第3話 それは、通勤には不便だけれど。

「そう、私は体調不良を理由に青年団に入らなかった」

 リーナは不思議そうに彼の目をのぞき込んだ。その時だった。工場のサイレンが鳴り始め、廊下をあわただしく走る音が聞こえた。ヨハンは自分でも驚いたことに、立ち上がるとドアに向かい、内側から鍵をかけた。

「何をやっているの!」

 リーナが驚いて叫んだ。

「そんなことしたらあなたもあたしの共犯者になるのよ!」

「そうさ。共犯者になってやる。だからそこをどいてくれ。デスクを動かす」

「じゃあ、兄さんを殺したのは…」

「おそらく人民保安部だ。ほら、手伝って」

 二人はデスクを引っ張って扉の所へ運び、バリケードにした。

「君の素性は人民保安部(やつら)にどれだけ知られている?」

「あたしの顔は知らないわ。でも、身分証が偽造品なの」

 そうしている間にも廊下の向こうから扉を乱暴に開く音が聞こえはじめてきた。どうやらしらみつぶしに捜索するつもりらしい。

「このままじゃ袋のネズミだわ」

「それはどうかな」

 そういうと、ヨハンは椅子に乗って天井のパネルを外した。

「通勤には不便だから今まで使ってこなかったが、逃げ道としては悪くないだろう」

 ヨハンは手を差し伸べてリーナを引っ張り上げると、二人して天井裏へ入り込んでパネルを元に戻した。

 三十分後、埃まみれになった二人が姿を現したのは工場の裏手にある配管のバルブを集めた小さな小屋だった。二人は埃や砂をはらい落とすと、何食わぬ顔をして工場の裏手にある森に入った。森の中は鳥の鳴き声や川のせせらぎで満たされ、一見平和そうに見えた。ところが、森を半分ほど抜けたころ、数百メートル先から物音がし始めた。幸いなことに向こうは風上であったが、二人は用心のため身をかがめた。

「やり過ごすか?」

「ええ、でも万が一の時はこれを」

 そういって彼女は小さな瓶を渡した。中に胡椒が入っているの、犬に効くわ、と彼女は説明した。二人は息をひそめて「敵」が通り過ぎるのを待った。

 似たようなことが数回あった後、二人はようやく森を抜け、河岸にたどり着いた。森から岸辺に降りる急峻な崖を二人で助け合って下ると、河の沖合百メートルほどから泡が立ち始めた。その泡を出している「何か」は見る間に近くなって、沖合二十メートルほどで止まると、泡を吐くのをやめ代わりににゅっとパイプのようなものを突き出した。潜望鏡だった。リーナが大きく両手で円を作り、急いでくれ、というような身振りをしてからヨハンを指さすと、潜水艦はゆっくりと浮上して小さな空のボートを送ってよこした。二人はそれに乗り込んだ。二人を乗せたボートが潜水艦についたと思った瞬間、銃声が河面にこだました。はっと振り向いたヨハンは、左腕を銃弾がかすったのを感じた。敵は一人、森の中から撃っている。距離は二百メートル程度だが、かなりの腕利きである。

「早く、入って」

 彼女がそういうのと同時に潜水艦は両舷から大きな水柱を出した。バラストタンクを介して圧縮空気を放出することで二人に煙幕を張ってくれているのだ。二人がハッチから艦内に入ると即座に潜水艦は潜降を開始し、同時に最大速度で前進し始めた。

 潜水艦は見たところ全長六十メートル程度の小型艦で、装備も二十年近く古いものだった。おそらく、先の大戦の遺物だろう。

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