第5話

 水面から顔を出すと、遥か上に広がっているはずの空は暗闇に変わっていた。

 そして、なぜか雨。しかも土砂降りだ。

 十数秒ぶりの呼吸を繰り返す。


 もしかしたらこの雨は、溶けた空がどばどば落ちてきてるんじゃないだろうか。だとしたらこの雨はかなり汚い。私たちが落ちた水の中だって綺麗かどうか分かったもんじゃないし、とりあえず、できるだけ飲み込まないようにしよう。


「帽子がない! どこいったー!」

 慌てた様子の、アリスの声が耳に届く。

「帽子? 脱げた――」

 振り向いた瞬間、目が眩んだ。自分の視界を手で遮る。


 光が私たちの方を照らしてる。明るさが尋常じゃない。眩しすぎ。

 一瞬しか見なかったけれど、横に長い光だった。複数の光がずらっと並んで、揃って私たちのいる方を向いているのかもしれない。


 薄く目を開け、直接光を見ないように手をかざしながら、アリスの帽子を探す。

 光で照らされているおかげで、水面に浮かぶトップハットのシルエットはすぐに見つかった。ここよりも、光に近い方にある。


「アリス、あそこにある!」

「おー、あれか!」

 私が指差すと、再びアリスに手を握られ光の方へ引っ張られていった。光は直視できないほど眩しいので、下を向く。すると水面も光を跳ね返すから眩しい。こいなるともう目を閉じるしかなかった。


「よーし帽子ゲット! あっ、千理! 前に花があるぞ!」

「花? スイレンでも咲いてるの?」

「いや、何の花か分からん」


 言われて私も見ようとするけれど、そうなると光を直視することになる。

 花がなんなのか以前の問題だった。

 前方が目に優しくないからやや後ろにいるアリスを見ると、こっちはこっちで装飾のシルバーが反射して眩しい。普段は便利な光も、今だけはとても迷惑。


「眩しいのか?」

「うん、かなり。アリスは平気なの?」

「俺は大丈夫だ。とにかく千理、俺がいいって言うまで目を閉じてろ」

 頷いて言われた通りに目を閉じると、アリスは再び私を引っ張る。これは、更に光の方へ向かっているみたいだ。


 ずっと頼りっぱなしだ。そう考えて、申し訳なくなる。

 アリスに甘えてばかりなのは良くない。私も何か、役に立たないと……。


 誘導された私の右手が何かに触れる。これは何だろうと感触を確かめた。

「これって、土?」

「ああ。地面がある」

 アリスが水から上がる音が聞こえて、顔や髪に水しぶきが掛かる。既にずぶ濡れなので、そこは気にならない。


 アリスが言っていた花が、そこにあるみたいだ。踏みつける音が、次第に遠ざかっていった。

 私は服が汚れる事なんて今更だと、その土に身体を預ける。

 ややあって、離れたところでカチカチと聞き覚えのある音が小さく聞こえ、直後に銃声が響いた。


 驚いて飛び跳ねている間にも続けて三発。やや間を置いてもう一発。更に一発の、計六発。

 その発砲音には毎回、何かが割れるような音がセットで聞こえた。

 花を踏む音が近付いてくる。


「目、開けていいぞ」

 傍で聞こえた声に従い目を開くと、さっきまで目を開けられないほどだった照度が随分と落ち着いていた。過剰だった明るさが、丁度良い具合になっている。

「ありがとう、アリス」

「気にすんな」

 アリスは、にっと笑う。前髪がおでこに貼り付いていた。

「私たち、すっかりずぶ濡れだね」

「ああ。まったく災難だぜ」


 アリスに引っ張られ、私も上陸した。制服が吸った水が、足元にざばーと落ちる。

 地面の上には、色とりどりの花が咲いていた。花というかこれ、花畑だ。

 何の花だろう。今まで見たことがない。カラフルでキレイな花びらだけど、なんだか造花みたいに硬くて乾いた感じだ。

 その花畑の周囲に、散々私を苦しめた光の正体を見つける。


 何故あるのかはさておき、撮影用のライトだった。正面に四台、左右に三台ずつ並んだ計十台の照明が、花畑をこれでもかとライトアップしていたらしい。

 アリスは正面の四台と、左右一台ずつを時計針ライフルで撃ち抜いたようだ。その照明は光を放たなくなっている。

 これで六割の照度ダウン。何よりも、特にうっとうしかった正面のライトが全滅したのがいい。


「ここって地底湖なのか?」

「イメージとしては近いような気もするけど……」

 がぽがぽとローファーの中に蓄えた水分を鳴らしながら、アリスと一緒に照明が囲む花畑の中心へと歩いていった。花を踏むのはちょっと抵抗があったけど、密集してるから他に足の踏み場がない。


 まだ止まない雨は、何故かこの花畑には降らず後方に聞こえるばかりになった。この上には雨を遮る何かがあるのかもしれない。そう思って見上げたら、暗くて何も見えなかった。

 陸地というか、洞窟なのかもしれない。


 この花畑は見たところ、大体十メートル四方といったところだ。さすがにさっきの和室よりは広いけど、暗さのせいか解放感がない。

 そういえば、あの和室や洋室も沈んでいったのかな。


「こりゃ、自然に乾くのを待つしかねえか」

 アリスは左右のロンググローブを外し、まとめて雑巾のように絞った。それから何度も振って、くしゃくしゃになった状態から広げる。豪快だなあ。


 私もそうしようと、片足で立って浮かせた左足のローファーを脱ぐ。中に溜まった水を、仕方なく足元に広がる花の上に落とした。花からすれば、こんな水をかけられてたまったものじゃないだろう。


 そのローファーはまだ履かず、浮かせたままの足からずぶ濡れのソックスを抜き取った。その後、改めて素足をローファーの中に滑り込ませる。右足も同様に。

 ここで尻餅をつかない程度にはバランス感覚があって助かった。もし転べば、土塗れになるのは避けられない。一応、洗う場所はすぐ近くにあるけども。


 ストッキングを脱ごうとしているアリスは、遠慮なく花の上に腰を下ろしていた。

 まあ、さすがにストッキングは立ったまま脱ぐのは難しいし、今更多少の汚れが付いたところで誤差だという考えも分からなくはない。


 アリスはまだ時間がかかりそうだ。

 私はとりあえず、靴下を脱ぐだけでいいや。

「この辺、ちょっと見てくるね」

「おう、気を付けろよ」

 ここで行き止まりでないことを祈りながら、歩きだした。


 脱いだハイソックスは、ポケットに突っ込むのはなんか嫌だから、とりあえず照明機材の上に置いておいた。あそこなら土で汚れることもない。

 花畑を左右から照らしていた照明は、壁際ぎりぎりに設置していたみたいだ。どちらもすぐ後ろが岩壁で行き止まりだった。


 なら正面はどうかなと行ってみると、機材の向こうに真っ暗な道が続いているのを見つけた。

「アリス、こっちに道がある」

 しゃがんで花をつついていたアリスに呼び掛けると、立ち上がって私の方へ寄ってくる。私が見て回っているうちに干していた、ストッキングとロングブーツ、トップハットも持ってきた。


「おー、じゃあ行ってみるか」

 確認してすぐ、暗闇に向かって行くアリス。

「いや、ちょっと待って。あのライトで先を照らしながら行こう」

 慌てて呼び止めて、振り向いたアリスに対し私は照明機材を指差す。


 壊れていない照明を移動させて、進もうとしている暗闇へと向けるという作戦。

 どこまで続いているのかも分からない暗闇を明かりなしで進むのは危険だから、その方がいい。あるものは利用しない手はない。スマホは水没して壊れた。


「いいなそれ。そうするか」

 振り返ったアリスは戻ってきて、そのまま光を放っている照明に近付き、その一つを難なく持ち上げた。

 そのまま持って行くつもりかな? でも、電源とかあるし。


 アリスはスタンド部分をじっと見つめ、その場でそっと機材を横に倒した。

「どうするの? それ」

 寝かされたことで、光は地面に向かって放たれている。私の説明不足だったかも。

「これ、邪魔だから斬る」

「え?」


 折り畳まれた時計針を一本、腰のホルダーから抜くアリス。

 長針の根本辺りを触ると、カチャンと鳴って短針が飛び出した。

 そして、針を六時にする。でも刃がないから斬れない。


 そう思っていたら、アリスが時計針を振る。その振っている途中でじゃきんと鳴った。

 すると長針の左右に、大きな刃が飛び出している。


「どういう仕組み……?」

「ここ押したら、剣になるんだよ」

 短針の芯となる部分、引き金部分の横にあるボタンを押すアリス。

「凄い武器だね」

 現実で再現可能なんだろうか。創作の中だからこそのトンデモ構造の武器みたいだ。

 こうして目の当たりにすると、凄いとしか感想が出ない。


 頭上から振り下ろされた時計針の剣によって、ライトとスタンドの接続部は一刀両断された。

 私もそこに行って、垂れた電源コードを手繰り寄せる。すると、プラグが花畑の中から現れた。

 あれ? どこにも繋がってない。


「なんで光ってんの、これ?」

「さあ……俺に訊かれても分かんねえ」

 そもそもこんなところにコンセントがあるとは思えなかったけど、この照明は斬られようと電源に接続されてなかろうと、まばゆく光っていた。


 ……もはや、常識で物を考えたら駄目なんだ。そう思えてくる。


「行こうぜ」

 時計針をホルダーに戻したアリスは、ライトを両手で抱え、その上に脱いだ衣類を乗せて暗闇へと進んでいく。

 私は自分の靴下を回収して、その背中を追いかけた。


 しばらく土の道を進むと、照明の光が届く範囲以外は暗闇になった。

 私の前を歩くアリスの肩を持って、離れないように歩く。

 転ばないように足元へ視線を向けても何も見えない。平坦な道だからそうそう転ぶことはないはずだけど、それでも気を付けようって心掛けた。


「どこまで続いてんだ、これ?」

「結構歩いたよね……。そろそろ何かあっても良さそうだけど」

 たまに会話で気を紛らわせつつ、歩を進める。

 もし一人だったら、この暗闇を進むのはあまりにも心細い。アリスがいてよかった。


 この土の道は横幅せいぜい一メートル五十センチ程度で、それ以上横に踏み出すと左右どちらも水没してしまうようだ。水面に光が当たると反射するから分かる。

 降っている音もしなくなったから、どうやら雨は止んだらしい。

 そう何度もずぶ濡れにはなりたくないので、私達は足を踏み外さないよう道の真ん中を歩いた。躓いたとしても、横に倒れなければ大丈夫。


 それにしてもこれは、進んでいるというよりも、進まされているかのように感じる。

 道は一本のみで分岐もなく、ただ敷かれたレールを歩かされているような気分だった。


「おっ、行き止まりか? いや、何だこれ」

 何かを見つけてアリスが立ち止まった。私も前方に目を向ける。

 アリスが照明の角度を上げると、目の前に錆びた鉄の箱が照らし出された。

 二枚の扉は左右に開かれて、中の鏡が光を反射する。


「アリス、これエレベーターだよ」

 エレベーターが一基、しかもなぜか、かご室だけがひっそりと佇んでいる。

「この先は何もないな。岩の壁だ」

 周りを照らしながらアリスが言う。ここが行き止まりみたいだ。


 ここまで持ってきた照明を置いて、アリスはかご室に入った。足取りに躊躇いを感じない。

 私も続いて、恐る恐る足を踏み入れる。中は少しひんやりとしていた。


 電気が通っているはずもなく、しんとしている。

 でも、このエレベーターはなんだか作動しそうな気がしてならない。本の読みすぎかも。


 大抵、こう意味ありげに置かれたものは物語を動かす装置だ。お決まりのパターン。そのために出したんだろうなという、作者の思惑を想像する。この世界の作者って、つまり神様ってことになるのかな。


「あっ」

 急に室内の照明がついたから、二人の声が揃った。

 エレベーターが起動して、扉が静かに閉まる。

 押してもいないのに階数指定のボタンはB1が光って、浮遊感とともに降下し始めた。

 これは、錯覚なんかじゃない。


「動き出したぞ!」

 かご室は土の上に乗っていたのに、それを掘り進む音も衝撃もなく、スムーズに降下していた。

 現在の階は1で、行き先はB1しかない。

 閉じ込められて、ただただ運ばれる。


 三分は経ったと思う。

 それでも私たちは、まだエレベーターの中にいた。

「…………なかなか止まらないね」

 長い。とにかく長い。階数表示が1から移らない。ぼんやりと眺めているとあくびが出た。このエレベーターに乗ってから二度目になる。


「いつまでこの、ふわーっとした感覚が続くんだ。だんだん気持ちが悪くなってきたぞ」

 ひとつ下のB1階は、一体どれだけ下に造ったんだ。

 といっても、この無茶苦茶な世界で真面目に考えるのは無駄。その現実に慣れつつある。


 B1があって、そこに向かっている以上、いつかは辿り着くはず。

 そう思った矢先、エレベーターが減速した。そして停止する。

 到着チャイムが鳴って、分厚い扉が滑らかに開く。


 目に飛び込んできたのは、白を基調とした明るい駅のホームだった。

 ……まだまだ先は長そうだ。そんな考えが脳裏に浮かんで、どっと疲れが押し寄せる。

「なんだあ、ここ」

 やはりアリスが先陣を切って出ていく。後を追った私の後ろで、エレベーターの扉が静かに閉まった。


 敷き詰められた白いタイルと、点字ブロック。線路の上に電車の姿はない。

 天井があって空が見えないから、地下鉄……かな? B1階だし。

今 度はレールの上を歩いて行けということだろうか。でもその先は、左右どちらも闇へと続いている。

 明るいのはホームだけで、ここから離れたら戻れない気がした。


「とりあえず見て回るか」

「そうだね……」

 外へと繋がる階段はないかとアリスと別れて探索してみた。

 だけどこのホームは線路以外の三方向をタイルの壁に囲まれ、階段なんてものはどこにもなかった。


 頼みの綱かどうかは分からないけど、さっき使用したエレベーターをもう一度呼んだ。

 でも来ないどころか、まず押したボタンが光らない始末だった。力尽きたのかは知らないけど、もう二度と動く気配はないみたいだ。


 疲れて、ホームに座り込む。まぶたが重い。

 探索していたアリスも近付いてきて、私の横にあぐらをかいて座る。

 それなりに髪も服も乾きつつあって、ずっと持っているのも煩わしいから靴下を履いた。アリスも、脱いだものを身につける。


 そして二人で、線路を見つめる。

「左か右、どっちかに行くしかないだろ」

「うん……」

 返事が曖昧になってしまう。


 私たち、どこまで行けばいいんだろう。瓦礫の海は世界の始まりでしかなく、こうなると終わりが見えない。

 『境界のない理想の世界』も、手の届かない場所にあるような気がしてくる。

 だんだんと思考がネガティブになってきた。疲れと眠気のせいかな。

 しっかりしないと……。


「待ってたら、電車来ないかな?」

「じゃあちょっと待ってみるか」

 まだまだアリスは元気そうだ。

 私は頷き、アリスと一緒に来るのか分からない電車を待った。


 座っていると足音も立たなくて、私かアリスのどちらかが喋らないとホームはひたすらに無音だった。駅ってこんなに寂しい場所だったかな。

 星空も見えず、暗闇の途中に存在するこの無機質な空間は、とても窮屈に感じる。


「アリスって電車に乗ったことある?」

 静寂で耳鳴りがしそうだったので、他愛もない雑談を始める。本当に一人じゃなくてよかった。

「ないな。でもどんなのかは知ってるぞ。千理は?」

「私は何回かあるよ。電車に揺られながら、ぼーっと景色を眺めるのはいいもんだよ。それでも私は、飽きたら読書を始めるんだけどね」


 冗談めかして語ると、なんだそりゃってアリスも笑った。

 やっぱりアリスと会話していると元気が出てくる。


「どんだけ本が好きなんだよ」

「自分でもそう思う。ページめくるのが止まらなくて、気付けば朝になってたこともあった」

「マジかよ。むしろ本読んでたら眠くなるだろ」


 そういえば原作のアリスは寝る前に、メアリーに頼んで本を読んでもらうシーンがあった。メアリーの穏やかな声に、アリスはすぐに夢の中。

「面白い本だとそうはならないよ。むしろ興奮して目が冴えるっていうか――」


 電車が来た。

 左方向から近付いてくることを音で知る。アリスが立ち上がって、ホームの端から線路の先を覗き込んだ。


「千理、来てる! 電車が来るぞ!」

 アリスの手招きに応じて私も立ち上がった時には、レールを擦る音とともに電車が視界に滑り込んできた。どんな電車が来るかと思ったけど、普通の電車だった。詳しくないから普通としか言えない。


 停車し、ちょうど目の前にあった扉が音を立てて開く。

 乗れ、と言わんばかりに。

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