空の箱
くろかわ
長雨の季節
知らない絵を描く。
知識でしか知らない風景。文章にしか残っていない生き物。データの中でだけ生きる植物。人。物。建物。催事。行為。
俺たちに許された数少ない自由。それは、遺すこと。とっくの昔に自殺した人類と、それに付き合わされた地球の、今は亡き輝かしき光を。
絵筆を置く。モニタの中のカンバスに映る取り取りの花々を眺めて、溜息が漏れる。
【ライブラリ】に残った写真からインスピレーションを得て、自由に形や色を変えて描かれた、偽物の紛い物。
背もたれに体重を預け、出来上がった出来損ないを少し遠くから眺める。
技術的には完璧だ。知っている全ての技を、人類の積み上げた業を総動員して描かれた抽象画。もし、何億年か後に宇宙人がこいつを見つけたら、なるほどこの星にはこんなものがあったのか、と感心するだろう。
だから、つまらない。
そう思った矢先、【ライブラリ】に勝手に保存される。どんな失敗作でもそうだ。【ライブラリ】が己の存在理由を成し遂げたところで、俺は額に手を当てる。
再び、溜息。
「素晴らしい出来です、イオタ」
「そりゃどうも」
そして始まる賛辞の数々。技術的な部分から、色に込められた意味まで全てぴたりと当てて、更には敢えて使うことを避けた表現にまで話が及ぶ。つまり、
「【ライブラリ】」
「はい。イオタ。賛頌すべき点はあと74あります」
「DC権限による命令。即刻それを停止しろ」
「受諾しました」
つまり、こいつは俺の絵を完璧以上に模倣できる。否、こいつに保存された遺伝子データの複合品である俺たちが、こいつの模倣に過ぎない。保存されるべき人類。そのための完全なデータベース。新しいものを生み出すのに人間すら必要ない、複雑な機械の回路。独創性すら備えた仮想空間上の疑似神経。思考するものとしての人間の、上位互換システム。
俺よりも絵の上手い、そして俺が永遠に追い付けない、絵画の教師。
雨の音が嫌にうるさい。
完璧な機械を入れておくための堅固な建物はご丁寧に、不純極まりないタンパク質の塊のためだけに外の音を拾ってくる。
天気なんてここ百年近くの間、三つのパターンしかないというのに、だ。
曇り。雪。雨。繰り返し。繰り返す。時間だけが進む。摩耗だけが刻まれる。
立ち上がって、目的を果たしに行こう。決意を固めるために呼吸を一つ。吐いて、吸って、軽く息をつく。
「入っていいか」
ノック。軽く。部屋の中から音はなくとも、あいつの頭の中の旋律を邪魔したくもない。だから、優しく。
「イオタ?」
鈴の転がるような、音色。
「ああ」
それに凡庸な声で応える。
「どうぞ」
開く扉。開けた空間。目に入るのは巨大なピアノ。幾重にも重なる鍵盤。巨体を包む妙な形の壁。ただ、音楽のための空間。俺とは別の、人類の堆積。その結実。
「邪魔するぞ」
「邪魔なんて」
言葉のやり取りに雨音が混じる。
「何、してたんだ」
「雨、聞いてた」
窓まで開けて、外の風景を映しだしている。何一つ変わらない、俺たちが生まれてから、そして死んだあとも何も変わらないだろう風景を。
好きなのだろう。変わらないものが、ではなく、風景そのものが。
ピアノの前に立ち、カンバスをスリープモードから起こす。
「今日は何の日か知ってるか」
「今日?」
きょとんとした表情。
「一年は三六五日。昔は三六五日毎に、生まれたことを祝ったんだとさ」
そういって、花の絵を見せる。色取り取りの花々。そのなかに、
「これ、」
「ああ、」
「みんなの目の色」
「ああ」
蒼い目を細め、ほんのりと口の端を持ち上げるクスィ。
「あっ、でも」
「ん?」
「うるう年って知ってる?」
なんだそれは。そう言いたげな表情が顔に現れたのだろう。
「地球の公転周期に合わせて、千四百六十日毎に一日だけ三六五日周期を伸ばすんだって。つまり、」
「生誕祭は、三日後……?」
唖然としたあと、憮然としてしまった。そして愕然と肩を落とす。
「いいんだよ」
「よくねぇよ」
「イオタに祝ってもらえたんだから。誰よりも早く」
勘違いだけどな、とは言えなかった。真剣な蒼い瞳に射抜かれたから。
「ありがとう」
「ら、【ライブラリ】の方が上手い」
「お返し、聞いて欲しいな」
「あ、ああ」
「【ライブラリ】に弾いてもらおっか」
「えっ」
まただ。表情にすぐ出る。悪い癖。わかりやすい。情けない。
「ね」
「ああ」
俺も、お前の音が、
曲が始まる。
穏やかで、たおやかで、それでいて心臓に響く。耳は心地いいのに、胸の奥を掴んで離さない。クスィの、彼だけの音。
「どうだった?」
余韻を一分。
「やっぱり、雨は嫌いだ」
こちらを見上げる蒼に応える。
「お前の音だけ聞いていたい」
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