灰の空
観測。
結果はいつも通り。観測自体を私が担当したのはたったの四一〇二日間。それでも、常に変わらない計測結果が出る。
即ち。
人類最強の発明は世界を終わらせた。それだけでなく、己の未来をすら閉ざした。太陽系第三惑星に残っていると確認されているのは、人類最後の発明こと人類史保存機構【ライブラリ】とその中身。たったそれだけ。
センサー類をオフ。非常灯の緑だけが暗く光る。まるで深海。明かりの主はどこかへ逃げようと必死だ。
一体、どこへ行こうというのか。
私の居場所には行けるだろうか。
「てのひらを、たいように……」
翳してみれば、見えるのだろうか。私の生きている証が。
ここに、陽はささない。永遠に。
「ニュゥ」
ドアの外。声。私達の平均的な音程よりも低めの音。いつもの声を検知。
「イオタ」
私の声に合わせ、扉の開く音。同時に椅子を回転させる。振り向きざま、長い髪に重力が掛かる。記号。もう無意味な。それでも、私はこの記号に意味を見出さずにはいられない。
「ニュゥ。飯の時間」
「ここで食べるから」
あぁ、と声。
「ちゃんと食えよ」
右手を伸ばす。支えられる手のひら。触れる指。パックと、液体の入ったボトル。食事。糧。否、燃料。
「摂らないと【ライブラリ】がうるさいからな」
再び私の記号を揺らす。顔を背け、両腕を組んで黙考のふり。血流量の増えた耳の先端が見えないように。
灯りの点いていない部屋だ。そうそう簡単に、私の気恥ずかしさは見えないはずだ。
「……暗く、ないか」
「私には暗くないよ」
「ならいい。またな」
音。金属がスライドする。そして甲高い静寂。無音が耳に刺さる。
大きく息を吐く。顔を真上に向ける。今日は曇り。今日も曇り。太陽はどこかへ行ってしまった。この部屋は再び曇天に沈む。否、居場所は判っている。けれど、探しに行く口実はもう、人類に残っていない。
苦笑。微笑。
右手を軽く握り、開き、
「観測機の映像を」
【ライブラリ】は窓に青空を映す。成層圏。灰色に凍える地球と、悠久の時を経て尚変わらぬ宇宙の境目。どこにも行けない無限の空。ここはきっと私の場所。ここでいい、私の場所。
「ニュゥ」
少し低い声に驚いて跳ね起きる。時計を呼び出す。まだ食事の時間じゃない。今日はまだシャワーを浴びていない。今日の服はまだクローゼットから出してすらいない。まだ時計のアラームも鳴っていない。いつもの時間の一時間前にはセットしている。鳴っていない。つまり。
「だめ」
「えっ」
「まて」
扉と部屋の境界線。観測室の闇は廊下の無機質にも柔らかな光りに侵食されている。
イオタは六人の中で一番遠慮なく部屋に入ってくる。だから、いつもならいつも通りの時間に、こちらの返事を待ってから入ってくる。しかし、今は扉を開けたまま、部屋と廊下の境界に立っている。つまり、私の言葉を待たずに扉を開けた、という事態が発生している。
想定外だ。予想だにしていない。
「準備がある」
「なんの」
なんの。なんの、と問うたか。この男は。
「待て」
「どれくらい」
ざっと。
「一時間くらい……」
「なら、飯」
「あ、そうか。一時間だとその時間か」
落ち着きを取り戻す。イオタの言葉が宙をさまよう。しとしと、ゆっくり舞い降りる。
「なら、一緒に食わないか」
「理由がない」
「こっちにある」
「今、ここで言え」
無呼吸の応酬は沈黙で終わった。
「待つから。飯、取ってくる」
あ、と喉の奥で揺れた音。消えかけのそれは言葉として認識されず、私の耳にすら届かない。
上手く喋れない。どうしても。
くそ、私は人類最後の発明の、その一部だぞ。
「明かりは無い方がいいか?」
「暗いほうが、落ち着くから」
余りに余っている椅子。適当に腰掛ける。距離、三メートルを計測。一瞬で届く無限の距離。
緑色の非常灯。逃げ出したいならどこかへ行け。
「これ」
カンバスがスリープモードから再起動。接続。
「花?」
どこにもないもの。ここにある偽物の命。
思わずカンバスに顔を向ける。キャスターが回転する。距離、二メートルを計測。
「ん」
別の椅子の上に置かれたカンバス。その椅子は背もたれを押され、私の方へと向かってくる。走ってくる、私に触れたあの指から生まれた花。彼我の距離は縮まらない。
「左から二番目」
茶色い……なんだろうか。図鑑が無いと正確な名前が判らない。
「地味な色」
端的な感想。無味乾燥ではない。そういう色ではない。多分。けれど、この花は事実ではない。
理由が、
「綺麗だろ」
観測。口の端を持ち上げて、誇らしげに。
推測。その表情に視線を固定、脳が加速。
「あ」
理由が、見つかる。
「全部、綺麗だろ。偽物で、紛い物で、下手くそだけど。それでも」
全部。
「誕生日っての、知ってるか」
「あぁ……うん。全部、綺麗」
観測。
結果はいつも通り。この感情の名は、嫉妬。これはきっと、人類最悪の発明だ。
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