第6話

「……乗ろう、アリス」

 私を見るアリスへ、そう伝える。

「分かった。俺が先に行く」

 そう言ってアリスは、右手に六時の時計針を握って電車に乗り込んだ。初めての電車だけど、楽しむよりも警戒を強めている。


 私も後に続いて、中を見回した。

 他の乗客はいない。

 やっぱりか。なんとなく乗る前からそんな気がしていた。

 この世界は虚無感に満ちているから、誰かがいるなんて思えない。


 扉が閉まって、電車がゆっくりと走り出した。

 ホームが次第に遠くなって、そして窓の外は暗闇ばかりになる。

「とりあえず安全そうだな」

「うん、座ろっか」

 そう言って先に、適当な座席に腰を下ろす。アリスは隣に座って、時計針は手元に置いた。


 ロングシートを、二人だけで贅沢に使う。

 電車のシートはコンクリートよりも、駅のタイルよりも、畳よりも優しい。ふかふかの感触に身体を預けていると力が抜けて、うとうとしてきた。

 身体が睡眠を求めてる。


 感覚的には、夜中の三時ぐらいかな。体内時計も、もう当てにならないけど。

 眠いし、疲れた。こんなに歩いたのは久しぶりだ。自転車に乗れるようになってからは、長距離を徒歩で移動する機会はなかった。

 くたくたで、横になる。


「疲れたか?」

「うん……ちょっと」

 目を閉じると、すぐさま睡魔に意識が薄められていった。

 ……そうだ、枕元に『時計塔のアリス』を置かないと。

 ああ、でも、なくしちゃった。どうしよう。

 眠気に抗えず、意識が沈んでいく。



 私がいて、お母さんがいて、お父さんがいる。

 その三人で食卓を囲み、テレビを見ていた。

 画面の中で、ミスターKJが楽しそうに笑っている。

『素晴らしいですねえ! そうは思いませんか千理さん!』

 KJが私を見る。テレビ越しに私に話しかけてくる。


 うーん、なんて答えよう。

「そんなことより、アリスがどこに行ったか知りませんか?」

 一緒に電車の中にいたはずなんだけど。そう考えて、はっとする。

 どうして自宅にいるんだろう?


 ああ、これ、夢だ。アリスはどこ?

 なんで私は、そんな大切な事を忘れてしまっていたんだろう。夢の中の私は、本当に鈍感だ。

「そういえば千理、アリスちゃんがいなくて大丈夫なの? 本もどこかに行ってしまったんでしょう?」

 お母さんの言葉に、ぞわりとした。


「『時計塔のアリス』がないと悪夢を見てしまうんだろう? でも夢の中じゃ、パパもママも千理を守ってやれないぞ?」

 お父さんの言葉が追い打ちをかける。

「なんでわざわざ言うの!」

 怒鳴ったけど、声が震えていた。

 テーブルの向かい側に座るお父さんとお母さんが、にたにたと笑って怖くなる。


 そこにいる二人は、誰。違う。

 逃げろと頭が警報を鳴らす。身体が石のように動かない。

 私は現実で『時計塔のアリス』をなくしている。


 また、悪夢だ――!


 目の前の家族だった何かが急に席を立つと、顔に笑みを貼り付けたまま迫ってきた。

「ひっ」

 椅子から転げ落ち、声も出ずに逃げ出す。扉を開けた先に廊下はなかった。暗闇しかない。それでも走った。


「どこに行くの千理、そっちには何もないわよ」

「千理、もう諦めなさい」

 知らない声が上から響く。スピーカー越しのようにノイズが混じっていた。

 走っても走っても進まない。後ろから水たまりを踏むような足音が追いかけてくる。

 自分の身体がいつのまにか、泥沼に首まで浸かっていた。思うように動けず、さらに遅くなる。迫る音はすぐ後ろまで来ていた。


 追いつかれる!


「――!」

 その場で潜った。もう下にしか、逃げる場所がない。

 目を閉じて息を止める。夢だから呼吸の心配はいらないと気付いたけど、そんなことはどうでもよかった。


 早く早く、早く終われ! 早く目覚めろ!


 ひたすら繰り返し、一向に従わない自分の身体に苛立つ。現実で目を開けるだけなのに、どうしてこんなに難しいのか。

 足首を誰かに掴まれ、身体がびくりと跳ねる。反射的に足を引いても、力強いその手は放れない。何も見えなくて、その手が誰なのかも分からない。

 分からないまま、泥沼の底へと引っ張られる。


 とても大きな悲鳴が、耳元で聞こえた。でも悲鳴のようでいて、大笑いしているようにも思える金切り声。

 でたらめに暴れて、誰かに掴まれた頭が乱暴に揺さぶられて、叫んでいるのは私なのか私以外なのか判別も出来ないまま、息苦しさに耐え続ける。


 ――結局私はアリスがいないと、こうなってしまうんだ。


 弱くて情けなくて、涙が出そうで笑いそうになる。

 何も抵抗できずに、どこまでも暗い底へ引きずり込まれていく。

 きっとこの先は、死が待っている。

 そう考えた私の手を、誰かが掴んで強く引き上げた。



 淡く光る電車の照明、リズムよく鳴る走行音。静かに揺られる身体の感覚。

 ゆっくりと浸透するように、自分が自分であることを再認識する。

 ロングシートの上で、仰向けで目が覚めたみたいだ。


「千理、大丈夫か!」

 アリスが私の顔を覗き込んでいる。不安に震える瞳だった。

 初めて見る表情だ。私のせいでそんな顔にさせてしまったと分かって、心がずきりと痛くなる。


 ああ、でも、戻ってこれた。よかった……。

 強張っていた全身から力が抜けて、深く息を吐く。寝汗でぐっしょりと身体が濡れていた。

 ……いや、そういえば元々びしょ濡れだったっけ。


「大丈夫か? なんかヤバかったぞ」

「……うん、何とか。ごめん心配させて」

 笑ってみせたけど、ぎこちなくなった。

 正直なところ、大丈夫じゃない。大丈夫と言えば安心させられるとしても、無理だった。


 こうなると、もう眠れない。眠りたくない。

 私は、悪夢を克服できていなかった。


 高校生になって、当時よりも精神的に成長したつもりでいたけれど、結局無力なままだった。『時計塔のアリス』がないと悪夢を見てしまうのは、絶対的な決まりのままだ。

 どうしよう。……どうしようもない。


「怖い夢、見たのか?」

「うん。すごく久しぶりにね……」

 とりあえず起き上がって、シートにもたれかかる。暴れていた心臓もだんだん落ち着いてきた。

 生乾きだった前髪が、また額に貼り付いている。とりあえずシャワーを浴びたい……。


「もう寝ないのか? まだちょっとしか寝てないぞ」

「大丈夫大丈夫。ちょっとでも寝られたから。それよりアリスも眠いんじゃない? 寝てていいよ」

「いや、俺は……」

 努めて明るく返事をしたけど、アリスが私を心配する顔は変わらなかった。悪夢を見ている時の私は、そんなに酷い様子だったのかな。客観的に見たことがないから分からない。


「じゃあ、眠くなるまでお喋りでもする?」

 さらにテンションを上げて話す。このノリは沙也にだって見せたことがない。もう、色々とやけくそだ。

「……おう、まあ、そうだな。じゃあ何か喋るか」

 無理したおかげで、ようやくアリスは笑みを見せてくれた。


「ずっと言おうと思ってたんだけどよ、千理は俺の物語を知ってて、俺が千理の物語を知らないってのは不公平だな」

「あー、確かにそうかもね」

 元のテンションに戻しつつ、頷く。言われてみればそうだ。


 そもそも私の人生を一ページでも書き綴った物語なんて出版されていない。

 自伝を出すのは有名人ぐらいのもので、庶民の私には無縁の話だ。普通の人はせいぜい、日記帳とかSNSあたりが人生の活動記録になるぐらいかな。


 私はどっちもやってないけど、記録だけは頭の中にある。

「語るとなると、ちょっと恥ずかしいな。んー、平凡すぎて何を話せばいいのやら」

 物語として起承転結でまとめるのは難しいし……。

「俺だったら、チョコが好きとか。そんなんでいいんだよ」

「あー、なるほどね」


 ……でもここはやっぱり、悪夢について語るべきかもしれない。

 私と悪夢、そして『時計塔のアリス』の関連性を、ここで改めて理解してもらう。

 そうしたら、さっき私が苦しんでいたことにアリスも納得してくれるはずだ。

 まだ気にしてるみたいだし、事情を話しておこう。


「とりあえず私の困った悩みについては、聞いてほしいな。さっきの悪夢について」

「おお、聞かせてくれ! 実はまだ気になってたんだよ!」

 悪夢から救ってくれたアリスという話は、他人に語るのはちょっと恥ずかしい。 しかも今回は本人に聞かせるんだから、なおさら照れる。


 私を象徴するエピソード。その始まりは、とてもハッピーなものじゃなかった。


「私は幼い頃、毎日のように悪夢ばっかり見てた。それこそ、夜が来て眠らなくちゃいけないのが嫌になるくらいに」

 今でもはっきりと覚えてる。話すとなると、なかなか長くなりそうだ。

 きっかけは……。



「まあ、そんなことがあったんだよ」

「……なるほどなあ」

 二人で電車に揺られながら、簡単に幼少期のトラウマとその克服を語った。

 静かに聞いていたアリスは腕を組んで、目を閉じると深く頷く。私だけが成長した今となっては、アリスは私よりも頭一つ小さい。


 それはそうと、やっぱり当の本人に聞いてもらうのはかなり恥ずかしかった。

 んー、と話を頭の中で整理している様子のアリスと、それをじっと待つ私によって沈黙が訪れる。

 静かになると、電車の走る音がボリュームを上げたわけじゃないのによく聞こえるようになった。


 窓の外では、暗闇が絶えず流れ続けている。

 いつまで経っても、明るい場所には出そうにない。

 私たちは今、どこにいるんだろう?


「病院でも治らねえってのは困ったもんだよな」

「そうだね……病院じゃ結局何も解決しなくて、そこの先生や両親が『もう悪い夢は見ないよ』って言ってくれても、寝れば悪夢を見るっていう私の固定観念は崩れなかった」


 悪夢を見るという考えは、毎夜繰り返されることによって私の中で次第に凝固し、ちょっとやそっとの他人の意見じゃ揺らがなくなっていた。

「でもその固定観念が上書きされたんだよ。『時計塔のアリス』を枕元に置いたら悪夢を見ないって」


 初めて『時計塔のアリス』を枕元に置いて眠った夜、私は無事に朝を迎えることができた。

 その一回の成功が、何よりも大事だった。

 眠れば必ず悪夢を見るという固定観念の、その『必ず』というのが覆されたんだから。

 それが決め手になって、私の中で安眠の条件が出来上がった。


「その本がなくなっちまったから、さっき千理は悪夢にうなされたってことか」

「うん……そういうことだね。小学生だった頃の固定観念が未だに消えてないなんて、変な話だよね」

「トラウマってやつなんだろうな」

 アリスは同情してくれた。

 嬉しいけど、自分が情けない。


「『時計塔のアリス』は学校だとか、外出時にも持ち歩くようにしてたんだよ。どこかで居眠りしても安心なようにね。自分でも異常だって思うけど、それが習慣になっちゃって」

 頼りになるほど、それがない時に落ち着かなくなる。

 その気持ちが悪夢を見せる原因だとしても、こればかりはどうしようもない。


「大変だな。俺は、寝ることは好きだ。苦手意識もない」

「そういうものだよね」

 私が悪夢で眠れない日々を過ごしていた時、いつもぐっすりと眠ることができる人が羨ましくて、そして妬ましかった。

 寝不足なのも相まって、当時の教室では不機嫌な顔ばかり……そんなことを思い出す。


「でも千理の話を聞くと、なんだか俺も身構えちまうな。寝る時に」

「アリスは大丈夫だって。そんな臆病でもないだろうし」

 原作通りの性格ならともかく、今の性格なら大丈夫だと思う。

 それに妙な影響を与えたくない。誰だって眠れないのは嫌だろうし、ぐっすりと眠りたいはず。


 アリスが、大きなあくびをした。

「そろそろ寝る?」

「あー、そうだな……。揺れるのが気にいらねえけど、このシートは寝心地良さそうだ」

 アリスは眠たそうな目をしながら、座席に指を何度も押し込んで感触を確かめる。


 この先に何があって、何が起こるのか分からない。まともな寝具なんて、見つからないと思った方がいい。

 だからここで睡眠をとって、少しでも身体を休めておくべきだ。


「寝ていいよ。私は起きてるから」

 この電車がどこかの駅に着いたら、あるいは何か異変が発生したら、その時は起こす人間がいた方がいい。つまり常に、どちらかは起きておく必要がある。


「千理は……起きてるんだな」

「うん。何かあったら起こすから」

 正直なところ、眠る前よりも疲労感は増していた。

 でも私にできることといえば、アリスを休ませてあげること、それぐらいしかないから。


「そうか。じゃあ寝るか。二時間経ったら起こしてくれ。あーでも、その前にどこかに着くかもな」

「どうだろう。というか、二時間でいいの?」

「ああ。爆睡してる場合じゃないしな。それだけ寝りゃ充分だ」

「そう、分かった」


 ふと原作の、就寝前のシーンを思い出した。

「そうだ、三つ編みにしてあげようか?」

「おー、頼む。いつもはマリーにやってもらってるんだ」

 アリスの表情がぱあっと明るくなって、思わず私も嬉しくなった。

「だよね、知ってる」

 ご機嫌な表情で背を向けたアリスの髪を手に取り、編み始める。


 ヘアゴムはポケットの中に二つあるから、左右に分けるのも問題ない。

 近頃髪が伸びてきたから読書の際に煩わしくならないよう、前髪をアップにしてとめる用が一つ。もう一つは予備であり、沙也に貸す用だ。頻繁に使うわけじゃないけど、常にポケットに入れておいてよかった。


「そのまま寝ると、髪が下敷きになって傷みやすいからね」

「まあ長いからなー」

 だから髪を纏めてから寝るのが一般的だ。

 人によって纏め方は様々だけど、その中の一つが三つ編み。編むのが多少面倒ではあるけども、快適性においては申し分ないらしい。私はロングヘアーに挑戦したことがないから、そのあたりは聞いた話だけど。


 お互い無言のまま、穏やかな時間が過ぎる。沈黙が気まずくならないのは、ならないだけの関係になったということ。まだ出会って間もないはずなのに、アリスには強い信頼と親愛を感じた。

 アリスの方はどうだろう。親友は一方通行じゃ成立しない。

 私のことも、好きになってほしい。


「できた」

「おお、サンキューな」

 三つ編み完成に伴って、作中の同じシーンが浮かぶ。

 その時マリーに対して、アリスの台詞は『ありがとう』だった。だからなんだっていう話なんだけど、違和感を主張する自分が未だに存在している。

 刻み込まれた記憶と愛着は、心の深い所に根付いたままだ。


「……あ、そういうことか」

 ふと、性格が違うことに対する疑問に、納得のいく答えが見つかった気がする。

「何がだ?」

「いやいや、何でもない。どうでもいいことだから」


 どうでもいいんだ。それが答え。

 彼女が本物のアリスなのかどうか、いちいち原作と比べて、それを気にすること自体が間違いだった。

 別に原作と違っていてもいいじゃんというか、目の前の少女に親しみを感じたってことが大事なんだ。


 それに気が付いたというか、考え方が変わったというか。

 そんな感じで、自分でも不思議だけどあっさり吹っ切れた。なんだか心がすっきりして、清々しい。


「ならいいけどよ。じゃあ、寝るわ」

「うん、おやすみ」

 ブーツを脱ぎ、ゆっくりとシートに身体を預けるアリス。

 幅が狭くて、小柄なアリスでも寝返りを打つだけのスペースがない。おまけに振動する。


 ただ揺れに関しては心地良いという人もいるから、そこは一概に悪い要素とは言えないか。

 仰向けになったアリスは、静かに目を閉じた。アリスから受け取ったトップハットと時計針を、シートの上に置く。


 さて、どうしようか。

 諦めが悪いと思いつつも、ポケットからスマホを取り出す。

 電源ボタンをいくら押し込んでも、やっぱり画面は点灯しなかった。

 まさか水没するとは思わなかったなあ。それも自分ごと。


 できるなら、アリスがここにいたという証をスマホに残しておきたかった。普段はあまり友達と写真を撮ったりしないんだけど、今回は強くそう思う。

 もし世界が元に戻ったら、それはアリスと別れることになるわけで。

 会おうと思ったら会える現実の友達と違って、非現実の中で出会ったアリスと再会する手段は思いつかない。それこそ夢じゃないと叶わないんだと思う。


 とはいってもその前に、まずどうやって戻るかだ。

 『境界のない理想の世界』が、進む先で見つかればいいんだけど。

 見つかったら何もかも元通りという保証はない。あの本は、ただの手掛かりというだけ。

 

 でも、見つけたら何かが変わる気がする。それだけは根拠のない自信があった。

 電車は走り続ける。

 窓の外は、相変わらず暗闇が流れるばかりで代わり映えしない。

 ちらりとアリスに視線を向けると、すやすやと眠っていた。呼吸も穏やか。後で起こさないといけないから、ちょっと心苦しい。


 再び窓を眺めて、ぼんやりする。

 本があれば時間を潰せるのに。それに、眠気にだって打ち勝てる。

 手持ち無沙汰で過ごす夜は長い。

 おまけに疲労と悪夢でコンディションも良くないときた。


 電車は景色を眺めることが楽しく、それだけで暇を潰せるけど、この窓から見えるのはひたすらに黒色だ。地下鉄の車窓って、常にこんな感じなんだろうか。合成でもいいから街並みを映してほしい。

 ずっと見ていると、なんだか吸い込まれそうな感じがして目を逸らす。なんだか気持ちが悪くなった。


 アリスの睡眠時間を稼ぐということは、すなわち私一人で睡魔に抗い続けるということだ。

 週末は夜更かしするのが習慣だったし、徹夜をしたとしても元気に動ける程度には若い。それは子供の特権だよ、と前にお父さんが言っていた。


 夜遊びする生徒は、夜に活動した分を昼間に寝て取り戻すのがよくあるパターン。授業中に居眠りするのは、夜に十分な睡眠をとっていないからだ。

 ただし退屈や日差しの心地よさ、お腹いっぱい等の要素で眠気が訪れることもある。それは置いといて。


 つまり私も結局、どこかで眠らなないといけない、眠ってしまうのは避けられないということ。その時にどうするかを考えないといけないんだ。

 今夜中に全てが解決できればいいんだけど、依然として状況に変化はなく、時間の経過に伴って疲れと眠気だけが増していく。


 窓の外は暗闇以外を映さないし、電車は止まらない。

 次の駅はどれだけ遠くにあるの、なんて考えることすら間違っているんじゃないかと思ってしまう。


 ひょっとするとこの電車はその場で揺れているだけで、最初から進んでなんかいないんじゃないか、という仮説が頭の中で生まれた。

 その線は薄いとしても、そう考えてしまうぐらいには延々と揺れ続けている。


 山手線みたいに円環状の線路をぐるぐると回っているのか、あるいはバスのようにボタンを押して降りますと自己申告する必要があるのか。いや、バス停に待っている人がいなくてもバスは停まるはず。あれ、どうだったっけ。

 ともかく降車のボタンはない。電車だし。


 となると、できることは決まっている。

 それはひたすらに待つことではない。

 立ち上がろうとして、横で寝息を立てるアリスに気が付いた。

 先頭の車両、すなわち運転手に会いに行くとしても別行動は避けたい。

 何かのきっかけで二人がバラバラになり、もう二度と会えなくなるのは絶対に嫌だ。


 これまでの経験上、前の場所には戻れなかった。

 今回もそうだとしたら、車両ひとつ移動するだけでも戻れなくなるかもしれない。

 だったら絶対に別行動はしない。

 そう決めて、浮かせたお尻をシートに戻した。

 さっきまでと同じように、ひたすら考え事でもして時間を潰そう。



 ……長かった。

 やはり時間を忘れることと時間の経過を待つのでは、絶対的な体感速度の差があると思う。

 結果的に費やす時間が同じだったとしても、脳みそはそう感じない。時間は楽しければ加速して、退屈では緩慢になる。


 時の流れは私が気付いていない時には張り切るけれど、監視されていると途端に動きを抑える。

 まるで、だるまさんがころんだのような感覚だ。目を離して放置した方が生き生きとするんだろう。そう考えると生き物みたいだ。


 時間の流れを操る超能力なんてものは私に備わってないから、ただ身を任せるしかない。

 考察がひと段落したら、また別の適当なテーマを考えて暇を潰す。それを延々と繰り返した。


 たまに脳内の話題が今後への不安に切り替わって、それが思考を支配しそうになる。

 そうなったらアリスの寝顔を見て、心の平静を取り戻した。

 ずっと座ってばかりなのも眠くなってくるから、考え事の合間に何度か立ち上がってストレッチもやった。


 思考はもやもや、身体はふらふら。

 何度も何度もあくびをしながら、睡魔と空腹を黙って耐え続けた。


 こんなに自分と戦ったのは初めての経験かもしれない。こういうのをストイックっていうのかな。

 そうして体内時計で確実に二時間が過ぎたところで、床で熟睡するアリスを起こすことにした。


 立ち上がると、電車の揺れによろめく。転びそうになった。

「アリス、起きて」

「んっ、うー……」

 身体を揺さぶると、アリスは眉間に皺を寄せる。それからゆっくりと目を開けた。


「……もうにじかんたったのかあ……」

 ごろりと横向きの体勢から仰向けになって私を見てくるアリスは、やっぱりまだ眠そうだった。そして照明に目を細める。

「この電車、まだ走り続けてるんだよ。このままじゃ何も変化がない気がする。だから先頭車両まで、一緒に行こう」

「そうか……分かった」

 アリスは思い切り伸びをしたら、スイッチが入ったように元気よく起き上がった。


「あれ、なんで俺は床で寝てるんだ?」

「ああ、それは……寝返りしたら落ちちゃって。落ちそうになったのは気付いたんだけど、支えるのが間に合わなくって……」

 手を合わせて謝った。


 アリスは落下の衝撃で小さく呻き声を上げたけれど、目を覚まさずにそのまま眠り続けた。それだけ疲れていたんだろうなあと思うと、原因を作ったのは私だから申し訳なくなる。

 抱きかかえてシートに戻すことに挑戦しようと手を伸ばしたら、振り払われた。防衛本能というか、寝相が悪い。


「そっか、まあいいや……おっ、これ枕の代わりにしてくれたのか。ありがとな」

「うん。まだちょっと湿ってるけどね」

 せめて頭だけはと、アリスの頭を浮かせて、その下に折り畳んだブレザーを差し込んでいた。


 役目を終えた上着を受け取って、軽くはたいて汚れを落とす。そして袖を通した。

 立ち上がったアリスの背中も、同じように手で綺麗にする。床が綺麗だから、ほとんど汚れてない。むしろ汚したのは、濡れた私たちと土塗れの靴底だ。

「サンキュー」

「お尻は自分でやってね」

 同性でも、ちょっとためらう。


「このまま三つ編みで行こうかなあ。ほどいたら、また寝る時にやるの面倒だろ」

 ロングスカートの汚れをはたき落としながら、アリスが言う。

「いいんじゃない? 三つ編みも似合ってるし」

 というかシャワーも浴びることが出来ないし、櫛もない。

 三つ編みをほどいてウェーブした髪は、再びストレートにしようと思ったら手櫛で頑張るしかなさそう。だとしたら、かなり根気がいる。


「それか千理みたいに短く斬っちまうか」

「それはダメ」

 アリスが時計針を取ろうとしたから、慌てて止める。

「なんでだよ」

「それで斬っても変になるでしょ」

「動きやすさ重視でいいと思うけどな」

「いやいや、見た目も大事だよ」


「……分かったよ」

 ちょっと不満そうだけど、アリスが諦めてくれた。

 よかった。ショートカットもちょっとだけ見てみたかったけど、ひとまずアリスの髪は守ることができたから良しとしよう。

 アリスの頭にトップハットを被せて、時計針を手渡す。

 そうして、いよいよ行動を開始した。



 扉を開けて、前の車両に移る。そして奥の扉を目指し歩く。

 そしてさらに前の車両へ。それを繰り返した。

 繰り返して繰り返して、繰り返し続けた。


「電車って長いんだな」

「うん……」

 十回ほど移ったところで、アリスが感想を言った。

 乗客とは、まだ一人も会ってない。


 座席の配列も変化がなく、扉を開けると延々と同じものが見えた。

 こう似たような光景が続くと、本当に前へと進んでいるのか疑問になってくる。

 これって、無限ループというやつ? 錯覚だと思いたい。


「どこまで続いてんだ?」

「分からない……」

 アリスはぼやくけれど、足を止めない。六時の時計針を持って、私の前を進み続ける。


 問いに明確な答えを返すことが出来ないので、違う話を振ることにした。

「さっきは、よく眠れた?」

「あー、まあまあだな。夢は見なかった」

 扉を開けながら、振り返らずにアリスは言った。


 それはよかったね、と言いそうになって堪える。夢イコール悪夢というのは、私にしか当てはまらない。見ない方が幸せなんてのは、多分違う。

「千理、眠気は大丈夫か?」

「うん、平気平気。それよりアリス、お腹空いてない?」


 本当はすごく無理してる。でも言わない。

 言ったところで、解決方法なんて世界を元通りにする以外にないんだから、アリスを困らせるだけ。じゃあ言わない方がいい。


「いや、そうでもねえな。千理は?」

「私も大丈夫。行こう」

 互いを気遣いつつ、励まし合いながら、次の座席車へ。


 そこにあるのが当たり前で、安心感すら覚える空席の整列。

何かしらの変化がないと、単なる繰り返しだ。折り返さないシャトルランのようなもの。

 何度も何度も扉を開き、ただひたすらに歩く。


 意識は朦朧として、たまに自分が何をやってるのか分からなくなる。

 ちょくちょく会話して、疲労やその他諸々から気を紛らわせた。

 それでも終わりの見えない現状は、不安を煽る。

 絶望感……。それって、こんなときに使う言葉なのかもしれない。


 今までは、やがてどこかに辿り着いていた。

 今回も、そうであってほしい。


「千理、大丈夫か」

「うん、大丈夫」

 振り返ったアリスに、笑顔を作って答える。

 強がることができるのは、傍に心強いアリスがいるから。一人と、一人じゃないは違う。


 抱える問題は多い。食事に、お風呂や着替え。そして私だけ睡眠の問題もある。どれも深刻だ。特に、最後が……。


 また、扉の向こうへ。

 前の車両に移って、奥の扉を目指し歩く。

 眠気と疲れで頭がぼーっとして、なんだか立ったまま夢を見ているような感覚になってきた。


 こう似たような光景が続くと、本当に前へと進んでいるのか疑問になってくる。

 これって、無限ループというやつだ。錯覚のはずなんだけど、分からなくなってきた。

 ……あれ、さっきも同じようなことを考えた気がする。どうだったっけ。


「あーもう! どうなってんだ、この電車は!」

 いい加減アリスもうんざりしてきたようで、言葉に苛立ちが混ざっていた。

 もう進むことは諦めようか。

 でも諦めたところで、その先はどうにもならない。進むしかないって、そんな気がする。


「こうなったら意地でも先頭まで行くぞ! 千理、それでいいか?」

「うん。頑張ろう」

 アリスがまだ歩み続ける限り、私も進もう。

 今必要なのは、諦めなんかじゃない。


 揺れる電車の中、その先を目指す。

「……千理、俺が寝てる間、ずっと起きてたのか?」

「まあ、うん。私まで寝たら、何かあった時に困るし」

「ずっと何してたんだ? ヒマだったろ」

「ひたすらぼーっとしてたよ」


 軽く笑ってみせる。

 嫌気がさすような状況でも、アリスとの会話は楽しいものでありたい。

 私が笑ったことで、アリスも笑顔を見せる。それでよかった。

 そうやって元気を取り戻しながら、本当に進んでいるのかは不安だけど、前に向かって歩き続けた。


 でも終わらなかった。

 瓦礫の海、土の道にエレベーター。それらの場面は切り替わったのに、このシーンがいつまで経っても終わらない。次に進まない。頭がおかしくなりそう。


 もう、疲れた。

 電車はどこまでも連結していて、ループしていないなら、車両が走らなくても中を通っていけば目的地に辿り着けるんじゃないだろうか。あまりにも長すぎる。

 色々と、限界が近付いていた。


 これは、電車の形をした通路なのかもしれない。そんなことを頭の中で考える。

 揺れるのは、走ってますよという演出とアピール。窓の外が真っ暗なのは、止まっているのがバレないようにするためだ。

 なにそれ、ひどい話だ。せめて動く歩道にしてほしい。


 やめてほしい。本当にもう、閉じ込めるのはやめてください。

 ごめんなさい。

 許してください。

 なかったことになりませんか。いや、やり直させてください。

 誰か助けてください。神様、お願いします……。


「おい千理、大丈夫か?」

 声に驚く。そして、立ち止まっていたアリスにぶつかりそうになった。

「……ごめん。ちょっと、ぼーっとしてた」

 自分でもはっきりと分かるほど、反応が鈍かった。


 ……何を言ってるんだ、いや考えてるんだ私は。自分でも分からなくなってきた。

 アリスの存在だけが、私の心が折れないように支えている。

 そしてまた、扉の向こうへ。


 もう何度目か分からない扉を開き、代わり映えのしない現状に踏み込んだ。

 アリスが溜息をついて、振り返る。

「千理、ちょっと休もうぜ」

「うん……じゃあ一旦、座ろうか」

 先に痺れを切らせたのはアリス。私も同意して、探索を諦めるしかなかった。


 疲れているから、隣に座っていても会話する気にならない。アリスも黙ってる。

 この状況は、乗客である私とアリスの行動以外に変化がない。いつまで経ってもどこまで行っても、走り続ける座席車という舞台を維持し続けている。


 ページをめくってもめくっても場面が切り替わらず永遠に話が進まない、そういう小説のワンシーンみたいだ。むしろ同じページが何枚も綴じられてるみたいに感じる。

 そんな小説は読者も、そして登場人物もやってられない。

 一刻も早く打ち切るべきだ。残りのページを全部破り捨ててでも、物語を終わらせるべき……。


 電車が、今までと違う揺れ方をした。身体が進行方向とは逆側に引っ張られ、隣に座っていたアリスの身体にのしかかってしまう。

「ごめん、アリス」

「いや、それはいいけど、何事だ?」

 アリスに支えられながら、起き上がる。

「ブレーキだよ、これ」

 長らく走り続けていた電車が、ようやく走ることをやめようとしてる。


 やっと終わった……。

 深く、安堵の息を吐く。表情が勝手に緩んだ。

 それにしても、どうして突然?

 ゆるやかなブレーキ音とともに、スピードが落ちていく。


「停まるのか?」

 アリスも、目を輝かせてる。

「うん。やっとね」

 なんとなくだけど、駅に着いたからというより、時が来たから駅が用意されたような気がする。私の思いが神様に通じたのかもしれない。


 ひたすらに真っ暗だった窓に、明るい駅のホームが滑り込んでくる。また、白くて何もない必要最低限の場所だった。

 停車して、さあ降りなさいと言わんばかりにドアが開く。私たちが出るのを待っているのか、電車はじっとしたままだ。


「降りよう」

「おう」

 時計針を銃の時刻に変えて、アリスが私より先に降りる。

 周囲を警戒するアリスと同様、安全を確認しながらホームに両足をつく。

 その直後、背後でドアが静かに閉まった。そして電車が走り去っていく。


 長時間電車に揺られていた感覚が、揺れないホームに立ってもまだ残ってる。

 BGM代わりの走行音が聞こえなくなった今は、とても静かだ。

「誰もいねえな」

 乗った駅に戻ってきたと錯覚するぐらい、構造が全く一緒だ。

 でもエレベーター横のボタンは下向きのものしかなく、そこだけが前回と違った。


 上には行けず、さらに下へ向かうしかないらしい。

 行き先は一つ。それ以外の選択肢がない。

 今私たちがいるのは『B1』で、その下にあるのが『B2』だった。

 他に進む道も見当たらないので、エレベーターに乗り込んだ。

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