第7話

 B2階には、すぐに到着した。

 扉が開いて見えたのは、白と黒による市松模様の床。リノリウムみたいな質感だ。

 一つの正方形がちょうど一人分の立てるサイズで、平らで円形。

 直径は、体育館の縦幅くらいはありそう。


 この場所は、それだけだった。

 床の周りは壁、壁、壁。白い壁に囲まれて行き止まりだった。

 何ここ。今まで歩いたどの舞台よりも現実感がない。


「変な場所だな。千理、気を付けろよ」

「うん……」

 ためらいつつも、アリスと一緒に足を踏み入れる。


「チェス盤みたいでオシャレだねえ」

 誰もいないのに、突然声がした。

 えっ、と驚いて瞬きしたら、目の前に沙也がいた。

 高校の制服を着て、床の中央で学校の机に向かって座ってる。


「えっ沙也? なんで? いつからいたの?」

 誰もいなかった、いなかったよね? 自問自答しても、もう自信がない。

「その前に、『丸いからチェスできないよ』ってツッコミを入れてほしかったなー」

 頬杖をついて、やれやれって感じで言ってきた。

「え、いや、そんな場合じゃないでしょ……。もっとこう、緊迫した状況じゃないの?」

 いつも通りじゃないこの状況で、沙也がいつも通りに振舞うから頭がこんがらがる。


 状況が飲み込めない。

 でも沙也なら、平然としていたって変じゃないかも?

 どうだろう。分からない。


「千理、あいつ誰だ?」

 隣でアリスが、沙也に向かって時計針の銃口を向けていた。私の返答次第で沙也を撃ち抜くつもりだ。

「だっ、だめだめ! 私の友達だよ! だから銃を下ろして!」

 慌てた。焦った。沙也までダニエルのように撃たれるのは嫌だ。

「……分かった」

 アリスは銃を握る右腕を下ろしたけど、沙也を警戒するような目は変わらないままだ。

 その気持ちも分かる。今の沙也はめちゃくちゃ怪しい。まるで待ち構えていた悪者みたいだから。


「落っこちたら大変だから、こっちに来なさいな」

 沙也が手招きする。

 言われて振り向くと、エレベーターが消えていた。

 私は床の端っこに立っていたみたいで、壁との間は十メートル近く離れてる。


 ちらりと見たけど、下に続く壁は途中で霞んで底が見えなかった。

 落ちたらしゃれにならない。そう思うと足が竦んだ。

 アリスに引っ張られて、一歩後退。そこでなんとか平静を取り戻す。


「とりあえず座ろうじゃないか。へとへとだろう?」

 声に振り返ると、学校の机と椅子が新たに二人分用意されていた。沙也の分と合わせて、真ん中に三角形の空間を作るように三つの机が向かい合っている。

「座るのか?」

「うん、とりあえず……」

 アリスに答えて床の中央に向かい、二人ともがたがたと椅子を引いて着席する。


 制服を着てるし、教室にあるものと同じ席なんだけど、場所は学校とはまるで違う。

 疑問が多すぎて、全然落ち着かない。


「とりあえず、二人ともお疲れ様だったね。ここまで来るのは大変だったろう、はっはっは」

 沙也は、私とアリスを交互に見る。

 目の前の沙也は、本物? それをまず確かめたい。


「ねえ沙也……本当に、沙也なんだよね?」

「うむ、もちろん。何時間ぶりかねえ? ……まあいいか。とにかく私は私だよ、本物さ」

 腕を組んで考え込んだと思ったら、すぐにやめた。


 このゆるさ、やっぱり沙也だ……。間違いなくそうだ。

 アリスや懐中時計のみんなのように、性格が変わってなくてよかった。そこだけは、ひとまずほっとする。


「千理、随分と顔色が悪いじゃないか。アリスちゃんは……そうでもないね。しかし三つ編みかあ、ツインテールにしてみないかね?」

 沙也がアリスの髪に手を伸ばそうとする。

 でもアリスは、やや乱暴に払った。

「やめろ。馴れ馴れしいなお前」

「あらら、私には冷たい……いや、千理にだけ甘いんだったか。その三つ編みは千理にやってもらったのかね。似合ってるじゃないか」

「ああ? まあな」

 初対面でも、沙也はアリスに積極的だ。そういうのは、私にはできない。


 こうしていると和やかな雰囲気が、場違いのはずなのにじわじわと侵食してくる。

 落差が大きすぎて、どんなテンションで臨めばいいのか分からない。

 もしかして、ここがゴール? でも、何の?

 終わったーっていう解放感に包まれるのは、違う気がした。


 そうだ。二人には仲良くしてほしいけど、今はそれよりも話すべきことがあるはず。

「沙也、そんな話をしてる場合じゃないでしょ? そもそも、なんでここにいるの?」

「そりゃあ私は、友情出演さ」

「なにそれ」

「なにそれ、ときたか。私はね、千理が少しでもポジティブになれるよう参上したんだよ」

 いつも通り冗談っぽく言われても、反応に困る。


「助けに来てくれたってこと?」

「そうさ。なんたって親友だからね」

 うんうんと、沙也は頷く。


 学校でするようなやり取りを、こんな場所でやられても不自然さしかない。

 気が抜けるというか、緊張感が削がれるというか。さっきまでの絶望感はなんだったんだろうって気持ちになる。


「冗談はいいから、もっと具体的に言ってよ」

「いやいや、こうやって千理の荒んだ心を癒すのは大事なんだよ。そのために私は場を和ませようとしてるのさ。千理もアリスちゃんも、一旦落ち着こう。そう焦らなくてもいいんだ。時間はあるからね」


 ……落ち着いていいのかな。もう、安心してもいいの?

 もう身も心もぼろぼろだけど、それが許されるなら……考えただけで、心が軽くなった。


「時間があるなら一つずつ、分かりやすく説明してくれ。ここはどこなんだ?」

 足を組んだアリスが、黙ってる私の代わりに会話を引き継いだ。

「うーむ、この場所を何て言ったらいいのか、私も悩むなあ。まあざっくり言っちゃうと重要な場所なんだよ。私にとってはセーフティーゾーンでもある」

「セーフティーゾーン……じゃあここは、安全だってこと?」

 今までの場所とは違う特別感は、確かにある。


「うむ。まあ、千理にとってはどうだろうなあ……とりあえず、あれを見てみ。二人とも、まだ気付いてないだろう?」

 沙也が、真っ直ぐ上を指差す。

 沙也の言葉は気になったけど、とりあえず見上げる。

「何あれ」

 周りの壁は、途中から霞んで見えなくなるほど高い。


 でも、それよりもさらに高いところに、膨大で、落ちてきたら床の上には逃げ場がないんじゃないかって思うほど大きな球体が浮かんでいた。霞む壁と違って、はっきりと見える。

 真っ白な表面を、無数の小さくて黒い何かが蠢いて、埋め尽くしてる。

 そんな球体が、ゆっくりと回り続けていた。


 真上を見なければ視界に入らないから、気付かなかった。

 表面を走る黒い物体が虫かと思って一瞬ぞっとしたけど、すぐに違うと気付く。

「千理、あれ一つ一つが文字だ。ひらがなとか漢字とか、数字とか記号がごちゃごちゃしてやがる」

「そうなの?」

 アリスは、やっぱり目がいい。私にはあれが文字なのかどうかなんて、ここからじゃ分からない。


「そうなんだよ。あれはアリスちゃんが言うように、世界を構成していたものがみんな文字に分解されて一箇所に集まってるのさ。世界の核、と呼ぶんだけども」

「世界を、文字に分解?」

「そう。海も山も空も、人も建物も動物も、現実も夢も物語の世界もぜーんぶバラバラになって、それを一つに混ぜたものをああして丸めてるんだ。まあ、おにぎりみたいな感じかね」


「いや……」

 おにぎりではないでしょ、なんて突っ込みが思い浮かんだけど、面白おかしく語る場面じゃない。

「話が荒唐無稽すぎるよ……というか、笑い事じゃないよね?」

 沙也の口調だと緊迫感が薄れるけど、世界がバラバラになって混ざった?

 そんな気はしてたけど、改めて言われると怖い。


 夢の中で『境界のない理想の世界』を開いた時のことを思い出した。

 あの時も、本がバラバラになってページが混ざった。あれと同じことが、世界規模で起こったってこと?


「確かに笑い事じゃない。さすがに私もびっくりだ。でも、信じられなくともこれが世界の現状らしい」

「らしい……って、誰かに聞いたの? その人はどこ?」

 他にも誰かいるってことだ。誰だろう、想像がつかない。


「聞いたよ。色々と聞いた。今はどこかに行ってるんだろうさ。だから私が説明しよう。大事なことだから、よーく聞くんだよ。千理にとっては、つらい話になる」

 そう言った沙也が急に真面目な顔をして、まっすぐに私を見た。

 少し不安を抱きながら、無意識に居住まいを正す。


「まず、世界がこうなってしまったのは『境界のない理想の世界』という本を開いてしまったことにある」

 ああ、やっぱり。

 私がその本を開いてしまったから――。

「――それと、千理の超能力。今回の出来事は、その二つがコラボレーションして起こったことなんだよ」


「……え?」

 眠気が飛んでいった。

 思考が止まる。

 頭が、真っ白になった。


「千理は多分、世界がこんなことになった原因があの本を開いたことだと思ったんだろう? それは正解さ。でも半分だけだ。つらい話だけど、つまり千理には二重の責任があるんだよ。『境界のない理想の世界』を開いたのが千理じゃなくて、仮に私や他の誰かだったらこうはならなかったんだ。まあ、ありえない話だがね」


「………………」

 ……さっきまでの沙也なら、また冗談を言ってる、なんて思えたかもしれない。

 でも目の前にある沙也の顔は、大真面目だった。

 私が超能力者で……なんで? 私も知らない。知らないけど罪はふたつで、私じゃなかったら今回の……え?


 ただでさえ疲れと眠気で鈍ってるのに、頭の中がぐちゃぐちゃ。

 ぐるぐると勢いはあっても、ほとんど空回りになる。声に出すための言葉が完成しない。

「私は……」

 やっと絞り出した声も、たったそれだけ。その先は何も決めてなかった。


「おいお前、何言ってんだ? 千理の超能力? わけわかんねえこと言うんじゃねえよ!」

 アリスが机を叩いて、声を荒げた。でも明らかに動揺して、困惑してる。


「私も知らなかったんだ。そしてビックリだよ。『境界のない理想の世界』も、千理の超能力も、単品じゃあ可愛いもんさ。世界をどうにかする力なんてない。でも、組み合わせちゃったのがまずかった」

 混乱する私たちにも分かるように、ゆっくりと、穏やかに沙也は話した。


「……それでも、元に戻す方法はあるんだろ?」

「うむ。私に考えがある」

 沙也は、力強く頷いた。

「別に責めてるわけじゃないんだよ。私は千理の味方だ。そのためにここにいる」

「沙也……」


 なんだか、もう、いっぱいいっぱいで。

 わけわかんない事だらけだけど、とにかく私が悪いことだけは分かってて、そこにそんな優しいことを言われたら、なんかもう、また泣きそうになる。

「……沙也、お願い、助けて」

 だから口から出る言葉も、感情が乗っていた。


「うむ。私に任せておくといい」

 沙也が、得意げな顔で胸を張る。

 色々と限界の今、沙也がとっても頼もしい。

 よかった。ありがとう。


「俺からも頼む! 千理を助けてやってくれ! 俺にできることなら協力するぞ!」

「そうかそうか。じゃあ後で頼むとしよう」

 必死に涙を堪えて、現実と向き合う。

 一度泣いてしまったら、いつまでも止まらなくなりそうだから。

 今はまだ、泣いちゃだめだ。


「事態は複雑で、長い話になるんだが……まずは、そうだなあ、外の世界はどうだったかね? 千理、ここに至るまでの道中がどんな印象だったのかを教えておくれよ」

 沙也はまず、私たちの話を聞きたいみたいだ。

 印象……か。そう聞かれると、頭の中に今まで見てきた光景が次々に浮かんでくる。


「私とアリスが目覚めたのは、なんだかどろどろに濁った空と、崩壊した町……というか、灰色の瓦礫だらけの世界だったよ」

「それは、暗かった?」

「いや、そんなことはなかったかな……。日は昇ってないのに、早朝ぐらいの明るさはあったよ。それで時計塔を見つけて、行ってみたらアリスと懐中時計のみんなが戦ってた」

 なんだかもう、遠い昔のように感じる。時計塔と職員たちはどうなったんだろう。


「俺は最初、自分の部屋で目が覚めたんだ。外を見たら全くの別世界になってて驚いたぜ。しかもジェームスたちが俺をみるなり、問答無用で掴みかかってきたんだよ。やめろって言ってもやめねえし、屋上に行っても追いかけてきやがったから、むかついて反撃したんだ」

「ふむ。その戦いが終わって、そこからは二人で行動を開始した……と。なるほど、やっぱりね」

「何が?」

「いや、納得しただけだよ。アリスちゃんはやっぱり、千理を守るんだなーってね。さあ、続きをどうぞ」


 促されて、記憶を辿る。

 そして語った。


 展示されてるみたいな和室と洋室。扉を開けても別の世界には繋がってなかった。

 止まっていたはずの時計塔が鐘を鳴らしたことには、なんだか事態が進展したように感じた。


 瓦礫の海が崩壊して、転落。水の中に沈んで、アリスに助けられたことが嬉しかった。

 花畑が綺麗だったけど、その先は真っ暗。一人だったら心細くて進めなかったけど、アリスが一緒だから平気だった。

 エレベーターが、なかなか下の階に着かない。それでもいつかは着くはずと思ってたら、案の定止まった。


 誰もいないし、何の音もしない駅のホームはアリスがいたから寂しくなかった。

 乗り込んだ電車の中で、久しぶりの悪夢を見た。そこからは、最悪の気分。

 アリスと一緒に先頭車両を目指したけど、どれだけ進んでも目的の場所に辿り着かなかった。疲れて眠くて終わらなくて、アリスがいることだけが、心の支え。


「それから電車が停まって、エレベーターに乗ったらここに着いたんだよ」

 そうして、語り終えた。

 普段は、ここまで自分の心を素直に吐き出したことはない。でも印象を語るとなると、必然的に何を思ったのかを言わないといけなくなる。


 恥ずかしいなんて言ってられない。

 じゃあもう、いっそのこと言いたい事を言っちゃおう。

「……ここまで来ることができたのは、アリスが一緒にいてくれたからだよ。だから、えっと、その……アリス、ありがとうね」

 さすがに目を見て言うなんてできないから、机の表面を意味もなく眺めた。


「おおー、珍しいこともあるもんだ」

 沙也が感心していた。でも今は、沙也の方を見るのも恥ずかしい。ひたすら下を向く。

「……まあ、俺も一人だったら、そもそも時計塔から離れようなんて思わなかったかもしれねえ。瓦礫ばっかりの世界も、真っ暗な道も電車の中も千理がいたから俺は進んだんだ」

 顔を上げたら、アリスは左の何もない方を見ながら話してた。


「アリスちゃんや、千理はそっちにはいないよ」

「うっ、うるせえ!」

 沙也はにやにや。そしてアリスは、沙也に言われたからなのかは分からないけど、私の方を向いた。でも目線は下に。


「だから千理、俺も……そういうことだ」

 頬を赤らめて、ほっぺたを指でぽりぽり掻きながら、アリスは小声で伝えてくれた。

「そういうことって、どういうことかね。アリスちゃんや」

「さっきからうるせえぞお前! だ、だいたい、なんとなく分かるだろ!」

 アリスが顔を真っ赤にしながら机を叩くと、沙也がわははって笑った。

 私も笑う。今この瞬間だけは、ちょっとだけ幸せかもしれない。


「……あー、笑った笑った。ますます、この先が心苦しくなるねえ」

「世界が元に戻ったら、アリスとはお別れだもんね……」

「ん? まあ、そうだなあ、確かに寂しい話だよ」

「それで、さっきの話は何の意味があったんだよ」


 外の世界が、どんな印象だったかという話。

 振り返ってみればめちゃくちゃで、物悲しい場所ばかりだった。

「ああ、ならネタばらししよう。実はね、外は全部、千理の心情を現した世界なんだよ」

「え、私の?」

 『境界のない理想の世界』が作った世界……じゃないの?


「それ、本気で言ってんのか?」

 アリスも驚いてる。

「うむ。今私たちがいるこの場所だけが、混ざらずに残ってる本来の世界なんだよ。だからセーフティーゾーン。まあ、ノアの箱舟みたいなもんさ。私はノアの方舟をよく知らんけどね」


「でも、ちょっと待ってよ。私は気を失ってて、その世界で目覚めたんだよ? だったら先に世界の方が用意されてないとおかしくない?」

「別に意識が覚醒してなくとも、脳みそは働いてるんだよ。夢だって見るだろう? そして、この世界は現実と夢がミックスされてるんだ。あと物語もね。だから、そう考えたら納得なんじゃないかね」


 今まで見てきたものは、全て私が作っていた?

 終わらない電車の中を進ませたのも、私がそうしたから?


「じゃあ私は、自分で自分を苦しめてたってこと?」

 それって、馬鹿みたいじゃん。しかもアリスを巻き込んで。

 ああ、そうだ……そうなるとアリスと懐中時計のみんなにも、私が影響を与えてたのかもしれない。


「『時計塔のアリス』に出てくるジェームスたちの性格が豹変してたのも、私のせいってこと?」

「なっ……! そうなのか!」

 アリスも動揺していた。

 もしその通りなら私は、謝っても謝りきれない。アリスにとっても、許せる話じゃないはずだ。


「いいや、それは違う。だって千理は、そんなこと思ってないだろう?」

「うん……思ってない」

 思うわけがない。アリスとみんなが戦うなんて、見たくなかった。

「だったら、いったい誰がジェームスたちを凶暴にしたんだよ。教えてくれ! そいつは俺がぶっ飛ばしてやる! あいつらの代わりにな!」


 どうしたのって驚くぐらいに、アリスは怒りだした。

 ジェームスたちのことは、もうどうでもいいみたいな態度だったけど、それは諦めてただけだったのかもしれない。

 犯人が分かりそうになったから、こうして許せないっていう感情をあらわにしてるんだ。やっぱりアリスは、みんなが大切だったんだ。

 そう考えると嬉しくなる。


 身を乗り出したアリスを、沙也が宥めた。

「まあまあ、気持ちは分かるけどね、でもその話は後にしよう。つまり外は現実であり、千理の夢でもある。千理の中にある不安や心配が、そのまま現実になったんだよ。例えば落ちる夢なんかは、不安な時に見るそうじゃないか」


 ……沙也が言いたいことは、だいたい飲み込めた。

 瓦礫の海が崩れ落ちたのは、私が不安を抱いていたからってことなんだろう。

 でもまだ、分からないことがたくさんある。


「私もアリスも、電車の中で寝たよ? 私は夢も見た。現実が夢でもあるなら、寝た時に夢を見るのも、なんか変じゃない?」

 自分でも何を言ってるんだろうって思って、話すのがぎこちなくなる。


「夢と睡眠は別だから、変ではないさ。それと千理の夢については、どうなのか分からん。起きてる間も寝てる間も両方見ることになるのか、それか幽体離脱みたいに、身体を置いて意識だけがこの世界を彷徨うのか……そのどっちかじゃないかね」


 私が夢を見ていた時、私は意識だけが別の場所にいたかもしれない……そういうことなんだろうか。

 じゃあ私は、お父さんとお母さんに会っていた?

 でも、あれは悪夢だし、違う誰かだった。きっとそうだ。そうであってほしい。


 沙也が、また真剣な目で私を見た。

「重要かつ厄介なのはね、望んだ通りになるんじゃなくて、思った通りになるってところなんだよ」

「それは……つまり、どういうこと?」

「世界を元通りにしたいと望むだけじゃ、何も解決しないってことさ」


 ああ、そういうことか。

 この世界を元通りにしたいと、私は最初から望んでいた。だからここまで、アリスと一緒に来たんだから。

 望んだ通りになるのなら、とっくに元通りになってないとおかしい。


「じゃあ私は、どうすればいいの?」

「簡単だよ、考え方次第さ。望むんじゃなくて、思うんだ。『現実と夢と創作の世界には、ちゃんと境界がある』ってね」

「つまり『境界のない理想の世界』を否定するように思うってこと?」

 そうすれば、思った通りになる。

 沙也が頷いた。


「自分の心を騙すことはできないから、疑いや信じないなんて気持ちがあったら成功しないよ」

 それって、口で言うのは簡単だけど、実践するのは難しい。

 でも、それさえできれば元に戻る。沙也の言葉は、きっと嘘じゃない。


 『境界のない理想の世界』が見つからなくても、私だけの力で何とかなる。

 希望が見えてきた。荒んで乾いていた心が、嬉しさで潤っていく。

 頑張らないと……!


「やったな千理! ここまで頑張って来てよかったな!」

 アリスがガッツポーズして喜んでる。

「うん!」

 満面の笑みになって、それに応じた。


 よかった。解決できる。

 アリスと別れるのは寂しいけど、世界をこのままにしていたらダメだ。

 やらなくちゃ。元の生活に戻る。私も、沙也も、そしてアリスも。


「ただし、それじゃイタチごっこだ。一度戻通りにしても、また千理は利用されてしまうだけだろうね」

 私とアリスが喜んでいる中で、沙也はちっとも笑ってなかった。

 だから私たちからも、自然と笑みが消える。


「千理が、利用された? 今回もそうなのか?」

「うむ。千理、本屋で『境界のない理想の世界』を買ったのは、偶然だと思うかね?」

「偶然……じゃ、ないってこと?」

「そうさ。だから狙われたんだよ。そして、まんまと思い込まされた」


 思い当たることはある。

「確かに、本の中にメモ書きが挟まってた。この本を枕元に置いて眠りなさい、って」

「ふむ、分析されてるねえ。枕元に置いた本が夢に反映されるってことも、バレてたわけだ」


 それを聞いて、ぞっとした。親しい相手にしか話してないことを、なんで?

 もしかして私を利用した人っていうのは、私の家族?

「なんでそんなことを知ってるの? 誰が? 誰なの?」

 無意識に身を乗り出し、早口になって語調も荒くなる。


「もう気付いているかもしれないけど、ミスターKJだよ」

 言葉を、失った。

「千理は、テレビでKJと目が合ったと言ってたね。あの時に千理は見つかってしまったんだよ」

「見つかった……?」

 浮かせた腰を戻して、必死に頭の中で理解しようと言葉を繰り返す。


「うむ。私も後悔中さ。せっかく千理が教えてくれたのに、何も手を打たなかったことをね」

「ちょっと待てよ、そのミスターなんちゃらって誰だよ?」

「ミスターKJは、私たちの世界にいる悪いやつさ」

 沙也の適当な説明に補足するほど、私はKJを知らない。


 それよりも、夢の中で見た『境界のない理想の世界』に何が書いていたっけ。

 確か、私は自覚した、この夢こそが現実だ……みたいなことだったはず。


「ならそいつが、時計塔のみんなを操ったってのか!」

 椅子をがたんと鳴らして、アリスが立ち上がった。

「どこだ! そいつはどこにいやがるんだ!」

 両手に時計針を持って、鬼気迫る顔で沙也を問い詰める。


 それでも沙也は、平然としていた。

「うーむ、それがどこに行ったのやら。一時間ぐらい前まではここにいたんだけども、待ちくたびれて外を見に行ったみたいだ」

「どうやって外に行くんだよ!」

「ここから飛び降りればいい。ただ、外はでたらめな迷宮だ。会いたい相手に出会える可能性は、限りなく低いと思うけどねえ」


 アリスは歯噛みしながら、床の端を見た。行こうかどうか迷ってる。

「行けば、もう千理とは会えなくなるよ。なぜかって? またここに戻ってくる自信があるのかという話だ」

「…………やめだ」

 アリスは、冷めた顔で席に戻った。


「でもそいつは、ここに戻ってくるんだよな?」

「だと思うよ、うん」

 沈黙が訪れる。

 事態を見守るばかりだったけど、落ち着いたようでよかった。

 どうしよう。アリスの様子も心配だけど、自分のことで頭がパンクしそうだ。


 いつかKJが、ここに来る。

 どうすればいいんだろう。アリスがKJを倒したところで、何も解決はしない。

 でも世界を元通りにしようとする私たちを、KJは邪魔してくるはず。


 あれこれ考えてると、ふう、って沙也が息を吐いた。

「……よし。まだ色々と途中だけども、やりますかね。やつが戻って、面倒になる前に」

 おもむろに立ち上がった沙也が伸びをする。上に引っ張った腕をだらりと垂らして、アリスを見た。


「アリスちゃん、君はさっき、協力するって言ったよね?」

「……ああ、言ったな。何か頼みでもあるのか?」

 アリスは、まだちょっと不機嫌そう。

「そうなんだよ。ちょっと退場してほしいんだ」


 ……退場? え?


「はあ? 退場だと? 急に何を言い出すんだよ!」

 アリスが怒りだした。

 私も、自分の事を考えてる場合じゃない。

「ちょっと沙也、どういうこと?」

 問い詰めるように言っても、沙也は涼しい顔をしていた。


「言ったじゃないか。このまま世界を元通りにしてもイタチごっこだってね。だから千理には、ここで強い意志を身につけてもらわないとダメなんだ。悪夢を作り上げる自分の恐怖心に、打ち勝てるぐらいにね」

「悪夢に……恐怖心に、打ち勝つ?」


 無理だ。真っ先に、そんな言葉が浮かんだ。

 だって、さっきも悪夢を見た。成長して高校生になっても変わらなかったんだから。


「千理の心は、ちょっとやそっとじゃ変わらない。だから荒療治が必要だ。そのためには、千理の心の支えであるアリスちゃんはちょいとお邪魔なんだよ」

 冗談を言ってるんじゃないかと思いたかったけど、沙也は本気みたいだった。

「やるってんなら、相手になるぜ」

 また立ち上がったアリスも、両手に六時の時計針を構える。


 とにかく、このままじゃダメだ――!

「二人とも、ちょっと待ってよ! 退場って何? まさか、殺すってことじゃないよね?」

 そもそもアリスはめちゃくちゃ強いんだから、沙也が勝てるわけがない。

 戦ったら怪我どころじゃ済まないし、アリスは一緒に暮らしてた懐中時計のみんなだって容赦なく攻撃する。手加減なんて、してくれるはずがない。


「殺すというより、いなくなるんだよ。今ここにいない、あらゆる人や動物みたいに文字へと分解されるのさ」

「千理! こいつは友達かもしれねえけど、俺はやるからな!」

「待ってよアリス! 沙也も! おかしいって!」

 席を立って、アリスと沙也の間に割って入った。


 ひとまず危険なのはアリスだから、アリスの肩を押さえる。

「千理、どけ!」

 軽々と振り払われた。

「俺は、KJとかいうやつをぶっ飛ばすまで消えるつもりはねえ!」

 私を押しのけて、アリスが沙也の方に飛び込んだ。


 沙也が危ない!

 振り返ると、沙也はいなかった。

 沙也がいたはずの位置に、時計針を空振りしたアリスだけがいる。


「まあアリスちゃんが抵抗したくなるのも分かる。そして私ではアリスちゃんに敵わないのも分かる」

 沙也はいつの間にか、床の端近くにいた。

「あいつ、消えやがった……!」

 私の前で、背中を向けるアリスが時計針を七時に変えている。

 ライフルで沙也を撃つつもりだ……!


「アリスちゃんの相手は、私にゃ荷が重すぎる。千理、『ドラゴンズテイル』の主人公って誰だったっけ?」

「え?」

 主人公は……リクティ。

「うるせえ、死んどけ!」

「待っ――!」

 止めるのが間に合わない!


 発砲音が耳を襲う。

 思わず閉じた目を、ゆっくりと開いた。下を向いたまま、前を見るのが怖い。

 沙也が撃たれて、血を流してたらどうしよう。そんなの見たくない。


「誰だお前!」

 アリスの声に顔を上げたら、沙也の前に剣を構えたリクティが立っていた。

 一巻のイラストと、同じ見た目の青年。赤い髪にレザーアーマー。アリスと同様に、この世界に合わせたリアルな人物になっていた。

 アリスの放った銃弾は、リクティが剣で弾いたんだ。


「えーと、これはどういう状況かな?」

 リクティが、やや困ったように私たちを見る。

「人助けのために、あの黒い服を着た金髪の女の子を倒してくれんかね」

 沙也が、アリスを指差す。リクティもアリスを見た。

「よく分からないけど、君は困ってるんだね?」

 リクティが沙也の味方をしようとしてる……!


「違うよ、リクティ!」

「違わねえよ!」

 アリスが飛び出した。

「邪魔すんなら、お前も敵だ!」

 時計針を左右とも六時に変更して、刃も出てる。

 沙也の間近で、アリスとリクティは剣をぶつけ合った。鈍い金属音が響く。


「アリス! やめて!」

 叫んでもアリスは無視して、リクティに攻め込む。二人は戦いながら、徐々に私たちから離れていった。

「沙也! 他に方法はないの? 本当にアリスがいなくならないとダメなの?」

 アリスとリクティの方を静かに眺めてる沙也に詰め寄る。振り返った沙也は、少しだけ笑った。


「世界を元に戻しても、多分KJは諦めずにまた千理を狙うよ。それじゃあ意味がない。それに、次は今回のように解決方法がないかもしれないんだ。KJだって、失敗した手は使わないだろうからね」

 沙也の話を聞いている最中も、耳に重くて激しい音が割り込んでくる。


 気が気じゃなくなって、アリスの方を見た。

 現実離れした戦いが、現実で行われている。創作世界のキャラクターがこの世に舞台を変えても、繰り広げる攻防はこちらの常識に則ったものではなかった。


 銀色の残像が、生まれては消える。二本の時計針が、目で追えない速さで振り回されてる。

 あれがアリスの本気。十歳の女の子が、二十歳の男に攻め続けていた。

 ぱっと見だと防戦一方のリクティだけど、まだ一撃も受けてない。


 ファンタジー小説でバトルをこなすリクティは、やはり主人公だからということもあって強かった。作中でも、その実力はトップクラス。

 目が離せなかった。市松模様の床を、二人は所狭しと動き回る。

 今にも勝負が決まりそうで、決まらない。


「悪いとは思うけど、無理やりでもアリスちゃんとは離れ離れになってもらうよ」

 横から沙也が言ってくる。

 二人並んで、戦いを見守っていた。

 割り込んで、止めないと……。でも、巻き込まれたらひとたまりもない。そう考えたら足が竦む。


「アリスがいなくなったら、夢と混ざってるこの現実もめちゃくちゃになるかもしれない。そうなったら、世界を元に戻すことなんて考えてる余裕ないよ」

「要は、悪夢を見たくないんだろう?」

 ……沙也の冷静な言葉に、図星だと思わされる。

「良くない。それは良くないんだ千理さんや。そうやってアリスちゃんに頼って、悪夢から逃げ続けるのは良くない。卒業しないといけないよ」


 でも、だって、さっきの電車で見た悪夢も、やっとの思いで逃げ切ったのに。

 私の意識を悪夢から引き上げてくれたのは、きっとアリスを信じる私の心だ。

 アリスがいるから助かった。今まで助かってきた。

 それを、現実にも夢の中にもアリスがいない状態にされたら、救いがない。

 自分の力で? でも、そんな……。


「せっかく、アリスと仲良くなれたのに……」

「そうだねえ……じゃあちょっと、残酷なことを言おうか。千理が悲しむのは私だって心苦しいから、できれば言いたくなかったんだけども」

 不安に胸が締め付けられて、思わず沙也の方を見る。


「なに……残酷な事って」

「うん……外は、千理の思った通りになると言っただろう? だからつまり、『アリスちゃんは味方』っていう思い込みがあるからこそ、その子は千理を守ろうとするんだ」


 ……信じたくない。

 それは、それだけは。


「違うよ……違うよ! 性格が変わったのは私のせいじゃないって、沙也が言ったんでしょ?」

 声が震える。身体から力が抜けて、立ちくらみがした。

「性格が変わった上で、千理の思いが上書きしたんだよ。懐中時計のキャラクターが凶暴化したと言ったね? でも凶暴化したのは、時計塔に住む全員。つまりアリスちゃんもなんだよ。今の様子を見れば分かるだろう」


 沙也は、戦いに目を向けた。

 アリスは密かにジェームスたちの性格を変えた犯人を捜してて、それが分かった途端に怒りをあらわにした。

 でも私と出会った時、アリスは私を疑わなかった。それは、たまたま?

 肯定も否定もできなくて、アリスを見る。


「さっさとくたばりやがれ!」

「ぐっ……!」

 アリスは両手にそれぞれ持った時計針を、リクティに対し乱暴に叩きつけていた。

 針が壊れてしまいそうなぐらいに荒々しくて、攻撃が止まらない。リクティに攻める隙を与えなかった。

 互いの武器がぶつかり合う音は重くて、悲しくて、心臓が揺さぶられる。


「おい、俺の気持ちを勝手に決めるな! 待ってろ千理、こんな奴ら、俺がぶっ飛ばしてやるからな!」

 アリスはこっちを見ずに、そう叫んだ。

「ありゃりゃ、聞かれてたか。耳がいいねえ」

 ……アリスはそう言ってくれたけど、その思考も私が歪めてたんだとしたら。

 もう、誰を信じたらいいのか分からない。


 リクティは、剣で何とか防ぎ続けてる。だけど、圧されて少しずつ後退していった。

 二つの時計針だけじゃ攻め切れない。そこに、アリスの鋭い蹴りが飛び出した。

「ぐはっ……!」

 真っ直ぐ伸びて、ブーツの底がリクティのみぞおちに沈む。その脚力で、一回りも大きなリクティの身体が浮いた。


 そこに、二つの時計針を重ねて、同時に振り上げたアリスの攻撃。

 体勢を崩した状態で受け止めたリクティは、衝撃で後ろに飛ばされた。

 飛んできたリクティは、私たちのすぐ近くで背中を強打する。


「あらら、大丈夫かね?」

 歩み寄って、他人行儀に尋ねる沙也。当たり前だ。原作を読んでもないし、初対面だから。

「ああ、問題ないよ」

 リクティは一人で起き上がって、また剣を構える。ほとんどダメージはないみたいだ。


「まさか押されるとはねえ。なあ千理さんや、『時計塔のアリス』って、バトルものだったっけ?」

「……違うけど、でも彼女はアリスだよ」

「そういうことだ! お前らの思い通りにはいかねえぞ!」

 そうしてまた、アリスはリクティと戦い始めた。


 アリスも沙也もリクティも、それぞれ自分の意思で動いてる。

 全てが私のためであったとしても、全てが私の思い通りじゃなかった。


「おやおや、これは何事ですか?」

 背後から、聞き覚えのある声がした。

 振り向いたら、そこにはミスターKJがいた。テレビで見た、白スーツ姿。


「出たな悪党め」

 そう言った沙也の横顔を見ると、少しだけ目が怖かった。誰かを睨んでいるところを初めて見たかもしれない。


「お前がKJか!」

 怒鳴り声を上げてジャンプしたアリスが、私の頭上を高々と越えていく。

 そしてそのまま、KJに飛びかかる。


 アリスの身体よりも大きな拳が、アリスを殴り飛ばした。

 一瞬の出来事だった。


「アリス!」

 驚いて、叫ぶことすら遅れる。

 KJの腕が突然巨大化して、黒く日焼けした拳がアリスを攻撃した。

 アリスはかなり遠くまで飛ばされて、危うく床の下に落ちるところだった。


「夢だから、あんな事ができるのさ」

 沙也が、吐き捨てるように呟く。

「まったく、役に立ちませんね、あの小娘は」

 KJが、元の大きさに戻った右手を左手でさすりながら言った。

 役に立たない?


「ああもう、面倒になった。千理、あの男は無視するんだ」

 沙也はそう言う。意図は分からない。

 状況についていけない。


 アリスは、よろよろと立ち上がっていた。

 ぼろぼろで、かわいそう。ふらふらで、見ていられない。

「何あれ……」

 白い蒸気のようなものが、アリスの身体から立ち上っていた。その中には、小さくて黒い何かが蠢いている。


 文字だ。この距離なら見えた。あれは、頭上の球体と同じものだ。

 アリスから出た文字は、そのまま上昇して遥か上にある世界の核に吸い込まれていく。


「くそ……ちくしょう、」

 二本の時計針にヒビが入っていた。KJの攻撃を防御するのに使ったみたいで、アリスの身体よりも大量の文字を吐き出してる。

 放出に伴って、時計針は形がなくなっていった。


 KJが、私と沙也の間を通り抜けていく。その先にはアリスがいた。

「だめ……リクティ、お願いKJを止めて!」

 沙也の傍で静観していたリクティに、縋りつく。

 袖口を掴んで揺さぶると、リクティは困ったような顔をした。


「……僕には、状況が飲み込めない。いったい誰が悪者なんだ?」

 だめだ、私よりも混乱してる。

 KJの背中越しに、鋭く睨むアリスの姿があった。


 もしかしてアリスは、立ってるのが精一杯で動けないの?

 見ていることなんて、できない。たまらず駆け出した。

 アリスを助けなきゃ!


「ダメだ、千理!」

「放して……沙也!」

 沙也の力は弱いけど、私の力も弱い。掴まれたまま膠着して、結局抜け出せない。


「アリスちゃんを助けても、千理のためにはならないんだ! 今だけは耐えてくれ!」

 沙也が珍しく大声を出してる。

 でもそんなこと、どうでもよかった。


 武器を失ったアリスが、また巨大化したKJの手に掴まれて、上へと投げられる。

 その物扱いが許せなくて、頭が熱くなった。


「やめ……!」

 叫ぶ前に、アリスは大きな球体の中に飲み込まれた。

 落ちてこない。

 混ざった。世界を分解した文字の中に、混ざってしまった。


 どうしてこんなに、酷い目に遭わないといけないんだろう。なんで?

 もう……何も考えたくない。


「千理、聞いておくれ。前に『時計塔のアリス』のおかげで悪夢に打ち勝った話をした時に、最初の一回が大事だったと言ったね? その一回が、必ず悪夢を見るという固定概念を崩したって。今回も、それをするんだ」


「千理さん、随分と持ちこたえましたね。私の想定では、洗脳した『時計塔のアリス』のキャラクターに襲われた時に絶望すると思いましたが、あなたの意思の方が強かったようです」


「アリスちゃんがいなくても悪夢に立ち向かい、そして勝った。その結果を今から勝ち取るんだ。そうすれば、本当の意味で千理はトラウマを克服できる。利用されることもなくなるさ。全ては考え方次第なんだよ」


「本当なら千理さんは、あの小娘や奇妙な懐中時計のキャラクターに襲われるはずだったんですよ。それなのに懐中時計は襲わず、小娘にいたっては千理さんの味方をする始末とは」


「千理、聞いてるかね、大事な話なんだ。千理の超能力は、思いを実現する力なんだよ。悪夢は、千理の思いが見せてるんだ。悪夢を恐れちゃいけない。怖くない。夢なんて、所詮は自作自演なんだから」


「この世界を作ってくれたことには感謝していますよ。ですが、あなたに心があると世界は不安定になる。だからもう、何も考えないでください」


 ……突き飛ばされた気がした。

 見上げないと見えなかった世界の核が、いつの間にか正面にある。そして、みるみる遠ざかっていく。

 私、落ちてる。


「頑張れ千理! 立ち向かうんだ!」


 沙也の叫び声が聞こえた。

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