第9話

 水飛沫を上げるように文字を飛び散らせながら、世界の核から女の子が飛び出した。

 アリスだ!

 トップハットが飛ばないように手で押さえながら、頭から落ちてくる。

 めちゃめちゃ高いけど大丈夫? なんて心配はするだけ無駄なんだろうなって思ってたら、案の定アリスはくるりと回って、ふわっと私の前に着地を決めた。


「千理!」

 目が合った途端、アリスは満面の笑みを浮かべて、両手を広げてがばっと抱き付いてきた。

 あれ? なんか、やけに積極的。

「アリス?」

 私を見上げるアリスは、とてもニコニコしていた。全然きりっとしてない。

 もしかして……本来の性格?


「ほほう、こりゃあ一度分解されたもんだから、KJの影響も消えたみたいだねえ」

「そうなの?」

「うむ。この様子なら懐中時計たちも元に戻ってるだろうさ」

 沙也と話ながら、私にしがみつくアリスの頭を撫でる。ずいぶんとまあ、人懐っこい。


 時計針も消えてる。髪型も三つ編みからストレートにリセットされたみたいだ。

 ……じゃあ、記憶も?


「ねえアリス、私のこと、覚えてる?」

 ちょっと不安になって、訊いてみた。

 なかったことになってたら、悲しい。

「うん! もちろんだよ! ちょっと待って……」

 そう言ってアリスは、表情を引き締めた。そして咳払い。

「こんな感じか? ちゃんと覚えてるぜ」


「ほんとだ…」

 すごい。アリスだ。目つきも、声のトーンもばっちり。

 また会えた……! ちょっと、いや本気で感動。

 言い終えると、またにへって笑った。かわいい。

 よかった、アリスはちゃんと、ここにいる。


「本当によかった……」

 感極まって、今度はこっちからアリスを抱きしめる。

 ぎゅっと強く密着すると体温が伝わって、心も体も温かい。

 逃げなくてよかった。心の底から、そう思う。


「アリスちゃん、それに千理ちゃんも、さっきはすまなかった。僕自身、状況を把握しないまま行動してしまった」

 声の方にに視線を向けると、リクティが深く頭を下げていた。そうやって義理堅いところは、物語の通りだ。

「気にしないで。KJを取り押さえてくれて、ありがとう」

「私も、もう気にしてないよ!」

 リクティはアリスを傷つけないようにしていたことは分かったから、何も文句はない。


 沙也の咳払いが聞こえた。

「私も謝っておこう……自分で言うのも何だけど、なかなかアレな事をしたからねえ」

 うんうん頷きながら、沙也がリクティの隣に立つ。

 いつもゆるくて極端な感情を見せないから分かりにくいけど、僅かに申し訳なさが顔に出ていた。沙也と付き合いの長い人じゃないと、多分気付けない。


「千理、アリスちゃん、リクティさんや、騙したりひどい目に遭わせたりと、色々すまんかったね」

 リクティの隣で、沙也もぺこりと頭を下げた。長い髪がだらりと垂れて、毛先が床に届きそうになってる。


 アリスは沙也の方に振り返ろうとしたけど、私にしがみついてるからできない。さすがに首が百八十度回ったりはできないみたいだ。というかできたら怖い。

 私から離れるのかと思ったら、アリスは抱き付いたまま左側に移動してきた。


 意地でも離れないという意志を感じて、ここまでストレートに好かれるとちょっと照れる。それまでのアリスと比べてギャップがすごい。

 左腕を浮かせて、そこにアリスが収まった。


「あのー、聞いてる? せっかく私が誠心誠意の謝罪をしたってのに、それどころじゃないとな?」

 あ、沙也が突っ込みを入れてほしがってる。

「私が誠心誠意、真心を込めてだねえ……」

 やっぱり、冗談言い出した。わざとらしい泣き真似までして面白い。


「ごめん、ちゃんと聞いてるって。いいよ、もう全然怒ってないから。むしろありがとうっていうか、おかげで晴れやかな気分だよ」

 常態化してた心の重りが消えて、取り戻した本来の軽さに驚く。トラウマの克服は、なんだか生まれ変わったような解放感を与えてくれた。


「それに、誠心誠意ってほどじゃないでしょ」

 突っ込みも入れておくと、沙也は満足げな顔になった。

「そうかあ。しかしあれだ、アリスちゃんに千理を取られちゃって、私はジェラシーな気分だよ」

「そんな風には見えないけど」

 冗談ばっかり。いつもの沙也だ。


 さて、KJと決着をつけないと。

 少し離れたところで手足を縛られ、横になってるKJのもとに歩いて向かう。アリスは離れないでついてくるから、ちょっと歩きにくい。

「KJさん……」

 背中を向けているKJは、身体を反らしてこっちを見た。とても悔しそうで、まだ諦めてなさそうな表情。


「千理さん、あなたに話があります。この理想の世界が、いかに素晴らしいものであるかということです。ここは下らない現実と違い、何でも手に入りますし、何だって叶うんです。何より、低俗で愚劣で反吐が出るような人間共がいない! ここは、ストレスのない楽園なんです!」

 誘惑と説得と懇願がミックスされたような言い方だ。

 そんな事を言われても、心は動かない。もう十分に考えて、答えを出してるから。


「千理、分かってるとは思うが、この人間嫌いオジサンの言葉に耳を貸すんじゃないよ」

 人間嫌いオジサン……その言葉で、KJがどうしてこんな事をしたのかがなんとなく分かった。

 KJも逃げ場を求めてたんだ。でもそれはわがままで、許されることじゃない。


「大丈夫」

 沙也の言葉に頷いて、KJを見下ろす。

「私は、夢は夢、現実は現実、創作は創作で分けるべきだと思います。夢を見て、現実を過ごして、創作の世界に浸る。そんな今までの生活が気に入ってたし、戻りたいと思うので」


 かっと目を見開いて、KJが私を見る。

「いいんですかそれで! お気に入り作品のキャラクターとも、こうして会えたんですよ? この世界を続ければ、ずっと彼女らと一緒に過ごしていけるんです! そんな夢のような生活を手放すんですか、あなたは!」

「でも、もう決めましたから」

 KJが声を荒げても、決意は揺らがない。


「私がこの世界で過ごすのは、罪悪感に耐えられないからできません。他人の世界を奪ってまで自分が楽しむなんて、そんなのはダメだと思います。だから夢から覚めて、それぞれの現実に戻りましょう」

 そう言って、アリスを見る。

「それでいい?」


「……うん。私もそれがいいと思う」

 アリスは、ちょっと泣きそうになってた。本当はお別れになるのが嫌なのに、我慢して笑顔を保ってる。

 リクティを見ると、穏やかな顔で頷いてくれた。


「偽善者! あなたは偽善者ですよ千理さん! 下らない倫理観や道徳観で物事を考えるのをやめなさい!」

 縛られたまま、床の上でKJが暴れる。

 大人に怒鳴られるのは怖いことだけど、この状況では何というか、悪あがきにしか見えない。


「こらこら、大人が子供に対して何てことを言うのかね」

 沙也がKJを見下ろしながら、淡々と言う。

「諦めて、世界の核に分解されなよ。次に目覚めた時は、ベッドの上だろうさ」

「ぐぐぐ……!」

 悔しそうに呻いてから、間が空く。みんな沈黙して答えを待つから静かだ。


「…………いいでしょう。今回は諦めます。今回はね……」

 ようやく承諾した。でもその顔は、悪い笑みを浮かべていた。

 沙也の言った通りだ。KJは少しも反省してないし、諦めてもいない。こっちが子供だから、はいはい分かりましたよって具合にこの場を流そうとしてる。


 沙也が私を見て、にっと笑った。何か考えがありそうな感じだ。

 なら大丈夫。何も心配はない。

「じゃあアリスちゃん、KJにさっきのお返しをしてやるかね」

 沙也が、アッパーの動きで拳を真上に突き上げる。

 殴られたから殴り返す。その機会をアリスに提案したようだけど、今のアリスはどうだろう。


「痛かった……」

「そうだよね」

 上目遣いかつ涙目で見つめられたから、とりあえず頭を撫でる。涙は多分、さっきのが残ってるんだ。

 暴力とは正反対な今のアリスにKJを殴れというのは酷だ。というかやらせたくない。


 だから代役を頼もう。

「リクティ、頼んでいい?」

「ああ、いいよ」

 快諾してくれたリクティが、片手でKJを立たせる。KJは抵抗しないけど、目は野望に満ちたままだった。くっくっく、ってまだ笑ってる。


「僕はまだ冒険の途中なんだ。だから元の世界に戻るためにも、あなたには退場してもらうよ。さあ、歯を食いしばって――」

 力強く繰り出されたリクティの右アッパーが、KJの顎を撃ち抜いた。

「ぶべっ!」

 KJの大きな身体が、勢いよく真上に飛んでいく。


「また会い――!」

 何か叫んだけど、最初の方しか聞こえなかった。あっという間に遠ざかったKJは、そのまま文字の星に全身突っ込んで見えなくなる。


「……悲しい男だよ。まあ、同情はしないけどね」

 沙也は、世界の核を見上げながら遠い目をしていた。

私はアリスと一緒だったけど、沙也はKJと一緒に過ごしたから、何か思うところがあるのかもしれない。


「ねえ沙也、後はもう……」

「うむ。この世界は夢だった。そう千理が思ったのなら、目が覚めれば全て元通りだ」

 アリスの方を、ちらと見る。さっきまでよりも強く抱き付いて、顔をブレザーに埋めて黙ったままだ。

 じゃあさよなら、で終わるのは寂しい。


「なら時間まで、みんなで一緒にいようよ」

「うん!」

 がばっと顔を上げて、アリスが力強く賛同してくれた。

 キラキラした瞳に見つめられて、無性に嬉しくなってくる。


「そうだね。僕も、みんなのことを知りたいな」

「なら、あそこで駄弁りますかね」

 沙也が目線で示した先は床の中央で、学校の机が四人掛けのテーブル席みたいに向い合わせられていた。

 沙也って学校の机が気に入ってるのかな?


 着席すると、広々とした空間がこじんまりした教室に変わる。

 現実的な場所だからか、なんとなく落ち着く。見た目って大事だ。

 そしてお互いのことを話しあって、打ち解けた。

 仲良しグループみたいに、机を合わせて語り合う。


 この時間がいつまでも続けばいいな、なんて思ったけど、夢はいつか覚める。

 だから今この瞬間を、全力で楽しんだ。

「……今なら、外の世界も綺麗かもねえ」

「じゃあ、行ってみる?」

 沙也が言うから、確かにそうかもってことで教室を出る。


 扉を開けると、目の前にはどこまでも続く平原があった。

 空はまだ薄暗いけど、嫌なイメージは湧かない。やがて来る朝を待つような、不思議な高揚感があった。


「わあー、広ーい!」

 アリスが走り出した。そのスピードは年相応の女の子で、超人的な身体能力はどこに行ったんだろうって疑問になる。

「しかしアリスちゃんは、性格も身のこなしも随分と違うね。今はとても女の子らしい」

 隣でリクティも、同じことを考えてたみたいだ。

「リクティもそう思う? 性格はKJのせいだって分かるんだけど……」

 ここは、物知りな沙也に訊いてみよう。


「沙也、アリスの武器や戦う力は何処から来たの?」

 尋ねると、駆け回るアリスを眺めていた沙也が振り返る。

「むー、そりゃあ千理の思いか、あるいはどこかのバトルもの作品から混ざったんだろうさ。アリスってのは、結構ありがちなキャラクター名だからね」


 名前が同じだったら、混ざったりするのかな。

「まあ仮説さ。正解なんて誰にも分からんよ」

「そっか」

 あるいは本編には一切描写されてないだけで、実は『時計塔のアリス』の世界には時計針の武器が存在するのかもしれない。


「千理―! こっちこっちー!」

 小高い丘の上でアリスが手を振りながら私を呼んでる。

「今行くから、ちょっと待ってー」

 まあいいや。

 細かい事を考えるのはやめて、無邪気に走り回った。


「そうだ千理ちゃん、アーテスの背中に乗って空を飛んでみないかい?」

「えっ、できるの?」

 さすがに現実離れしすぎて、イメージできない。

 でも、やってみたい。すごく楽しそう!

「アーテスってなあに?」

「リクティの相棒で、ドラゴンだよ――って、わああ!」

 突然強い風が吹いて、よろめく。


 何事かと思って見上げたら、とんでもなく大きなドラゴンがばっさばっさと羽ばたきながら地上に降りてきた。

「はあーこりゃまた、リクティはすごい生き物と友達なんだねえ」

「おっきーい!」

 首を曲げてこっちを見下ろすアーテスに、感心する沙也とはしゃぐアリス。


「アーテス、この子たちを背中に乗せて飛んでほしいんだけど、いいかな?」

「……お前の頼みならば、仕方あるまい。今回だけだぞ」

 おお、アーテスの声って思ったよりもダンディ。


「ほう、日本語話すのかね」

「喋った! ねえ千理、アーテスが喋った!」

「そうなんだよ。アーテスは人の言葉が話せるの」

 私は作品を読んでるから驚かないけど、沙也の物事に対する動じなさはすごい。

夢だからといっても、喋るドラゴンを前にして平然としてるのは逆にこっちが驚く。


「さあみんな、乗って。落ちないように気を付けてね」

 脇腹あたりにある縄梯子を使って、みんなでアーテスの体に登る。

 ごつごつとした緑色のウロコがびっしりで、背中も広々。

 前からリクティ、沙也、私、アリスの順で一列になって座った。


「揺れるから、しっかりつかまってて」

 そうリクティが言った途端、大きく縦に揺れた。大きな翼が、力強く空気を捉えて、浮力が生まれる。

「と、飛んだー!」

 アリスが楽しそう。

 こんな夢のような体験は、現実じゃできない。


 きゃーきゃー私とアリスで言いながら、大空を行く。

「どうだいみんな、気持ちいいだろ?」

「うん、最高!」

「たのしー!」

「はっはっは。気分爽快だ」

 さっきまで立っていた平原が、遥か下にある! 高い!


「アーテスの頭、遠いね。話すの大変じゃない?」

 首が長いから、背中に乗ってても大声を出さないとアーテスの耳には届きそうになかった。密着してるのに距離がある。

「アーテスは耳がいいから、別に大声を出さなくても会話できるよ」

「へえ……」

 ドラゴンってすごい。

 そんな感想を抱いていると、平原を抜けて街が見えてきた。


「む、ヨーロッパ? これはロンドンかね」

「ヨーロッパ? ロンドン? それが君たちの町の名前かい?」

 夜明け前の街並みを空から一望して、沙也とリクティがそんな会話をする。

「あっ見て! 時計塔!」

 アリスが叫んだ。左前方に、白く高い時計塔がある。


 瓦礫の海で見た時計塔はぼろぼろだったけど、今の時計塔は本来の立派な姿だった。

「みんなー!」

 アリスが手を振る。

 時計塔の屋根には、ジェームスたち懐中時計の職員たちが全員揃っていた。こっちに向かって、みんなで手を振ってくれる。


「よかった。元の優しい性格に戻ったんだ」

「うむ。分解されて再登場したんだろうさ」

 誰か屋根から滑り落ちないか心配でもあるけど、笑顔で手を振り返した。

「ここはアリスの町だよ」

「そうなのかい? 綺麗なところだね」

 時計塔を通り過ぎ、離れていく。見えなくなるまで、手を振り合った。


 また景色が変わった。

 今度は、私と沙也が暮らす町だった。

「夜明けだ……」

 ぽつりと呟く。

 町の向こうから、朝日が昇ろうとしていた。


「名残惜しいけども、そろそろ終わりだねえ」

 目覚め。つまり夢の終わり。

 境界のない理想の世界が、境界を取り戻す時。


 公園の広場にアーテスは着地して、みんな降りる。

 気付けば、この広場以外が真っ白になっていた。空も、地面も、周りの全てが消えている。


「短い間だったけど、楽しかったよ。アーテスもそう思うだろ?」

「まあ別世界の景色というのは、なかなか良かったぞ」

 みんなでリクティと握手して、アーテスを撫でる。


「ばいばいリクティ、アーテス。ありがとう」

 リクティとアーテスは広場の外へ、真っ白な世界に向かって去っていった。そして見えなくなる。手を振って、アリスと沙也と一緒に見送った。


 ぎゅっと、アリスが私にしがみついてくる。

 私と沙也は元の世界に戻っても一緒だけど、アリスはここでお別れだ。

 それを分かってるから、離れたくない。


 何を言えばいいんだろう。言いたいことが多すぎる。

「ありがとう、アリス」

 頭を撫でる。ありがとうだけじゃ、言いたいことの半分どころか一割も言えてないのに、言葉に詰まってしまう。


 どうしよう。何か言おうと考えたら、今までの思い出がよみがえってきて、言葉よりも涙がこみ上げてくる。

 これまで全部堪えてきたのに、今度はだめだった。あっさりと決壊して、溢れ出す。止まらない。


「千理……?」

 アリスが私を見上げる。私が泣いてることに気付いたら、すぐにアリスも泣き始めた。大声を上げてより強く私を抱きしめるから、抱きしめ返す。


「私もね、千理に、ありがとうって思ってるよ……! だから、私のこと、忘れないでね……!」

「忘れないよ、絶対! だからアリスも、私のこと覚えててね……!」

 私が泣くからアリスが泣いて、アリスが涙を流し続けるから私も涙が止まらない。


「思う存分泣くがいいさ。でも最後は、笑顔で別れの挨拶といこうじゃないか」

 沙也の言葉に、はっとする。

 そうだ、このまま泣いてたら、悲しいまま目覚めてしまう。

 楽しかったねって、笑顔でさよならを言いたい。


 アリスが笑ってくれるように、まずは私が笑顔を見せる。

「さよなら、アリス。もう会えないのは私もつらいけど、元気でね」

 涙声だけど、精一杯笑みを作った。

「……会えるよ」

 アリスも、泣いて赤くなった顔でにっこり笑ってくれた。


「……会えるの? また?」

 アリスは涙を堪えながら、何度も頷く。

 そうして、まっすぐ私を見た。

「千理、『時計塔のアリス』を、読んで。そうしたら、また、私に会えるから!」

 元気いっぱいで、満点の笑顔。

 悲しみが、幸せに包まれていく。


「うん、読むよ! アリスに会いたくなったら、アリスの本を読むから!」

 温もりを忘れないように、最後に強く抱きしめた。


 アリスが、私から離れる。

 目をごしごし、指で涙を拭く。アリスも、そして私も。

「じゃあ、ばいばい。沙也も、ばいばい」

「うむ。さらばだアリスちゃん」

 踵を返して、アリスは広場の外に歩いていく。


 アリスが振り返った。

 また涙が流れ始めたけど、もう悲しみの涙じゃない。

 お互い笑顔で手を振る。

「ばいばい、アリス」

 歩き去るアリスの背中が、白い世界に消えていった。



 いつまでもアリスが行ってしまった先を見ていたら、沙也に肩を叩かれた。

「名残惜しいかね」

「……ううん、もう大丈夫。元の世界に帰ったら、また『時計塔のアリス』を読むから」

「そうか。なら私たちも、戻るとしよう」

「……うん」

 涙を拭いて、現実に帰ろう。


「では、こっちだ」

 沙也は後ろを向いて、歩きだした。後ろもやっぱり真っ白で何もない。

 そっちに行くと目が覚めるのかな? 分からないけど、とりあえずついて行く。


 広場は消えて、道もない真っ白な空間を歩き続ける。

「千理の超能力は思いを実現する力だけども、力そのものは非常に弱くてね、せいぜい夢の内容に変化を加える程度のことしかできないんだよ」

「明晰夢とは違うんだよね」

「千理のは、人に出来るレベルを超えてるのさ。だから超能力なんだ」


「そう言われても、なんだか実感ないなあ」

 いまだに私が超能力者だっていうのが、どうにも現実感がない。

「KJに比べると地味だからねえ」

 はっはっは、って沙也が笑う。


「そして『境界のない理想の世界』だが、あれには夢と現実を近付ける力があったんだ。それが千理の夢を思った通りにする力と合わさって、現実に影響を及ぼした。それが今回の一件を引き起こしたカラクリだ」

「そういえば、その本はどこにいったの?」

「どこにいったのかは、私にも分からん」

「そっか……」


 なんとなくだけど、あの本は世界を繋げた時点で役目を終えて消滅した気がする。単なる予想。

 そんなことより気になるのは、どうして本にそんな力があるのかってことだ。


「『境界のない理想の世界』ってさ、KJが超能力で作ったのかな」

「いや、KJだってそこまで万能な力を持ってるわけじゃない。確かあのオジサンは、魔女にもらいましたって言ってたねえ」

「魔女? 私たちの世界にそんな人がいるの?」

「うむ。まあ、私たちには無縁の話さ。世界は広いから、根気よく探したって会うことはないだろうよ」


 確かに、まず日本人なのかどうかも分からない。近所に住んでるか何かの縁でもない限り、お互い他人のまま人生を過ごしていくに違いない。

 大半の人間関係って、そんなもの。


「ならいいけど。世の中には色んな人がいるんだね」

「そうさ。だからKJにも気を付けるんだよ」

 沙也が立ち止まった。そして、私の方に振り向く。

 私も歩くのをやめて、沙也に向き合った。


「目を合わさないようにすれば、千理がKJに見つかることはない。見つからなければ、狙われることもないさ」

 そう言って、沙也も薄れて白い世界に消えていった。

 ふと自分の手を見ると、半透明になっていた。意識がここじゃないどこかに浮上していく感覚が、ぐっと強くなる。

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