第8話 それは、まるで夢のように。

 航海は順調に進んだ。ロンドンを去って一週間もしないうちに大西洋の真ん中へ出た。公海などという概念は国際法上もはや存在しなかった。それゆえいかなる勢力の索敵範囲からも遠く離れた場所は貴重だった。その日、艦長は朝の定例会議でヨハンたちにこう告げた。

「『敵』の索敵範囲外へ出た。今夜正午に浮上し、日没後一時間まで洋上にとどまる」

 この話は間もなく艦内放送でも繰り返され、乗組員はとたんにそわそわし始めた。長い午前中が過ぎ、やがて正午になった。ドローン(小型の無人飛行機)やミニサブ(無人潜水艇)で安全を確認してから、ノーチラス号はゆっくりとその船体を浮上させ、正午三十分過ぎ、皆が歓声を上げる中海面へと姿を現した。艦長が当直員以外はハッチから出てよろしい旨放送で伝えると、皆の興奮は頂点に達した。ヨハンもリーナに引っ張られるようにして外へ出た。リーナは水色のワンピースに麦藁帽子をかぶり、サンダルを履いていた。とてもかわいい、とヨハンは思った。ヨハンはベージュのズボンと白いカッターシャツを着ていた。二人は甲板の手すりにもたれかかって、どこまでも続く碧い青い海を眺めた。

「あ、イルカがそこに、ほら」

「本当だ。ついてくる」

 イルカの群れはざっと十頭程度、涼しげに海面から鼻先をのぞかせながらノーチラス号についてくる。と、一頭が派手に水しぶきを上げて海面からジャンプした。残りのものも真似を始める。

「楽しそうね。あたしもあんな風に泳ぎたいわ」

「海で泳いだことあるのかい?」

「ええ、基地についたらあなたも泳げるわよ」

 ヨハンが当直になるまで二人は飽きもせずに海を眺め、すがすがしい空気を存分に吸った。


 その夜、ヨハンの勤務が終わると二人は連れ立って夜の甲板へ登って行った。なぜか甲板は空で、人気が一切なかった。昼と同じように並んで甲板の手すりにもたれている二人には、月が淡く照らし出した世界がまるで夢の中のように思えた。

「ね、お月さま、すてきね」

「うん」

 リーナは丈の長い紺のドレスを着ていた。その青い色が闇の中に吸い込まれて消えてしまいそうに思えて、ヨハンは思わず涙をこぼした。

「どうしたの?」

「うん、ちょっと砂が目に入った」

 そういって眼鏡を取ろうとするヨハンの右手を、リーナがつかんだ。

「砂なんかどこにもないわ」

 そういうリーナの声もわずかに震えていた。

「ね、本当のことを言って」

 ヨハンは彼女と向かい合った。涼しげな夜風のにおいに、リーナの洗い立ての髪の香りが混じっているのにヨハンは気づいた。

「君が、君が消えてしまいそうで怖い」

「大丈夫よ、あたしはここにいるわ」

 そういって、リーナはそっとヨハンの目をのぞき込んだ。その目に黄金色に輝く月のしずくを認めたとき、ヨハンの胸中で感情が堰を切ったようにほとばしった。あふれる思いに身を任せ、ヨハンは初めてリーナを抱きすくめた。リーナがそっと抱き返す感触を、その心臓の鼓動を、ヨハンは全身で感じた。この悲しくも切ない思いをどうすればいいかわからなくて、ヨハンはただただ彼女を抱きしめた。

 無言の数分が過ぎ、ついに二人は身を離した。そうして二人は月を見やった。海面には月の光が反射して、まるで金色の道のように見えた…

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