第12話〈常世部屋〉
*
よく磨かれた大理石の廊下に、二つの足音が響く。一つは質の良い革靴のカツカツという足音。もう一つは厨房用安全靴のキュッキュッという足音。
「違う、そうじゃねえ……なんでお前はそんな大事なことを今更言うんだって話だろうが」
「今更じゃないよ。すぐに各部署に電話連絡いったでしょうよ」
革靴を履いた黒スーツ姿のレイイチは、コック服を着た仏頂面のリュウの言葉にすかさず言い返した。
「それにしたってお前、こんないきなり〈CS計画〉が始まるなんて聞いてねえよ。昨日のことは昨日言え。これからディナーだって時に急に対応できねえよ」
「もう、リュウはしつこいよ。性格の悪い女と話してるみたいだ」
「ああ? 誰が女だって?」
眉間にしわを寄せ、不機嫌そうなリュウと違い、レイイチの顔はさらっとした真顔のままだ。
「だいたいね、緊急電話が鳴ったら全ての業務を中止して電話に出ること。これ鉄則だよね。客室係もフロントもすぐに出たのに、厨房だけが出なかった。出なかった自分が悪いとは一度もお考えにならない? ちなみにこれは今朝の話。もうグループ社員の方は全員が知ってると思うのが普通だよ。確かに今日は渡辺シェフが休みで、厨房の責任者はスーシェフの君だけど、もう二人ほど全体仕切れる人がいるのはシフト表見りゃ誰でも分かるよ」
「だから忙し……」
「忙しいってのは理由にならないよ。こういうときのためにホテル社員は足りてるはずだからね。それにさ、時間になっても来ないから加藤君が直接呼びに行ったのに、怒鳴って帰したらしいね。それもどう説明する気?」
白い壁には煉瓦造りの柱が等間隔に並び、間にはアンティークランプと高そうな絵画が奥までずらりと並んでいる。リュウはレイイチの性格をうっかり忘れていた自分を呪った。一攻撃すると十反撃してくる男なのだ。
「それは無断で厨房の中に入ってくるから、衛生的に……」
「その説明、そっくりそのまま会長に言えるの? ……リュウは雑なんだよ、人に対してさ。そんなんだから女性関係もすぐに終わっちゃうんだよ」
いつものことながら、口ではレイイチに敵わない。
「そりゃ関係ねえだろ」の一言はもう勢いを失っている。
「あるんだよ、バカだなリュウは。人の立場に立って物を考えることが出来るのを大人と呼ぶの。それは仕事も恋愛も一緒。あと思ったことをすぐ口に出すのも悪い癖だよ。理詰めされると綻びが出てきて、やがては自分の首を絞めることになるんだから」
「分かった、もう何も言うな……」
「それとそのコックコート汚すぎ。そんな格好で会長の前に立てる君の神経が分からないな」
さらに追い打ちを掛けられ、リュウは降参のため息をついた。
リュウとレイイチがその部屋に着いたとき、他の主要なメンバーはほぼ集まっていた。
体育館ほどもあるその部屋は、手前半分が研究室となっており、数えきれないほどのPCや機材が所狭しと置かれている。タイル張りの床には大小様々なケーブルが蛇の大群のようにのた打ち回っていて、まともに歩けもしない。おまけにサーバーの排熱で空気が生ぬるい。
反対に奥の半分は、床も壁も天井も天然の黒い岩肌でごつごつしており、どこからともなく水が染み出てひんやりしている。天然の洞窟に無理やり部屋を作ったような奇妙な空間……そこはリュウやレイイチたちには〈常世部屋〉と呼ばれていた。
メンバーはその部屋の中心付近に集まっていた。
「ウエムラ会長、リュウとレイイチが来ました」
二十人ほどの人垣の中で一人、黒いガウンを羽織り、ベンチに深々と座っている老人に、秘書のエリが報告した。
プールから上がったばかりのように全身が濡れている老人――――レイイチたちが会長と呼ぶ人物が、視線だけをゆっくりと上げた。その目は獲物を狩る虎そのもので、自然と部下たちの背筋が伸びる。
「遅れて申し訳ありません」
リュウが機械のようにきれいに頭を下げた。
「今日のメインメニューは?」
感情の読めない、低くよく通る声だ。
「鹿肉とフォアグラのロースト、旬のキノコを添えた赤ワインソース仕立てです」
「使った鹿は?」
他は静かに二人の会話を聞いている。
「一歳の雌鹿です」
「獲ったのは?」
「私です」
ウエムラは目を閉じ、僅かに口角を上げた。
「なら仕方ない。――――始めようか」
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