第4話

 向かい合って、視線を合わせる。

「私は、千理。あなたは?」

「俺はアリス」

 ぶっきらぼうな自己紹介だった。

 やっぱりそうだよね、と予想通りの返答にひとり納得する。


 私だけが成長した今、アリスは私よりも頭一つ分小さい。こうなると女子小学生に詰め寄られている女子高生の図ということになり、なかなか情けない。

 でも不思議と、アリスに対して恐怖心だとかそういうのはなかった。

 これまでの行動はさておき、アリスと接する事に関しては、むしろ穏やかな気持ちになる。


 やっぱり、初対面じゃないからだろうか。

 私の脳みそが作り上げた夢とはいえ、私はアリスと何度も遊んでいる。

 多少言動に変化が見られても、やっぱり私はアリスだと信じていたみたいだ。


 ただ、俺という一人称には激しい違和感を覚える。

「お、俺? 私じゃなくて?」

「そんなの、どっちでもいいだろ」

「いいけど……」

 どうにも男らしい。


 となると、これだけはハッキリさせておきたい。

「アリスって、女の子だよね?」

「当たり前だろ。失礼な奴だな」

 睨まれてしまった……。私を見上げるようにしているから、三白眼みたいになっている。

 でも目が大きくてかわいい。まつ毛も長いし。


「ごめん」

「まあ、いいけどな」

 ……ツンツンしているようで、こっちのアリスも意外と話しやすい。

 原作とはかなり性格が違うけど、とりあえず私に敵対心はないみたいだ。

 アリスは私の味方。それだけはここでも変わらないみたいで安心する。


「ねえ、どうして懐中時計のみんなと戦ってたの?」

「そりゃ、なんかよくわかんねえけど、急にこいつら俺に襲い掛かってきやがったんだよ。言葉も通じねえし、だったらやるしかねえだろ」

 顎の動きで、倒れている職員たちを示す。

「どうしてそんなことに……」

「知らねえ。俺が訊きてえくらいだ」


 ……もしかしたら、物語がバラバラになったことと関係があるのかもしれない。

 アリスは片方の時計針を脇に挟んで、もう一方の時計針をカチカチと動かし零時にした。

 そうやってコンパクトになると、腰のホルダーに差す。

 あれって、長針の根元に短針を収納できるんだ。


 その構造に感心しながら見ていると、アリスはもう一つの時計針も同様に時刻を変えていく。

「その時計の針は、拾ったの?」

「いや、これは元から俺の武器だ」

「そう、なんだ」


 原作が改変されている。これはもう疑いようがない。

 アリスの性格と、存在しなかった武器。

 そして懐中時計たちの異常な行動。

 作中にはアリスとちょっとした口喧嘩をするシーンはあっても、決して暴力を振るうことはなかった。そんな性格をした懐中時計は一人としていない。


 アリスは悲しくないんだろうか。

 ……そうでもなさそうだ。表情が物語っている。


「アリスって、たくましい性格だね」

 どう尋ねようかと迷ったせいで、ぎこちなくなる。

 作品と違うだなんて言い方は避けた。

 どうしてそんな性格なの? なんてストレートに聞くのは失礼すぎるし、誤解を招きかねない。


「何言ってんだ? 俺は俺だ。変なこと言うなよ」

「ごめん」

 あまり変な事を言って、アリスの機嫌を損ねてしまうのだけは避けないと。

 もう一つの時計針も腰のホルダーに差し込み、手ぶらになったアリスはその場に腰を下ろした。瓦礫がちょうどいい高さの椅子代わりになっている。


「そんなことより、この世界は何なんだ? 目が覚めたら世界がこんなことになってやがった。オリビアたちはいきなり凶暴になるし、わけが分かんねえ」

 オリビア……職員の中でも、とりわけ平和主義者といった人だった。そのオリビアすら暴れるようなら、三十人全員がアリスに襲い掛かってもおかしくないのかもしれない。もしくは、何らかのウイルスに集団感染したとか?


 アリスはうんざりしたような顔だ。そしてその表情の中に、この世界の変わりように対する困惑の色も見て取れる。

「なあ、お前何か知らねえか?」

「私も目が覚めたら、ここにいたんだよ」

「お前もか」

「うん。それで、えーと……」


 もしかして私の名前覚えてないのかな。タイミングを見て、また名乗っておこう。

 それはさておき、知っていることとなると、やっぱり『境界のない理想の世界』がこの夢を作り上げた原因ということだ。


 しかし、どう説明しよう。

 そもそもこれは、私が見ている夢だ。

 アリスは登場人物であり、つまり……あれ、どっちなんだろう?

 私の脳みそがアリスを作り出しているのか、『境界のない理想の世界』によって外部からアリスがやってきたのか。


 一つ前の夢で『時計塔のアリス』が巻き込まれたことで、作品の登場人物がこの夢の中に参加したんだろうか。考えると、そっちの方がしっくりくる。

 性格とかが変わってることの説明はつかないけど。


「なんだよ。早く話せよ」

 私が黙ったから、アリスが声をかけてきた。

「ちょっと待って、今頭の中で話を整理してるから……」

「そうか」

 アリスは私から視線を外して、近くにあった瓦礫の上に腰を下ろす。高さが椅子の代わりとしてピッタリだった。そして泥みたいな空を見上げながら、両足をぷらぷらさせる。


 あ、その仕草はかなり原作のアリスっぽい。つい、じっと見る。

 ……いやいや、そんなことより、今のうちに頭を働かせないと。

 ひとまず私の脳内と『時計塔のアリス』の世界が、『境界のない理想の世界』によって混在したと考えていいんだろうか。


 だったら朝になれば解散で、お互いの世界に戻るだけ。何も心配することはない。

 そうだ。世界がこんな姿だから不安を感じてしまうけど、これは夢の世界なんだから。

「アリス」

 呼び掛けると、「ん?」と瞳が私に振り向く。私の傍には椅子にできそうな瓦礫がないので、立ったまま話す。


「ここは、境界のない理想の世界なんだよ」

「……境界のない、理想の世界ぃ? なんだ急に。お前、頭おかしくなったのか」

 胡散臭いと言いたげな目で見られた。ショック。

「いや、そうじゃなくて。そういう本があって……」

 開いた両手をぶんぶん振って否定しつつ、丁寧に説明しなきゃと思い直す。

 駅前の本屋に行ったところから始めて、眠りにつくまでを話した。


「……つまり『時計塔のアリス』という作品の世界から、時計塔ごと、この世界に移動してきたんじゃないかな。どうしてみんなの性格が変わってるのかは私にも分からないけど」

 その理由も夢だから、で納得できなくもない。思考の放棄とも言う。


 全て打ち明け、アリスの反応を窺う。自分が創作物のキャラクターだと知ったら、ショックを受けるんじゃないだろうか。

 そんな心配をよそに、黙って私の話を聞いていたアリスはなんというか、あっけらかんとしていた。話がうまく伝わっていないのかと思い、不安を覚える。


「つまりなんだ、この世界は色々な作品が混ざったのか。お前も何かの作品の登場人物ってことだろ?」

「えっ、いや……」

 そうきたか。恐らくアリスは自分の世界が存在していたと信じて疑っていない。


 世界イコール作品。作品イコール世界。

 本に綴じられた物語は、その世界の断片に過ぎないという考え。

 なるほど。盲点というか、妙な説得力がある。


「だってそういうことだろ? 俺だってちゃんと時計塔の中で生きてきたんだ。ジェームスたちと一緒にな」

 アリスは私と同じように、作品内の世界で人生を歩んできた。

「確かに、そうだよね。そう……なんだよね」

 でも、実際どうなんだろう。少し考える。


 作品の世界は、作者の頭の中にある。

 だとすると私が生きてきた世界は、誰かの頭の中で考えられた作品なのだろうか。

 そんなこと、考えたこともなかった。

 じゃあ現実って何? という話になる。


「えーと。ちょっと頭が混乱してきた」

「なんでだよ。簡単な話だろ。お前が俺の世界を作品だって言うみたいに、お前の世界も俺にとっては別の世界、つまり作品扱いと一緒なんだよ」


 自分の生きる世界こそが現実……それは、アリスだって変わらない。

 私がこれまで生きてきた世界、人生は、本当にリアルだったのだろうか。

 私も住む世界が違っていただけで、アリスと変わらない一人のキャラクターなのかもしれない。


 思わず考えてしまう。

 そんなことはないと心で思ってはいても、その心は可能性をどこか望んでいたりもした。

 非日常に対する憧れというか、普通じゃないことを期待するというか。

 私も作品の登場人物だったという可能性は、否定できるのだろうか。


「まあそれは置いといて、俺とお前の世界が混ざったのがコレかよ」

 アリスは、濁りきった空の下に広がる瓦礫の海を見渡す。

「俺たち以外はどうなったんだ? お前、他に誰かと会ったか?」

「いや、最初に会ったのがアリスと職員のみんなだから」

「そうか……これ、何人死んだんだ? つーか世界の終わりだろ、これ」


 アリスの物騒な言葉に、心がナイフで刺されたように痛んだ。

 明確に、罪悪感が芽生えた。


「だ、大丈夫だよ。これは私の夢だから、目が覚めたら全部元通りになると思う」

 私の世界とアリスの世界に生きている人や動物たちを全て巻き込んだなんて、そんなことあるはずがない。そんなこと……。

「夢? じゃあ俺は、お前の夢の中に入ったってことか?」

「そうだよ、多分……」


 だって夢でもなければ、こんな事ありえない。

 なのに私は、自分でもはっきりと分かるぐらいに動揺している。


「ならお前は今、寝てるってことか? この世界は全部嘘だってことか?」

「それは……その……」

 アリスの口調に棘は感じないけど、疑いの目を向けられ口ごもってしまう。

 今私は夢を見ているのかどうか。それを確かめないといけない。


 そうだ、ほっぺたをつねると分かる、と聞いたことがある。

 現実のほっぺたをつねるわけじゃないから、痛覚が働かない。

 ただ、夢の中でも痛みを感じる人もいるらしいから正確とはいえないけど、やってみよう。

 右手で、ぎゅっと強めにつねる。


「何やってんだ?」

「……痛い」

「そりゃそうだろ……」


 アリスが軽く困惑している。でもその反応に一喜一憂する余裕がなかった。

 つねったら、痛かった。痛覚が機能しているとしか思えない、現実的な痛み。

 じゃあ私は今、眠っていないってこと?

 これは夢じゃないって……そういうことになるの?


 心の底から湧き上がってきた不安と焦燥に心を揺さぶられながら、なんとか状況の整理に努める。

 私は自分の部屋で、パジャマを着て眠った。

 こんな崩壊した世界で気を失っていたわけじゃない。

 はっとする。


「そうだ、私、制服を着てるんだよ。寝る前はパジャマを着ていたのに!」

 だからこれは現実じゃない……自分で言っていて、ひどく説得力に欠ける気がした。

「おお、なら早く目覚めてくれよ。お互い元の世界に戻ろうぜ」

「え、うん……」


 こんな終わり方になるなんて、と残念に思うけど仕方ない。

 全て無かったことにしないと。そして安心したい。

 昔は毎日悪夢を見ていたから、自分の意思で無理やり目覚めることには慣れている。

 とにかく強く、何度も念じれば現実に意識を押し上げることが可能だ。


 目覚めろ、目覚めろ……。

 目を閉じて、命令を送り続ける。

 悪夢を見ている時は身体中が強張っているから、今回は自発的にそうする。

 目覚めろ、早く。早く目覚めろ……!


 …………だめだ…………。


 思考は冴えわたっていて、緊張状態にある心臓の鼓動もここに感じる。

 私が瓦礫の上で目覚めたあの時が、夢の終わりだったのかもしれない。

 向かうべき現実は、最初からここだった……。


「ダメなのか?」

 アリスが、静かに訊いてくる。

「こんなはずじゃないの……だって、夢じゃないとおかしい……」

 声に力が入らない。

 認めたら、いよいよ終わりな気がした。

 でも、もう否定しようがない。


 力が抜けて、その場に座り込む。うなだれて見えるのは、砕けた灰色の塊。

 夢であってほしい。

 さっきの光景を思い出す。


 『時計塔のアリス』がバラバラになったあれは、夢だったのだろうか。

 それこそ本当に、夢じゃないと嫌だ。

 でも今は、それどころじゃない。


 かつて私が見ていた悪夢は恐怖に叫ぶものだったけど、今回は途方もない絶望感と果てしない罪悪感が襲ってくるものだった。

「おい……えーと、千理!」

 肩を揺さぶられて、顔を上げると、アリスが私を心配そうに見ていた。

「大丈夫か?」

 どう答えていいか分からなくて、目を伏せる。

「どうしよう……全部、私のせいかもしれない。もしそうだったら……ごめん」


 やっぱり『境界のない理想の世界』が引き金としか思えない。

 そして、その引き金を引いてしまったのは私だ。

 つまり、私が悪い……ということになる。なってしまう。


 まだ夢だっていう可能性もある。ゼロじゃない。

 悪あがきだとしても、そう思わないと、私は……。

 アリスも黙っていた。その顔を見る勇気がないから、表情は分からない。


「ごめん……本当にごめんなさい……怒ってる……よね」

 ごめんって言うのは、これで何回目だろう。なんだか謝ってばかりだ。

 もしこの世界が現実なら、私は、とんでもない悪事を働いてしまった。

 悪意はなかったし、こんなことになるなんて思いもしなかったから……それでどうにかなる話じゃない。そんな問題じゃないことは、私にも分かってる。


「私、もしかしたら、取り返しのつかないことをしたのかも……」

 今更その実感が湧いてきて、両手が勝手に震え始める。その震えは、全身に広がっていった。両膝を抱えても止まらない。

 『境界のない理想の世界』を枕元に置いて眠っただけで、こんなことになるなんて。


「別に、怒ってねえよ……つーか、俺もどんな反応をすればいいのか分かんねえ」

 足音が、私の前まで移動する。

 瓦礫の一点を呆然と見つめていた私の視界で、アリスの黒いロングスカートが揺れた。

 ブーツのつま先をこちらに向けて、静かに立ち止まる。


「とりあえず、これは現実ってことでいいんだな?」

 頭の上から降ってきた言葉に、ゆっくりと頷く。

「そう、だと思う」

 アリスの優しい口調が、既に熱くなっていた目頭から涙が溢れそうになるのを押しとどめる。


「俺と千理のいた世界が混ざったってことだよな?」

「うん……恐らくは」

 『時計塔のアリス』の舞台は、ロンドンをモデルにした架空の町。

 でも、アリスの生きてきた世界はその町だけじゃないはずだ。


 世界を切り取った物語の中では描写されていないだけで、町の外には別の町があって、人がいて、動物たちがいる。

 私のいた世界と変わらないぐらいの、生命の営みがあったはずだ。

 その世界と私の世界、二つの世界が混ざりあった。

 そうしてしまったのが、私。


「境界がなんたらっていう本のせいで、こうなったんだろ?」

「それは、うん……一番自信を持って言える。こうなったのは『境界のない理想の世界』が原因。そして、その本を開いた私の責任」

「じゃあ悪いのはその本じゃねえか。だったらそうやって自分を責めんなよ。こうなるってことは知らなかったんだろ?」

「そうだけど、でも知らなかったで済まされる問題じゃないよ……」

「だったら――」


 私の視界に、しゃがんだアリスの顔が飛び込んでくる。

 その表情は、私を励ますような笑顔だった。

「元に戻す方法を一緒に考えようぜ。だから泣くな」

 それを見て、初めてアリスと出会った時を思い出す。


 あの日夢で見た、、私を悪夢から救ってくれた笑顔と同じだ。

 その時の嬉しさが、心強さが、今と重なる。

 やっぱりアリスは、私の大切な友達だ。

 たとえ違う世界に生きていても、かけがえのない存在……。


「お、おい泣くなって!」

 アリスがうろたえている。

 泣くなって優しく声をかけられると、かえって泣きそうになるんだよ。

 なんとか堪えないと。もう高校生だし。


 『時計塔のアリス』では、アリスが泣いて懐中時計のみんなが慌てるのに、これじゃ役割がずれちゃってる。

 こっちのアリスは、頼もしい。

「おお、急に笑った……それでいいんだよ」

 アリスが手を差し伸べてくる。

 私も手を伸ばして、がっちりと握り合う。


 十歳とは思えない力で引っ張り上げられ、ちょっとよろめきながら立ち上がって。

 涙は溢れず、代わりにやる気が溢れてきた。

「『境界のない理想の世界』の本を探そう。あれは現実にも夢の中にもあったから、この世界のどこかにもあるはずだよ」

「おう。じゃあ行こうぜ」


 二人で、世界の果てを見据える。

 どこまでも広がる、瓦礫の海。

 二人なら、どこまでも行ける気がした。


「しっかり頼むぜ、千理。俺よりも年上だろ?」

 にやにやと、からかってくる。仲良しみたいで嬉しい。

 年齢的には、友達同士というよりも姉妹に近いかもしれない。

「元々は同い年だったんだけどね」

「千理だけ先に年取ったのか。時間の流れる早さが違うのかもな」

「それもあるのかもしれないね。でも……」


 アリスの世界も時間が流れているはず。年齢が十歳のままなのは、『時計塔のアリス』の時間軸から来たからだと考えられる。

 もし『時計塔のアリス』に二巻や三巻があったのなら、成長したアリスの姿を見ることができたかも……なんて思う。だとしたら、是非とも見てみたい。


 そして私も、たとえば『小学四年生時代』を抜粋されていたらこの世界に十歳の姿で目覚めたのかもしれない。

 逆に『大学生時代』だったら、未来の姿もありえるはず。

 そう考えると、ちょっと面白い。


 とはいえ全ては私の仮説で、妄想だ。

 ……そんな感じのことを、アリスに伝えた。

「フクザツだな。単純に世界と世界が混ざっただけじゃなくて、過去とか未来とかもぐちゃぐちゃなのか」

「私の考えが正解かどうかは分からないけどね。とにかく、行こう」


「よし、じゃあとりあえず、あっちに行ってみようぜ」

 アリスが指差し、そして歩きだしたのは、時計塔とは真逆の方向だ。

 その背中を見て私も行こうと足を踏み出したところで、後ろ髪を引かれる。

 振り返ると、動かないジェームスたちが今もそこにいた。


「アリス、懐中時計のみんなは置いて行くの?」

 私の声に、アリスは振り返る。

「動き出したら、また襲ってくるだけだぞ。それにいつ起き上がるかも分からねえから、放っておくしかねえだろ」

 ドライな反応だった。もう割り切ってるということだろうか。


 ああ、でも、みんなが起き上がったらアリスはまた戦わないといけない。

 置いて行くよりも、その方が辛いはずだ。だからこれでいい。いいんだ。

 死んでなんかいない。私やアリスがいると凶暴になるのなら、いっそ離れるべきだ。

 そう納得してアリスを追いかけ、二人で前に進んだ。




 どうにも、決定的なまでに身体能力に差がある。

 そう痛感しながら、私は必死にアリスの後を追いかけていた。

 アリスは離れすぎると止まって、周囲を見回しながら私を待ってくれる。


「生き残ってるやつ、見当たらねえな」

「そ、そうだね……」

 まだ一キロぐらいしか進んでいないけど、足腰に疲労がたまってきた。きつい。

 私が追い付いて並んでも、また次第にアリスとの距離が開く。

 ひょいひょい飛び移っていくアリスに対し、私はできるだけ急ぎつつ、転ばないよう慎重に進む。


 要はスピードというか、きびきび動けるかどうか、みたいな。これが平地だったら難なくついて行けるけど、どうしても瓦礫渡りではもたついてしまう。

 アリスの身体能力は、どう考えても原作よりパワーアップしているように感じた。


 もう何度目か分からない、立ち止まって私を待つアリスの姿。苛立っている様子はないけれど、それでも申し訳なくなる。

 何かスポーツとかやっとけばよかった。

 もし元の世界に戻ったら、近所の公園でジョギングでもしよう。三日坊主になりそうだから、沙也も誘ってみようかな。


 息を切らせながら瓦礫を踏み進み、ようやく追いついた。

「バテバテだな」

「うん……アリスは、すごい元気だね……」

「この世界で目覚めてから、なんか力がみなぎってんだよ」

 身体を動かしたくてたまらないのか、肩をぐるぐる回すアリス。この移動はウォーミングアップにもならないみたいだ。パワフルすぎる。


「千理、乗れ。この辺は襲い掛かってくる奴もいないみたいだしな」

 そう言ってアリスは、私に背を向けてしゃがみ込んだ。

「……ごめん、ありがとう」

 肩に手を置き、太腿の裏を持ってもらうと、アリスは難なく立ち上がった。

 十歳の女の子に背負ってもらう女子高生……誰にも見られていないけど、これ、かなり恥ずかしい。


 歩き出したアリスは、私の体重を支えながらでもスピードは大して衰えなかった。そしてどんどん加速する。

 軽快にジャンプして、傾斜のきつい瓦礫の上でも難なく駆ける。

「速いねアリス!」

「おう!」

 あとすごい楽。私と違って、転びそうな危なっかしさもない。


 落ち着いて、辺りを見渡す余裕ができた。

 濁った空と灰色の地上で、私は少女の背中に乗って突き進んでいる。

 なんて非現実的なんだ……。現実感が薄れる。夢なんじゃないかと思ってしまう。


 現実なら、こんな華奢な女の子が私を背負って走るのなんて無理だ。

 ファンタジーの世界では、少女が大きな剣を軽々と振り回す。それと似たようなものを感じて、やっぱりアリスは私とは違う世界の住人なんだなあと思うと少し悲しくなった。


 でも、触れ合う肌から感じる体温と、息遣いは本物だ。

 アリスは生きている。なんてことも改めて実感した。

 体勢の関係で後ろを見ることができないけど、時計塔はもう、かなり小さくなっている筈だ。


「ほんと、何もないな」

 ぼやくアリスに「ほんとにね」と返す。未だに息が上がらないのがすごい。

 それにしても少しずつ、このアリスの性格が分かってきた。

 言葉遣いは乱暴だけど、根は温厚というか、腹を立てない。


 一体何がどうなってアリスに変化を加えたのか分からないけど、こっちのアリスに早くも親しみを感じる私がいた。

 私の中にあるアリスという人物像が変わりつつあるのは複雑な気もする。だけど別人としてカウントするのも違うと思った。彼女は彼女だ。


 どこまで行っても瓦礫しかない世界。アリスが前や足元を見るのなら、文字通りお荷物の私はせめて左右に気を配ろう。

 そうしてしばらく進んでいると、ちょっと気になるものを見つけた。


「ねえ、あれ見て」

 アリスの視界に入るように、私の左腕を伸ばして指差す。

 遠くてよく見えないけど、そこには灰色じゃなくて茶色や黄緑色の何かがあった。


「ん、何だあれ。部屋?」

 アリスには見えるみたいだ。視力もすごい。

「行ってみようよ」

「そうだな。じゃあ行ってみるか」

 アリスは進行方向を、左へ大きく変更した。


 一分とかからず、そこに辿り着く。

「部屋が二つある……」

 アリスから降りつつ呟いて、それらを見比べる。


 一つは、なぜか弧を描くようにくり抜かれている洋室。

 木目調の床に、白い壁が右側と奥の二枚だけ。残りの壁や天井は無くて部屋の中が丸見えになっていた。


 床と壁はどれも扇形で、断面はとても滑らか。どうやって切り取ったんだろう。

 斜めになった瓦礫の上に乗っているから、部屋自体が右に傾いている。そのため、テーブルや倒れた椅子は右の壁際に集まっていた。


「これ、誰かの家か?」

 瓦礫の上から興味深げに覗き込むアリス。

「だと思うけど、あまり生活感がないね」

 見たところ目立つ汚れもなく、なんだか展示されているみたいに感じる。

 その洋室を正面として、そこから左を向くともう一方の部屋がある。


 こちらは洋室じゃなくて和室だった。部屋全体が僅かに奥側へ傾いて鎮座している。

 床は畳で、左側が襖で奥に障子。こちらはカットされることなく、本来の形を保っている。

 鴨井はあるけど天井はなし。漆塗りの座卓が、部屋の中央よりも奥にずれている。


「これも部屋か?」

「うん、和室っていうの。私の住んでる国では、こういう家も沢山あるんだよ」

「へえー」

 私の簡単な説明を聞きながら、アリスは物珍しげに和室を眺めていた。

 その様子にも納得だ。アリスの暮らす街に日本文化は登場しない。


 興味を惹かれるのか、アリスは和室に上がり込んだ。ブーツのまま畳を踏みつけるのが気になったけれど、こんな状況でマナーだとか礼儀作法だとかを口にしても仕方ない。

 しゃがんで畳の手触りを確かめているアリスから一旦視線を外して、再び洋室へと目を向ける。


 棚や箪笥でもあれば、中に『境界のない理想の世界』がないか探そうと思ったけど、そういったものはない。家具は椅子とテーブルだけだった。

 あとは、奥にあるドアが気になる。

 ここじゃないどこかに繋がっていると考えてしまうのは、妄想の行きすぎだろうか。


 一瞬土足であることを躊躇いつつ、まあいいかと思ってそのまま土足で上がり込んだ。

 傾いた部屋の中を進み、ドアへと近付いてノブを握る。

 そして捻り、奥へと押し込んだ。


 ドアは、少し動いたところで何かに当たって止まった。僅かに生まれた隙間から覗き込んでも、暗くて何も分からない。

 多分これは、反対側に瓦礫があって動かないんだ。

 そう思って部屋から降りて裏へと回り込んだら、案の定積み重なった灰色の塊で塞がっていた。ドアの向こうには廊下も別の世界もなく、ただの外。


 普通に家が崩れただけじゃ、こうはならないはず。といっても、この家に何が起こったのかなんて予想はできても答えは見つからない。

 正面側に戻ると、アリスは畳の上に大の字になって寝転がっていた。トップハットと二本の時計針は、いつの間にか座卓の上に置いてある。


「疲れた?」

 近づきながら声を掛ける。

「ちょっとだけな。それよりこれ、なんかいい感じだぞ」

 むくりと上半身を起こしたアリスが、畳を軽く叩きながら満足げに答える。

 畳の感触が気に入ったのかな。

 何にせよ、固いコンクリートの上で寝そべるよりは遥かにマシだ。


「私も疲れたから、少し休もうかな」

 途中から自分の足では進んでこなかったけど、それまでの過程で足がぱんぱんだ。

 無意識に片足を上げて、ローファーを脱ぐ。


 あ、ついやってしまった。畳は土足で踏んじゃいけないという考えは、間違ってはいない。

 どうしようかなと数秒考えて、また履くのも変だから、ともう片方も脱ぐ。靴は瓦礫の上に揃えて、部屋に上がりこんだ。

 やっぱり靴を脱いだ方が気兼ねなく畳の上を歩ける。そう思いながら、アリスの傍に座り込んだ。


「なんで靴脱いだ?」

 ぎくり。

「あ、見てたんだ」

「ずっとな」

 アリスの目には私の行動が奇妙に見えたみたいだ。まあ文化の違いというか。


「私の世界だと、そうしなさいって教えられるんだよ。この床は畳っていうんだけど、靴で踏んだら傷むから、脱いでから上がるの」

 かといって、じゃあアリスも脱ごうと強要するつもりはない。

「なら俺も脱がねえとな」

 そう言うと足を曲げてあぐらに近い体勢をとったアリスは、自分のブーツを片足ずつ脱いだ。そして立ち上がると、私の靴の隣に自分のブーツを並べに行った。


「これでいいんだよな?」

「うん。ばっちり」

 アリスが一つ、日本の知識を得た。

 素直というか、純粋というか。そこは本来のアリスと変わらない。


 やっぱり根はいい子なんだなあと、ちょっと感動した。

 私の傍まで戻ってきたアリスは、再び腰を下ろす。大股を広げて、後ろについた両手で体重を支えながら左右の足を揺らした。

 すっかりくつろいでいる様子だ。


 私もこの部屋は、なんだか落ち着く。ここだけは、私の知ってる日本って感じだ。

 ただし開放的な部屋から見えるのは、日本の景色とは程遠い。

「暫く休憩しようか」

「あー、そうしよう」

 私の提案に、アリスも同意して再び仰向けに寝転がった。ロングスカートに、両脚の形が浮かぶ。


 ……細いなあ。

 その脚の細さはまさに年相応の女の子といったもので、さっき私を背負って長距離移動したとはとても思えない。筋肉で硬そうなんてことはなく、柔らかそうな脚だ。

 あまりじろじろと見るのは変なので、空でも見上げながら考える。


 つまり見た目だけで言うならアリスは私と同じ、か弱い少女だ。

 そんなアリスの見た目に人間らしさを感じるけど、裏腹のパワフルさにファンタジー的な何かを感じてしまうのも事実。

 まあ、それはさておき。

 少しここに留まろう。闇雲に歩いて体力を消費するのは、一旦待ったということで。


 アリスは横向きになり、自分の左手を枕代わりにして目を閉じた。畳の感触が気持ちいいのか、その顔はなんだかご機嫌だ。

 このまま眠りそうだなあ。ああやって寝ると手が痺れるから、それがちょっと心配だ。

 座布団でもあればいいけど、残念ながらこの部屋には無かった。


 ……いや、あの襖はどうだろう。

 ひょっとしたらと思って立ち上がり、襖の前まで移動して、引き手に指をかけスライドさせる。

 すると、外の瓦礫が見えた。風は吹かないけど、より風通しがよくなる。


 顔を出して左右を確認すると、押入れがこの部屋にはくっついてないことを知った。押入れがないなら座布団もないし布団もないし、『境界のない理想の世界』もあるはずがない。


 がっかり。どうせあの障子も、その先は外に繋がってるだけだ。そう決めつけて、その場に座り込んで足を休める。

 ……今、何時だろう。

 もしかしたら直ってるかもと思って取り出したスマホには、前と変わらずめちゃくちゃな記号が並んでいた。


 時計がない。

 時間が分からないのはすごく不便だってことを、改めて思い知る。

 時計塔は見えなくなっていた。というか、どの方向から来たんだっけ?

 こんなに遠くまでくると、スタート地点の目印にした止まれの標識なんて見つけようがない。


 アリスは目を閉じたまま、静かに呼吸を繰り返している。

 私はまだ、寝る気になれない。

 じゃあ、ついでに障子も開けてみようかな。


 別に開けないとダメってことはないんだけど、なんとなく気になる。

 これまでと同じく瓦礫や空が見えるだけだと思っても、もしかしたら『境界のない理想の世界』が見つかるかもっていう淡い期待が消えない。


 また立ち上がって、今度は障子の前に行く。

 開けたら全く別の世界が広がっていた……なんて、あるわけないか。

 左右に開け放つ。

「うん」

 私の目に飛び込んだのは灰色の瓦礫が敷き詰められた大地であり、ドロドロとした空だった。

 つまり、つまらない現実だ。思わずため息をつく。


「……ん?」

 鐘の音が聞こえた。

 気付いて顔を上げ、耳を澄ます。

 かなり遠くで鳴っているみたいで音は小さいけれど、静かだから確かに聞こえる。


「時計塔の鐘だ!」

 アリスが飛び起きた。時計針を拾って腰に差し、音のする方へ走ると、襖に手をかけ外を見る。

 その隣に行って、アリスが見つめる先に視線を向けた。でもやっぱり時計塔は、シルエットすら確認できない。


「大時計が動き出したってこと?」

「多分、そうなんだろうな」


 鐘は鳴り続けていた。心の底に沈んでいくような低音は、荘厳さを感じる。

 止まっていた時間が動いた。世界が一歩、前に進んだ。

 なんとなく、そんな風に思った。


「……なあ千理、なんか聞こえねえか?」

 不意に、アリスが時計塔とは違う方に振り返った。

「鐘の音とは別に? どうだろう……あ」

 私も気付いた。


 というか、地震?

 振動が、どんどんと規模を増してくる。

 足元が揺れ始めた。思わずその場に伏せる。

 下から断続的に突き上げられるような衝撃が止まらない。

 周囲の瓦礫と瓦礫がぶつかり合って、大地が盛大に合唱する。

 傾いていた部屋が、ずるずると滑っていく。


「なんだあれ、地面が抜け落ちてくぞ!」

 アリスは柱を掴んで、立ったまま外を見ていた。

 その背中に向け、声を張り上げる。

「どういうこと?」

 叫ばないと、周囲の音に掻き消されてしまう。


「ここも崩れるぞ!」

 アリスが振り向いてそう言った瞬間。

 ひときわ大きく揺れたかと思うと、直後に浮遊感が襲ってきた。


 身体が、畳から少し離れる。

 がらがらと崩れる音に紛れて、鐘の音が僅かに聞こえた。

 一面の瓦礫は大地の上に積まれているのではなく、卵の殻みたいに、ひどく頼りないものだった。


 地盤そのものがなくなり、そうなると必然的にこの和室も落ちる。

 床が一気に傾いた。バランスを崩して急斜面を転がり、部屋の外に投げ出される。

 空中で無防備。身の危険を感じ、心が生んだ恐怖が脳に向け急速に駆け上がっていく。


 叫びそうになる直前、アリスが私の手を掴んだ。私の目を見て、力強く頷く。

 それだけで安心感が、恐怖を塗り返した。


 遥か下の方から、どぽん、どぽんと水音が聞こえる。

 海かどうかは分からないけど、とにかく水面が揺れていた。

 受け入れる瓦礫の大きさによって、音は大きさを変える。次は私たちだと息を止めた直後、頭から勢いよく入水した。反射的に目を閉じる。


 落下中に加速した私の身体は、水中に突入してもしばらく沈み続けた。少しだけ温かい水に包まれ、耳に届く音が籠る。

 制御の出来なかったスピードが緩んだところで、閉じていた目を開けた。

 底の方は真っ暗で、どこまでも深い。沢山の瓦礫が沈んでいく。


 海、あるいは湖とも違う気がする。あまりに何もない。

 ただ膨大で、莫大で、途方もない量の水。


 不意に、身体が水面に向かって引っ張られる。見上げれば、私の右手を掴んだまま泳ぐアリスがいた。

 嬉しさで心が満たされて、恐怖の入る隙間がない。

 私の泳ぎも授業の時より力強くなる。水泳もあまり得意じゃないけど、少しでもアリスが楽になるように足を動かした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る