第8話
テレビのチャンネルを変えるように、視界が一瞬の暗転を挟んで、映るものが切り替わる。
暗い、夜の世界になった。
じめっとして、纏わりつくような空気。風が吹いても、全然心地よくない。
目の前には、ウサギの飼育小屋。中には土と、空のエサ箱があるだけ。
いつの間にか、ここに立っていた。
ああ、あの小学校だ……。
それだけで気付いてしまう。
私の悪夢が始まった、映画『戦慄学校』の舞台。
三階建ての校舎に挟まれた中庭に、私は一人で立っていた。
『境界のない理想の世界』に心を打ちのめされて、最後に放り込まれたのがここなんて。
なんて徹底的なんだろう。
「あははは……」
勝手に声が出た。なんで笑ってるんだろうって考えたら、余計におかしくなって笑いが止まらない。
「あっはははは……ひひひ……!」
アリスはいない。もういなくなっちゃった。
映画の主人公たちも、いるはずがない。
また一人だ。
辺りを見回すと真っ暗で、敷地内のどこにも明かりは灯っていない。
頭上には月も星もなくて、真っ黒で泥みたいな空がそこにあった。
視線を正面に戻すと、またウサギの飼育小屋。
中には土と空のエサ箱があるだけ……じゃ、なかった。
「おかえり千理。今度は逃がさないぞ」
中にお父さんがいた。けらけらと笑った状態が静止画のように動かない。唇を動かさずに、声を出してきた。
突然私の方に突っ込んできて、金網を掴んで乱暴に揺らす。
「ひっ!」
背中がぞわぞわとして、膝が笑いだした。
「アリスちゃんはいなくなっちゃったから、もう誰も助けてくれないわよ?」
力が抜けて倒れ込みそうになったところに後ろからお母さんの声がして、身体が強張る。
背後は見えないのに何かが近付いてくるのはハッキリと分かって、その感覚がどうしても耐えられない。何も考えられなくなる。
悲鳴を上げながら、その場から逃げ出した。
中庭を抜けて、左に体育館、右にプールが見える。
迷ってる暇もなくて、右に行く。そっちはグラウンドに続いてるから。
走る速度に関係なく、おぞましさは距離を詰めてくる。走れば引き離せるものじゃないとは分かっていても、逃げろと頭が叫ぶだけだった。
「しぶといですねー千理さん」
校内放送のスピーカーから、KJの呆れたような声が聞こえた。
どうでもいいって思いながらグラウンドの端に入ったら、鼓膜が破れそうなくらい大きな女の子の悲鳴が聞こえた。
誰の声?
……私?
そう思った瞬間、嫌悪感で全身に鳥肌が立つ。
自分の悲鳴を、スピーカーによって無理やり聴かされる。
走りながら耳を塞いでも、ちっとも音が小さくならない。
うるさい! と腹の底から叫んだはずなのに、悲鳴に掻き消されて聞こえなかった。
「ひっ……ひいっ……!」
追いつかれた! 嫌だ嫌だ嫌だ!
全身を、気持ち悪い何かが這い回る。振り払えない! 身体の中に入ってる!
「もう、嫌だあああっ!」
夢も、現実も、私を苦しめるばかりだ!
――こんな世界なんて、いらない!
テレビの電源を切るように、視界がぶつりと消えた。
身体中を這い回っていた気持ち悪さも、恐怖感も、嘘のように消えてなくなった。
まだ身体は強張ったままで、心臓もばくばくしているけど、頭の中は妙にクリアだ。
きょとんとしながら、静かな暗闇を感じる。
真っ暗で、何も見えない。
小学校が消えた。
いや、世界が消えた?
現実が消えた。夢も消えた。だったら創作世界も消えたのかも。
チャンネルを切り替えるのではなくて、コンセントを引っこ抜いたような、根本的なところを放棄した気分になる。予感じゃなくて、確信だった。
何も見えない。何も聞こえない。何も匂わないし、何の感触も伝わってこない。
私が拒絶したから?
望むどころか、心から思ったから、世界がこんなことになったのかな。
ここが夢と現実を拒絶し、私が創った世界。逃げ込んだ場所。
私にとってのセーフティーゾーン。きっとそうだ。
とても、心が安らいだ。全てから解放されたような気分。
いや、解放されたような……じゃなくて、本当に解放されたんだ。
もう、さっきの場所には戻りたくない。私には苦しいことばかりだから。
悪夢を見るなら、夢の世界なんていらない。
現実が夢から逃げる場所じゃないのなら、そんな現実もいらない。
逃げ場がなくて安らげない世界なんて、いらない……。
目を開けていても閉じていても、見えるものは変わらない暗闇。
自分が今、どこを向いているのかも分からない。立っている感覚もないし、背中を預けてるわけでもない。なら浮いてるのかも。
乱れていた息が、やっと落ち着いてくる。
心臓も、普段のペースを取り戻してきた。
静けさに耳鳴りがして、それが治るとまた静寂が訪れる。
「あ……」
試しに出した声は、すぐに消え去った。
私が音を出さないと、この空間は完全な無音だ。
あるのは身体の感覚と、ここにいるという意識だけ。
深く、深く息を吐いて、何もない世界に身を任せる。
穏やかに呼吸して、平穏のありがたみを実感しながらリラックス。
落ち着く……。
ここは何もないけど、とても優しい場所だ。
このまま、眠りにつこうかな。名案な気がする。
本当に疲れたし、とても眠い。
ここならアリスがいなくても、ぐっすりと寝られそう。
悪夢は終わったんだ。
眠るのを怖がる必要はない。怯えながら目を閉じなくていい。
安眠するためのルールはリセットされたんだ。
もう心配も不安もいらない、ただ幸せな夢に落ちるだけ。
真の自由を今、私は満喫してる。そんな気分だ。
寝るのって、やっぱり気持ちいい。
目を閉じると、意識がだんだん溶けていくのを感じた。
お疲れさま、私。ゆっくり休もう。
……これでいいのかな?
眠りに落ちるのを阻害するように、そんな言葉が脳裏をかすめた。
もう誰にも会えない。
私が現実で関わってきた全ての人たち。
アリスや懐中時計のみんな、リクティ。
……沙也とは、ぎくしゃくしたまま別れちゃったな。喧嘩なんてしたことなかったのに、私が怒ってしまった。
でも沙也だって……いや……。
沙也は、私のために行動してくれた。そして多分、沙也の考えは正しい。
世界を元に戻すだけなら、アリスを退場させて私を悪夢に突き落とす必要はない。
でもそれだと、KJにもう一度狙われて同じことになってしまう。そして今回の方法が次回も通用するとは限らないって、沙也は言ってた。
だからKJに利用されないように、私は強くならないといけない。
だから私は、アリスのいない状況で放り出された。
でも今、こうして私は安全地帯に逃げ込んでいる。それはきっと、沙也が望んだ結果じゃない。むしろ、KJが喜ぶような結末だ。
それは分かってるけど、悪夢は、本当に嫌だ。
恐怖に思考が支配されて、逃げることしか考えられなくなる。
このまま眠ってしまうなら、私はもう傷つかずに済む。
それでいいのかな。
楽な方に逃げて、色んな問題や責任を放棄することになるけど、怒鳴ってくる人も謝る相手もこの世界にはいない。
甘い誘惑が、罪悪感を薄めていく。
そういえば来週の月曜、沙也に『ドラゴンズテイル』を貸す約束をしてた。実物のリクティに会ったから、ますます興味を持つはずだ。
でも、このままじゃ月曜は来ない。そもそも学校だって存在しないんだ。
だけどまた、教室で沙也と下らない話をしたい。
当たり前の日常が恋しい。
……なんだか目が冴えてきた。
思考が活性化してきたから、眠気が引っ込んだみたいだ。
アリスの顔が、脳裏に浮かぶ。
さよならも言えずに、アリスとお別れになっちゃった。
戦いが始まってからは、アリスは私を見なくなった。それどころじゃなかったから、仕方ないのかもしれないけど。
でも、そんな終わり方は嫌だ……。
別れは悲しくて寂しいものだけど、だからといって挨拶もしないままっていうのは違う。
わがままだってことも分かってる。
夢と現実が混ざったからこそ、叶った出会い。
不安で、迷惑もかけて、つらい事もたくさんあったけど、アリスと話すのは楽しかった。
だからこそ、最後も笑顔でさよならを言いたい。
アリスだけじゃない、ジェームスたちも。
それに、敵対したような形になったけど、リクティとも仲良くしたかった。
その時間が欲しい。
そのための世界が欲しい。
もう終わりだなんて、早すぎる。
まだまだやりたい事があるし、やり残した事もたくさんある。
色んな世界で生きてきた人や動物たちを巻き込んで、勝手に全部終わらせた。
誰にも責められないとしても、それは許されることじゃない。
何より私自身が、やっぱりそれはダメだって思ってる。
みんな消えてしまった。
これでいいんだろうかっていう問いには、よくないって断言しないといけない。
だから、私はこのままじゃいけないんだ。
夢と現実が混ざって、悪夢が現実になった。
アリスがいないと逃げるしかない。弱い私は、そう思ってた。
逃げられなかったから、臆病な私は自分の世界に閉じこもった。
逃げずに、何とかできなかったのかな。
悪夢は怖い。アリスがいないと逃げ出したくなる。
でも沙也は、一人でも立ち向かえって言ってた。
私だけの意思で、悪夢に打ち勝たなきゃいけない。
それができたら、自信に繋がる。トラウマを克服できる。
私のためを思って、沙也はあの場所で待ってたんだ。
なら、やらなきゃ。やらないと。
沙也に言われなくても、私自身がそう思わなきゃいけない。
変わらないといけないんだ。
ネガティブになっちゃダメだ。
今のポジティブな考えを維持。
悪夢に打ち勝つまでは、絶対に維持!
結局、自分を走らせるのは自分しかいない。
何事も考え方次第。それを肝に銘じる。
怖いけど、またみんなに会いたいという気持ちの方が強い。
幸せな夢を見て、穏やかな現実を生きたい。
それを叶えるために、戦うことだって必要だ。
本当の、自分との戦い。
やろう。たった一度、『怖さに負けなかった』という勝利を求めて。
行こう。もう閉じこもってる場合じゃない。
私のために、みんなのために――。
……目を開けると、あの小学校だった。
さっきの悪夢を再開するみたいに、私はグラウンドの真ん中に立っている。
後ろから気配がした。
取り逃がした私に、再び迫ってくる。
逃げろと頭から警報が発せられるけど、無視。
ぞわっとして、身体が竦みそうになる。
恐怖で何も考えられなくなりそうな頭の中で、押し返すように思考をぶつける。
私は決意した! 今回は、絶対に逃げない!
がたがたと怯える身体を、逃げ出したくなる心を、必死に意志だけで押さえつける。
気配が近付いてきて、それでも踏みとどまるから、パニックになりそう。視界まで揺れ始めた。
やっぱり、怖い……!
立っているだけなのに、息が切れてくる。逃げ出したい衝動に、負けそう。
「逃げない! 私は逃げない!」
声は情けなく震えたけど、自分に言い聞かせた。
「怖くない怖くない怖くない!」
震える足が逃げ出そうとするのを、無理やり理性で抑えこむ。
苦しい。立っているのがやっとだ。声もすごく出しづらい。
足音が、ノイズが、誰かの笑い声がボリュームを上げながら近付いてくる。
「背を向けるな! 立ち向かえ、私!」
決意と、やけくそな気持ちを詰め込んで、泣きそうな顔で後ろに振り返る。
目の前に、長い髪に隠れた青白い顔があった。
鼻と口しか見えなくて、その口元は血塗れの歯を食いしばっていた。
だけど、口を閉じて、にっと笑う。
暖かい風が吹いて、幽霊の前髪がなびく。瞳が見えた。
『拍子抜けでしょ? 結局、私は私に怖がってただけ』
私の前に、優しい目をした私がいた。
私を追いかける幽霊の正体は、私だった。
自分が自分のために用意した恐怖、それが悪夢。
分かってた。それなのに、こんなに時間がかかったなんて。
「自分に呆れるしかないよ……」
今まで怖くて振り返ることができずに、アリスがいるから大丈夫って、乗り越えた気になったまま高校生になってしまったけど。
これでようやく、克服できた。
「もう大丈夫。次からも、私は逃げないから」
『そう思うなら、悪夢なんて見ないよ』
微笑む幽霊役の私が、薄くなって消える。
悪夢の舞台が、紙吹雪のように崩れ始めた。真っ黒な空も、灰色の校舎も、遊具もグラウンドも。
全部風に吹かれて、飛んでいった。
またチャンネルが変わった。
瞬きをしたら世界が切り替わって、私は世界の核があるB2階に移動していた。
白と黒で構成された市松模様の床が、なんだか懐かしい。
「いやあ、やったじゃないか。私は信じてたよ、千理はやればできる子だって」
沙也が上機嫌な顔で、何度も頷きながら拍手をしてくる。
「すごいよ千理、よく頑張ったね」
その隣で、リクティも労いの言葉をかけてくれる。私のいない間に事情を聞いたのかな。
「私、帰ってきたんだね」
実感が、徐々に湧いてくる。
でもまだ、世界は混ざったままだ。
「沙也、これで私が元の世界をイメージすればいいの?」
「いいわけないでしょう!」
背後から苛立った声がして、振り返るとKJがいた。悔しそうに歯噛みして、八つ当たりみたいに床を踏みつける。
「あと少しで心を放棄しそうだったというのに、まさか戻ってくるとは思いませんでしたよ……!」
「KJさんや、私への質問に勝手な回答をしてもらっちゃ困るねえ」
私の左隣に並んだ沙也が、なんだか楽しそうな顔をしていた。
「意志と意地のぶつかり合いで千理が勝ったんだよ。KJ、お前さんの負けだ」
沙也に指を差されて、KJはますます怒った顔になる。
「まだです! まだ……!」
「何をするつもりかは知らないけど、彼女たちは僕が守る」
今度は右隣りに、剣を構えたリクティが並ぶ。目が合うと、にこっと笑みを見せてくれた。
「千理、安心するといい。KJは千理を殺すわけにはいかないんだ。殺したら、それこそこの世界が消えてなくなっちゃうからねえ」
「そうなんだ、なら――」
沙也と話してたら、急にKJが高笑いし始めた。
「甘いですねえ沙也さん! まだ終わりじゃありません! 千里さんを死なせないように苦しめるという手もありますし、沙也さんを殺害して千里さんの心を壊すことだってできるんですよ!」
言い終えて、KJが猛スピードで走ってきた!
「ライトニング・ブラスト!」
雷光が空中を駆け抜けて、KJを包んだ。
「ぐおおおっ!」
電撃を浴びて、KJの動きが止まる。
びっくりした。リクティの魔法だ。見たら、剣が青白く光ってた。
「魔法、こっちの世界でも使えたんだ?」
「ああ。アリスちゃんには使わなかっただけだよ」
そう答えたリクティは、またKJに警戒の眼差しを向けた。
KJは片膝をついていた。白いスーツはところどころが焦げて、ぼろぼろになってる。
「作り物の分際で……!」
「はっはっは、黒焦げじゃないか。でも肌の色は変わんないねえ」
睨んでくるKJに、沙也はゆるーく笑う。なんというか緊迫感がなくなる。
「諦めが悪いぞKJくん。千理を死なせないよう苦しめるなんて無理さ。あんたは世界の核に干渉できるとはいっても、ここは元々、千理の世界だ。持ち主に敵うわけがないだろう」
……よく分からないけど、もう安心ってことでいいんだよね?
KJはまだ邪魔したいようだけど、こっちには沙也とリクティがいて、それに私はKJより強いらしいから問題なさそう。
「ああ千理、ちなみにアリスちゃんは分解されたけど、会おうと思えば会えるよ」
「え! ほんと?」
「ああ。世界の核には、ありとあらゆるものが詰まってる。思い一つで何だって取り出せるし、大抵のことは実現するのさ。KJが手を巨大化させてアリスちゃんを殴ったのもそうだ」
「そうなんだ……」
じゃあもう、KJには世界の核を利用させたらダメだ。絶対。
「でも、なんで今になって言うの!」
「いやあ、アリスちゃんのことを黙ってたのは、千理がアリスちゃんを希望にしないためだよ。アリスちゃんを理由にして悪夢を克服したら、それがそのままKJの狙い目になっちゃうからね」
ああ……なるほど。やっぱり一度、完全にアリスのことを切り離す必要があったんだ。
「なぜです! 力が使えない!」
何か聞こえたから見てみると、さっきはすごいスピードだったKJが普通に走ってた。
そして難なくリクティに押さえこまれてる。
「ちなみにKJの超能力は、相手の意識に侵入して記憶を覗き見るとか、洗脳みたいな干渉ができるそうだよ。それと透視能力。どんな理屈かは分からんが、その二つを組み合わせてテレビカメラ越しに千理を見つけたらしい」
「それって、結構やばいよね?」
しゃれになってない気がする。というか気持ち悪い。
「うむ。やばい。プライバシーなんてあったもんじゃない。その力で千理のことを調べて、『境界のない理想の世界』を仕込みに来たんだろう。そして千理やアリスちゃんたちの意識にも干渉した」
そのKJは、リクティによってロープで縛られてた。
「よし、これで悪さはできないだろう。二人とも、こっちは片付いたよ」
一仕事終えたリクティが、満足げに戻ってくる。
「おお、お疲れさん」
「ありがとう、リクティ。でも沙也、どうして何でも知ってるの?」
訊くと、沙也はにやっとした。
「それはね、ここで千理とアリスちゃんを待ってる間ヒマだったから、KJがべらべら喋ってくれたよ。女子高生が話し相手なもんだから、オジサンは色々と自慢したくなったんだろう。訊けば何でも答えてくれたのさ。まったく、スケベオヤジめ」
「言いたい放題だね……」
リクティも苦笑いしてる。
「さあ、もうハッピーエンドには突入してるんだ。早くアリスちゃんを呼び戻してあげようじゃないか」
「うん」
世界の核を見上げる。
息をたくさん吸い込んで、あそこまで届くように。
「アリス!」
思い切り、声を張り上げた。
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