意味だ。今の、肉体の成熟度に比して好結果であるという事実は、最速の結果ではないという事実の前には、完全な無意味だ。
「時間」
「十一時三十八分です」
三十分ほどのストレッチ。必要不可欠な初動にして残心。研ぐ。どこまでも鋭く、尖らせ、研ぎ澄ます。その後に向かうのならちょうどいい時間だ。その頃には食堂に集まっているだろう。
火照った身体を常温に戻し、そのまま訓練室を後にする。後始末は機械の仕事だ。
「イオタは」
座り心地を追求した椅子に腰掛け、銀色のパックとボトルを真っ白なテーブルの上に置いて、クスィはぼんやりと窓を見ている。オレの声を聞いて顔をこちらに向ける彼。食事は……まだか。こいつも几帳面なやつだ。
「ニュゥとキィ、ラムダとディガンマのところを回ってるよ」
「放っておけばいい」
クスィは小さく笑う。
「そういう人だから」
どかりと座って、手持ちの食料をテーブルに置く。
できるだけ、みんなで食事しよう。そう言い出したのはどっちだったか。少なくともオレではない。イオタか、クスィか。こいつらは人懐こい。だからそういう発想に至る。
この二人のことは嫌いではない。むしろ、好ましい。人が人足るには幾つかの要素が必要だ。だがパンとワインだけではいけない、と言った張本人は今日も図書館で居眠りしているだろう。
クスィと二人でいる時間に歓談は無い。出来ない。ナロウダウン型にその能力が無いわけではない。オレにその能力が無い。それだけだ。かといって、イオタが居れば話題が弾むか? 勿論、否。喋るのは専らクスィの仕事だ。オレ達は出来て相槌。
ここのところ、ずっと雨の音を聞いている。喋るはずのクスィが黙っているなら、オレもそれに倣うしかない。
雨。
音。
ダメだ、何が楽しいんだ。何も変わらない音。面白くも何もない。
「クスィ」
沈黙に負けた。
「うん?」
「何が楽しいんだ?」
一瞬。
クスィの表情が変わった、ように見えた。
「自然の生み出す雨の音は綺麗だと思わないかい?」
いつものクスィだ。
「わからん。音にそんなに差があるとは思えない。面白くも何ともない」
微笑。それはどんな意味の返答だ。
「足裏で床を蹴る音。筋肉の動く音。鼓動の音は、君にとってどんな価値がある?」
「ない。音は聞く意味がない。必要なのはタイムだ」
「なるほど。君にとって大事なのはタイム。僕にとって面白いのは雨の音。これでいいかな」
あぁ、と。頷く。
「合点がいった」
オレもこいつもナロウダウンだ。
「悪い」
「おう」
「お帰り」
揃う。男三人。イオタ、オレ、クスィ。
「では」
「「「いただきます」」」
手を合わせて銀色のパックを開封する。中身はいつもの、乾燥したビスケット。味も普段どおり。二口で一枚。合計四回口を開いて昼食の半分が終わり、ボトルの中身は一息に飲み切る。
イオタも似たような速度で食う。遅いのはクスィ。もそもそと何かを考え込むよう咀嚼しながら、ちびちびと飲料を口に含む。
イオタは楽しそうにそれを見ている。オレは
「音か?」
聞いてみる。
「音?」
イオタが不思議そうにこちらを覗き込む。
「さっき雨の音がどうこうって話をしてな」
「あぁ。雨音。ロゥはどう感じる」
「どうもこうも。何も、感じない」
「そうなの」
「イオタは」
真正面を向く。横顔。まっすぐに瞳を向ける先は入り口。何が見えるのか。何か見えるのか。何もない。白い廊下。百メートルも無い。確実に十秒は切れる。違う方に思考が飛ぶ。
「俺は、嫌いだ」
「理由は」
「声が聞き取り難い」
「なんだそりゃ」
笑ってしまう。確かにそのとおりだが。他の音が無いときよりも雑音が入る。それはそうだが。
「あ、ごめん。窓、閉じる?」
そして、こいつは妙に気を使う。
「聞きたいなら別に」
こいつもそうだ。
二人とも人がいい。
「気を使う仲か?」
だから、友人でいたいと思う。
「ありがとう」
図書館はいつも荒れ放題で、お世辞にも居心地がいいとは言えない。
扉が開く。散乱した本の山。独特の匂い。荒らす端から【ライブラリ】の端末共が整理していく。目当ての棚も、
「おい、キィ」
整理する端から荒らし回る男に漁られている。
珍しく起きているオールマイティが何やら熱心に読んでいる。
「やぁ、ロゥ。続きならここに」
文字通り山積した本。その一角を指差す。
「お前も読んだのか」
「面白かった。でも意外だよ」
一冊だけ手に取る。そんなに一度に持ち帰っても、一気には読めない。
「何が」
「ロゥがこういうの好きっていうのがさ」
別に。
「特別好きってんじゃない。暇つぶしだ」
口実が欲しいだけだ。
「お前こそ、珍しいな」
何が? という顔の男。
「同じ種類の本を読むなんて」
読み漁るのがキィのスタイルだとばかり思っていた。
「あぁ。興味が湧いてね」
興味。
「オールマイティはいろいろ目移りが激しいことで」
「まぁ、そんなところだよ」
そうだ、と話を一度切る彼。
「感想、今度聞かせて欲しいな」
全部読み切ったらな、とだけ言い残し、乱雑な紙束の群れを後にする。手には薄い冒険小説。約束した手前、きちんと読みきらねばならない。
興味。星の話。神話。無限に近しい歴史の積み重ねと、光年の彼方の夢物語。遠い。遠すぎる。
手元のこれを読み切っても、彼の興味はまだ続いているだろうか。
悠長が過ぎる。余生を過ごすには、いいのかもしれない。新しいロケットが必要になるときが来るかもしれない。
だが、それは今じゃない。
人生は短い。
疾駆の準備の最中に思う。走るという行為において、ただ走り続けるのでは効率が悪い。筋力の強化やフォームの確認、調整が必須になる。一瞬の疾走の為に人生の多くを費やす。だが、人生は短い。特に、オレの人生は短すぎる。
イオタの人生は長そうだ。カンバスに何かを描けなくなるのは、指先が震え出してからだろう。
クスィはどうか。音が聞き分けられないほど耄碌したら、その生から意味が途絶えるのかもしれない。
ニュゥは? 一番長いかもしれない。データの蓄積と解析は一生続く。続き続ける。生きれば生きるほど積もり積もる。
ディガンマの人生は、そういう意味では始まってすらいないのかもしれない。不憫か? 違う。あれは、芽吹くための準備こそが人生だ。
ラムダ。あいつは【ライブラリ】さえあればあとはどうでも良さそうだ。【ライブラリ】のためにラムダが生きているのか、ラムダのために【ライブラリ】があるのか。
そして……キィは、どうなのだろう。生きているのか。生きていられるのか。耐えられるのか。
オレには、無理だ。
人生は短い。
走るための能力は、あと七千日も保てばいい方だ。走るだけならいい。速く走るための能力は、そのピークはその半分くらいが関の山だ。その間に敵を打倒しうるのか。そして、その先の生は、なんなのか。ナロウダウンが特化した己を発揮できなくなった時、それは生きていると言えるのか。
オレはその間に、人類の遺した記録を打ち倒せるできるのか。そのオレを、オレは何度越えられるのか。
走る。
今だけは、不要な全てを削ぎ落として。
走る。そのために、走る。
それは、生だ。
これが、オレの生だ。
これだけが。
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