どこにもないここ
そこにあるのは分厚い塵。ごく薄い空気。人類が残した高速のゴミ。あとは強い宇宙線。水蒸気はもうちょっと下に溜まっている。
勿論、神はいない。
不在の証明がされたわけではない。存在すると確定したわけでもない。
どちらでもいい。
肋骨をさする。
ぼくらはもう、終わってしまったから。
「消灯時間だ。キィ、起きてる?」
館内放送で話しかけてくるニュゥ独特の高い声。
壁という壁を埋め尽くす本棚。膨大な本棚にみっしりと詰まった本。道という路に散乱した書物の数々。その一角、床が辛うじて露出している場所に寝転がり、思う様読み耽ってはそのまま眠る。ぼくの生活の半分はこれだ。開いた本をアイマスク代わりにしているから、傍目には寝入っているのか覚醒しているのかはわかりにくい。けれど、仰向けになっているぼくの状態はニュゥならすぐにわかる。わかるが、彼女はそれをしない。彼女の観測はあくまでも主観であることを旨としている。そして、彼女はとても慎重で周到だ。傍目には。
「【ライブラリ】、部屋までの通路だけ照らしてもらっていいかな」
「受諾しました」
いつものやりとり。呆れとも諦めとも、家族ならではの慈愛、友愛の表れとも聞こえるニュゥの吐息。
「ニュゥ。ありがとう。今日は完全に寝てた」
立ち上がる。その拍子に、胸の内に置いてあった銀色のパックが転がる。
「起きてようが寝てようが同じだろ」
「まさか。もし起きてたら、イオタに余計な手間を取らせない」
くすりと笑う。
「それに、お小言を言われることも多分ない」
「キィ。夕食の摂取が規定の時間にされていません。健康維持を心掛けてください」
「ほらね」
確かに空腹だ。
でも、
「パンとワインだけで生きていると言えるのかな」
「キィ、そういうの、いいから。そもそも食わないと娯楽も何も無い。それにあんたは、本読んでたら食事忘れることもある」
「確かに」
その通りだ。
その通りだけれど。
ぼくらは、まだ生きているのか?
味のしない乾燥しきった栄養の塊と、それを流し込むためのこれまた完全栄養食補完品である液体を、口に含んで喉の奥に押し込んだ。
生きている実感は持てなかった。
「【ライブラリ】、イオタはまだ起きてる?」
「はい。部屋にいます。カンバスに新作を作成中です」
「ありがとう」
進路変更。真っ暗闇を光りが切り裂く。歩くべき道が拓かれていく。暗夜はまるで深海の如く、歩を進めればそれだけで光に照らされていく。ほどなく闇の海が途切れ、花咲く大地へとたどり着く。
ノック。ノック。小さく。こんな雑音で崩れるほど脆弱な世界しか持たない相手ではないと知りながら。
【ライブラリ】のことだから、きっとイオタに連絡はしているだろう。彼も消灯時間直後に寝るようなタイプじゃない。けれど、会いたくないと言うならぼくも引き下がるくらいの分別はある。
苦笑。【ライブラリ】の行動とイオタの性格を鑑みれば、こんな心遣いは思いやりどころか、ぼくのわがままの言い訳にしかならない。だってほら、
「起きたか」
扉が開く。中は明るい。ベッドに座ってカンバスに向き合っていたのだろう。
「いつもありがとう」
「なら食堂に来いよ」
いつもよりなんとなく不機嫌そうだ。普段は口調だけの刺々しさが、今は本気で虫の居所が悪く見える。
「邪魔だったならごめん。じゃあ、ぼくは」
あー、と声を上げ、さして高くもない天井を仰ぐイオタ。
「待て。待て待て。ごめん。悪かった。違うんだ。そういうんじゃなくて」
「うん」
言葉は偉大だ。だから、練り上げるまでにどうしても時間がかかる。イオタやクスィは特に、言語以外にも美しい言葉を持っている。翻訳に手間取るのは当然だ。
「絵のさ」
「うん」
きっと、誕生日プレゼントのことだ。みんなの瞳の色をした花の絵。ぼくらが十四歳になった記念。彼なりの祝福。彼だからこその才覚。
「お礼というか。そういうのもらって」
繋がる言葉を一瞬待つ。
宙に浮いた言葉の背中を撫でるように押す。
「誰から?」
なんとなく恥ずかしげな彼。その表情に興味が先行する。
この顔を見て、ニュゥなら何か察するのだろうか。彼の感情、彼の思い。
「……クスィ……」
なるほど。
「羨ましいな」
「……音源、送るか?」
そうじゃない、と手を横に振る。
「プレゼントを贈り合う相手がさ」
それはきっと、生きているという事実そのものだ。その生が何たるか、ではない。ただ、事実。横たわる現実よりも、ここにある確かなもの。
「それで、」
「聞きながら絵を描いていた、と」
「うん」
頷く彼。なら、
「どうして贈り物をしようと思ったんだい?」
「深い理由があったわけじゃないんだ。ただ」
「丁度いい口実が誕生日だった、と」
「誕生日? あぁ、そういう言い方もあるのか」
言い方。なるほど。つまり、彼は。いや待て。誰なら?
「口実はまぁ、そうなんだけど」
言葉が続く。ぼくの思考は、言葉は途切れる。
「なんでもいいんじゃないか。そりゃ、きっかけはあるに越したことはないけど」
でも、と。
「気持ちって、なんかこう、勝手に湧き出てくるもの、だろ」
「うん。そう、だね。そうだ。理由は後付でいいか」
神妙な表情と向かい合う。
「イオタ?」
「キィ。お前、誰に何を贈るんだ?」
彼の心配はもっともだ。でも、
「あいにく、クスィとはそもそも喋る機会が無いからね。彼のことはよく知らないんだ」
「そ、そういうことじゃなくて! だから、その」
わかりやすい人だ。
「ニュゥのこと、どう思ってる」
「え? あぁ。ニュゥか。わからんやつだと思う」
飯は一緒に食ったほうが美味いだろ。彼はそう言ってのけた。
「そうかー。彼女、何を贈ったら喜ぶかな。ぼくはほら、君達みたいなタイプではないから……」
「オールマイティ型も悩むんだな」
「そりゃあ……」
曖昧に笑う。苦笑いになってしまわぬよう、細心の注意を払う。君と同じ悩める十四歳だ。
「ナロウダウン型にいない分野がわかりやすそうだが。まぁ、なんでもいいだろ。大事なのは気持ちを具体化することで。えぇっと、なんだ」
「はじめに言葉があった」
「それだ。暗闇では理解できない。だから」
明確な形とパターンさえあれば、理解に追いつく。分解可能なら把握できてしまう。なら。それならきっと。
「ありがとう」
「いいよ。明日も同じ場所で居眠りか?」
「多分」
「じゃ、また明日」
「また」
互いに片手を上げ、別れの挨拶。擦過音でぼくらは夜に分かつ。廊下の明かりは白々しくぼくを照らしている。ずっと。
結局、発想を逆転させることにした。
「つまり、ぼくは君達とはタイプが違い過ぎる。だからむしろ、聞く側に回るんだ」
本を片手に廊下を歩く。時刻は昼前。空はいつもどおり。今日は曇り。手ぶらのイオタと並び、見繕ってきた本を横目にニュゥの部屋へと向かう。
「それ楽しいか?」
「きっと楽しいさ」
ふうん、と興味なさげな彼。新作の題材になるかもしれないから、と無理に引っ張ってきてはみたものの、失敗だったかもしれない。何より、ニュゥの気持ちはイオタに向いている。
二人が退屈でなければいいのだけれど。
ぼくの心配をよそに、彼はずんずんと進む。窓からの音は風だけ。灰が飛び交い風景はどんよりと濁っている。もっと、光りが欲しい。暗闇では理解できない。
「ニュゥ」
扉の前で呼びかける。ノックすらない。これは随分先を越されている。そんな気がする。危機感は――。
「イオタ」
彼女の声に合わせ、扉が開き、
「やぁ」
待っていました、と言わんばかりの表情と声で迎え入れられた。
「二人で来た」
「見りゃ判る」
「邪魔かい?」
「「まさか」」
真っ暗に近い部屋の人口密度が三倍になり、簡単な食事……食事らしきものをもそもそと摂る。
「味、変わらないぞ」
「味蕾への刺激如何じゃないんだって」
みんなで食事を摂ると味が変わる、とはイオタの弁だ。
「人はパンのみにして生きるに非ずって言うじゃないか」
男二人でなんとか熱弁してみる。
「お前らがうるさいことしかわからないよ」
灰色の空を映した窓からの、薄ぼんやりとした明かりに照らされた彼女の横顔。永遠に閉じられた瞳。長い睫毛。それに微笑が混じっただけで、ぼくには十分過ぎた。
午後は結局、三人でプラネタリウムを鑑賞して過ぎていった。より正確を期す表現をするなら、寝ているイオタを端に追いやったあと、ぼくはニュゥが楽しそうに喋る様子を眺めていた。
光点一つ一つへの呟きは次第に、星々の繋がりを示す言葉となり、星座と星座同士の逸話に変容し、光りの渦全てへの壮大な神話の講演へと変わっていった。
専門的な内容は理解の足掛け程度にしかなっていない。それでも、彼女がいきいきと話す様を見るのは楽しかった。
「とまぁ、こんなかんじ」
「なるほど」
「人に説明するのは初めてだから、上手くいかなかったろうな」
すとんと座るニュゥ。長い髪が椅子に腰掛ける。
「イオタ、途中で寝ちゃってたしね」
「あぁ……まぁ、時間はいくらでもある」
僅かに顔が陰る。見逃す理由は無いが、言及する必要もない。
「楽しかった?」
「それはこっちの台詞」
「同じ答えだよ」
「それは、うん。その」
恥ずかしそうにする彼女の表情は、髪で隠れてしまった。
「でもな」
「でも?」
「全て、残光なんだ」
「あぁ、そうだった」
「だから、」
「でも、だ」
「でも、か」
「そうだよ」
「そうだな」
越えられない曇り空を、ぼくらは二人で見上げた。
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