第3話
静かに目が覚めた。
眠っていたのか、いつの間にか気を失っていたのか。どっちだろう、分からない。
視界いっぱいに灰色の……これは、コンクリート?
右のほっぺたが冷たい。ひんやりしている。
慌てて起き上がって、状況を確認した。
どうやら、私はうつ伏せの状態でコンクリートの上に寝ていたらしい。
「……えっ?」
なんでベッドじゃないの?
というか、それどころか、ここは私の部屋じゃなかった。
見渡す限り、どこまでも灰色の瓦礫が埋め尽くした世界。
砕かれた建物ができるだけ平らに敷き詰められて、ところどころに曲がった標識や信号機が飛び出している。電柱も、あちこちに斜め向きで突き刺さっていた。ちぎれた電線が垂れ下がっている。
町の、なれの果て。
いや、この規模は町ひとつどころの話じゃない。
世界が丸ごと崩れている……そう思ってしまうほどに、辺り一帯は瓦礫しかなかった。
みんな崩壊しているから、どこまでも遠くまで見通すことができる。
でも地平線は、瓦礫の下だ。
「何で」
静かだった。私以外に人の姿はないし、カラスや野良猫だって見つからない。
空は、泥を存分に吸った汚水のような色をしていた。今まであんな空は見たことがない。
そして太陽も見当たらず、果たして淀んだ空の向こうにいるのかどうかも不明だ。
だけど世界は、早朝のようなうっすらとした明るさがあった。日も月も星も街灯もないのに、不思議だ。
……終末っていうのは、こういう景色のことをいうのだろうか。
呆然と、立ち尽くす。この状況は何だろう。
これが『境界のない理想の世界』が描いたもので、私にそれを見せているとしたら。
あのメモ書きを思い出す。
枕元に置いて眠りなさい。
その結果がこれ。私の夢に、作品が反映されたのかもしれない。
なら私はまだ、夢の中にいるんだ。
随分とリアリティがある。まるで現実のような。
明晰夢かも。でも、こんなにも思考がクリアに感じるものだろうか。
ふと、足元に視線を落とす。もしかしたらすぐ近くに『境界のない理想の世界』が落ちているんじゃないかと思っての行動だったけど、別のことに気が付いた。
私、ローファーを履いている。黒のハイソックスも。
視線を移動させると、膝丈のプリーツスカートにブレザーを確認する。
これ、高校の制服だ。
え? え? なんで着替えてるの?
あ、そうか。夢だからだ。
何で取り乱したんだ、私は。
とりあえず『境界のない理想の世界』を探さないと。
見つかったところでどうなるんだという話だけど、なんとなく見つけなきゃいけない気がした。
その場にしゃがんで、瓦礫と瓦礫の隙間を覗き込む。
私の部屋にあった本だとか、家具だとかの残骸は何一つとして見当たらない。
私自身がまったく別の場所に移動したみたいだ。夢って唐突な場面転換がつきものだから、ここはもう私の部屋じゃないんだろう。
ただ仮に『境界のない理想の世界』がこの下に埋まっているとしても、こんな大きくて重いものを撤去していくのは無理そうだ。
塊の大きさは様々だから、小さめの物なら何とか待ちあげられそうけど、私が横になっていたのは大きさがキングサイズのベッドぐらいある。
でかい。そしてかなり分厚い。これはさすがに無理だ。一ミリも浮かせられる気がしない。
……とりあえず、ここから見える範囲には『境界のない理想の世界』は発見できなかった。
周辺の探索に乗り出すべきかな。
そう考えていると、さっきの本がバラバラになるシーンを思い出した。
あれは導入としての演出だったんだろうか。私の脳みそが仕組んだのか、あるいはあの本によるものなのか……。
『時計塔のアリス』がページを吐き出してしまったことにはかなりビックリしたけど、夢ならひとまず安心だ。
目が覚めたらいつも通り、枕の隣にあるはず。なら大丈夫。
朝になったら終わりなんだろうか。
目が覚めて、現実に戻って、夢の中での体験として記憶に残すのみ。
明日の夜も枕元に置いたら、またこの場所に来るのかな。
返品するつもりでいたけど、うーん。一回きりというのも勿体ない気がする。
ああもう、考えることが多すぎる。
いつまでもずっと同じ瓦礫の上にいるだけというのは、よくない。
今何時だ?
きょろきょろと周囲に時計を探しながら、服のポケットを叩く。
……って、現実と同じ感覚で物事を考えてしまった。
朝まであと何時間あって、私はあとどれぐらいこの世界にいることができるのか……そんなことを気にしてしまうとは。
夢の中での時間経過なんて、現実とは違う。一晩で数日、あるいは数年過ごす濃密な夢を見ることだってある。
でもやっぱり一度考えてしまうと気になって、ブレザーのポケットに手を入れる。
いつもここに入れているから、という予想通り、夢の中でもスマホの薄くて硬い感触があった。
取り出して画面を点灯させると、日付も時刻もデタラメな記号が表示される。
思わずドキッとした。夢だと分かっていても、壊れたんじゃないかと驚いてしまう。
なんで文字化けしているのかという理由は、夢だから、で片付ける。
スマホをポケットに戻して、周囲に目を向けた。
どの方向に進めばいいんだろう?
見渡す限り、延々と似たような景色が続いているだけ。方向感覚がすぐに狂いそうだ。
とりあえずこの場所の目印には、三十度ぐらい支柱の曲がってる『止まれ』の標識が使えそう。赤いからよく目立つ。
まあ、ここに戻ってきても何もないんだけど。
立ち上がり、ぐるっとその場で回りながら自分の視点で世界を一周する。
何かないかな……と真後ろを向いたところで、少し離れたところにやたら大きな建造物を見つけた。
白くて四角い塔。それも、上部に大時計のある時計塔だ。
ずっと背を向けていたとはいえ、いままで気付かなかったのが不思議なくらいの存在感がある。
周りの建物全てが崩れて元の形を失っている中で、その時計塔は形を保ったまま建っていた。外観はぼろぼろになっているけど、それでも崩れることなく耐えている。
しかもあの時計塔は。
「アリス……」
知っている。だから安心感を覚える。
何度も何度も、私は表紙や挿絵で見た。
あれは『時計塔のアリス』の舞台、アリスと懐中時計たちが生活する時計塔そのものだ!
すごい! あの時計塔が、目の前にある!
廃墟みたいになっていることに対する悲しさもあるけれど、それ以上に実物を目にしたことへの感動の方が強い。すごい、すごい!
原作通り、大きい。確か、高さは百メートルぐらいある。
上部の大時計はローマ数字の文字盤で、時計の針は一時五十分を示してあった。 あと十分経てば鐘が鳴るはずだ。聴いてみたい。
ひとしきり時計塔を眺めていると、ふと考える。
一時五十分。デジタルのスマホと違ってアナログだから文字化けしようがなく、現在時刻を把握することができた。
だとすると、ベッドに入ってからまだあまり時間が経っていないことになる。
あの大時計が現実の時間とリンクしているかというと怪しくもあるけど、私は信じたい。
時計の針が二時を指すのを見つめながら待ってもいいけど、前へ踏み出す。
あの時計塔まで行ってみよう。
この世界で、やっと私にも目的ができた。
アリスと、懐中時計の職員たちがそこにいることを願って。
もしかしたら、時計塔が崩れかかっているから困っているかもしれない。
だったら助けてあげないと。今度は、私がその番だ。
スタート地点となる平たい瓦礫から、跨ぐように隣の大きな瓦礫へと移る。
一つ一つの塊が大きな足場となっているのはいいけど、だいたい斜めに積まれているから歩きにくい。砂礫ぐらいに粉々だったら歩きやすいけど、願うだけ無駄なので諦める。
可能な限り傾斜のきつくない足場を選びながら、慎重に進んで行った。
それでも途中で不安定な場所を踏んでしまい、シーソーのように傾いたせいで尻餅をつく。
したたかに打ったお尻をさすりながら、ちょっと涙目になる。
それでもアスレチックのような感覚で、なんとか前へ前へと向かった。
「つ、疲れた」
やっとの思いで時計塔の前まで辿り着く。
距離自体は大したことなかったけど、劣悪な道はそう易々とは進ませてくれなかった。
そして私は、体力がない。本ばっかり読んで運動しないから、そりゃそうだ。
体育の授業は一応真面目に取り組むけど、本当はできるだけ壁際に座って過ごすことを望んでいる。だからキツかった。いい運動にはなったけど。
ふう、と一息つく。風はないけど、暑くないから汗は出なかった。
近くで見る時計塔は、遠くから見て感じたよりも酷い荒れ具合だ。外壁は塗装があちこち剥がれ落ちていて、ひび割れも多い。
そして近付きながら何度か確認したけど、時計の針はもう動かないらしい。数分かけて移動したけど、長針も短針もずっと一時五十分の位置で止まったままだった。
もう真下に来たから、ここから見上げても文字盤は見えない。
でも二時にはならないだろう。そうなると鐘も鳴らないから残念だ。
時計塔は、瓦礫の海に少しだけ埋まっていた。入り口の下半分が見えない。
妙な緊張を感じて、唾を飲み込んだ。
『時計塔のアリス』では、ここにアリスが住んでいる。とはいっても作中では、こんなひどい状態ではなかったけど。
なんにせよアリスは明るくて、人懐っこい少女だ。
懐中時計の職員たちも、みんな心優しい人ばかり。
そんな彼女らと出会える。そう考えると、なんだかワクワクしてきた。
ただこんな状況だから、やっぱり困っているかもしれない。だったら遊んでいる場合じゃなくて、塔の補修を手伝うべきだ。
それでも楽しみ。
アリスと会えるだなんて、夢でしか叶わなかったことだから。
これも夢なんだけど、改めてというか、『境界のない理想の世界』を介した世界だからまた話が違ってくる。
どうしよう、何話そう。
ひとまず時計塔に入ってみようと、入り口に積まれた瓦礫の上に乗る。扉は開いているから、入ることは可能だ。
立ったままでは入り口の上側に頭をぶつけてしまうので四つん這いになって、両手と両膝を使って進む。
中を覗き込んだ。薄暗くて、よく見えない。
制服のポケットからスマホを取り出して、暗闇をライトで照らす。
中は、崩れた天井の破片が幾つも落ちているのが分かった。床は粉塵で汚れている。
これは掃除が大変そうだ。
奥に、上の階へ向かう階段を見つけた。崩れてはいないみたいだから、二階に上がることはできそうだ。
それにしても、まるで時間が止まっているかのように静か。
ちゃんと中に入ろうと思ったら、積み上がった瓦礫の上から飛び降りなければならない。
逆に外へ出る時は、よじ登る必要がある。
……できるかな。
私がいる位置は、床から一メートルぐらいの高さにある。複数の瓦礫が積み上がり、その一番上にある長いものが、斜め上を向いた状態で入り口に突っ込んである状態だ。
どうも塔の中から見た場合は、今私が両手両膝をつけているこの瓦礫が、ネズミ返しとして機能しているみたいだ。
こうなると、中から出るためにはこの長い瓦礫の上に這い上がらなければいけない。
足をかけつつ……ならなんとかなりそうだけど、あまり自信はない。
そもそもここに、誰かいるのだろうか。全くと言っていいほど人の気配がない。
みんな外に避難したと考えた方が、しっくりくる。
いつもは中で働いているはずの、総勢三十人いる懐中時計の職員たちも見当たらず。作品内では忙しなく塔内を駆けずり回る足音も、いくら耳を澄ましても一切聞こえてこない。
やっぱり避難したみたいだ。となるとこの近くにいるはずだけど、どこにいるんだろう。
ひとまず、ここから飛び降りる必要はなさそうだ。よかった。
方向転換して塔の前まで戻ると、改めて全体を見上げる。
確かに、このいつ崩壊してもおかしくない時計塔の中に残るわけがないよね。
特にアリスの部屋は塔の最上階にあるから、もし崩れたら危険だ。
ここから見える範囲の瓦礫の海には、アリスや職員の姿は見えない。死角になるような場所は幾つかあるけど、さすがに三十一人が全員隠れて見えないってことはないだろう。
だとするとこの時計塔の向こう側、裏手の方にいるかもしれない。
脳裏に悲しんでいるアリスの姿が浮かぶ。しゃがみ込んで、うわーんって泣いている。
こんな変わり果てた時計塔や周囲の景色を目にしたアリスの心情を思うと、私の心はぎゅっと締め付けられた。
懐中時計のみんなは、そんなアリスを慰めたり、おろおろしたりしているはず。
みんなで励まし合って、この状況に立ち向かうはずだ。
そこに私も加わりたい。
「……ん?」
どこか遠くから、騒がしい音が聞こえてくる。何か固いものがぶつかり合っているような……。
上の方だ。かなり上。多分、塔の最上階……いや、音がクリアだから屋根の上?
私以外に、誰かがいる。
しかもこの時計塔にいるとすれば、それは明らかだ。
その音ははるか上から鳴っている。それが地上からでも聞こえるということは、かなり激しい。
音の方へ近づこうと、壁を伝って塔の裏側へ回る。瓦礫を踏み越えながら、少しずつ。
ちょっとずつ、よく聞こえるようになってきた。
かちゃかちゃという音が絶え間なく続いている。
その中で金属を叩いたような、鈍く重い音が不規則に紛れ込む。時に一度きり、時に立て続けに。この静かな世界に響き渡る。
屋根を金槌で補修している……いや、違う。穏やかさを感じない。
塔の裏側に辿り着くと、より一層音が近くなった。
私が立ち止まった後も、音は近付いてくる。
どうして? と考えて、これは落ちてきてるんだと気付いた。
見上げた先は、時計塔のてっぺん。
濁りきった空から、何かがたくさん降ってくる。
それが近付いてくると、姿がはっきりしてきた。
真っ先に落ちてきたのは、黒い服に身を包んだ金髪の少女。
アリスだ!
まだ遠くて表情はよく見えないけれど、この時計塔であの恰好をした少女はアリスしかいない!
大勢の懐中時計も一緒だ。全員揃っているんじゃないだろうか。
でも、なんで落ちてくるの? 理解が追い付かない。
アリスに続いて、高い所からひっくり返したおもちゃ箱みたいに、密度の濃い懐中時計の雨が降る。
雨粒とは違って、一つ一つが人のサイズ。
ここにいたら危ない! 頭が警告を発して、すぐにその場を離れた。
逃げる私の背後で瓦礫の上に懐中時計が叩きつけられる音は、私の叫ぶ声なんて簡単に掻き消す。滝の間近にいるように、耳がおかしくなしそうな音が続く。
みんな、あんな高い所から落ちて大丈夫なの? そう思ったけど、他人の心配をしてる場合じゃない。
そもそもなんで、空から――。
考えている途中で雨が止んで、一気に静かになった。
ひとまず、私は無事だった。でも、みんなは。
恐る恐る、振り返る。
瓦礫の上に懐中時計が積み上げられて、小高い山みたいになっていた。
そのほとんどが割れて、砕けて、動かない。
何人かの職員が、油の切れた機械みたいなぎこちなさで手を伸ばしている。
でもそれは何かを掴むこともなく、やがて硬直して、静かに終わりを迎えていく。
なんで、こんなことに?
屋根の上にいたみんなが一斉に足を滑らせた、なんてことは考えにくい。
塔が崩れた様子もない。落ちてきたのは、アリスと懐中時計だけ。
これは、事故?
なんで。『時計塔のアリス』は、こんな凄惨な話じゃない……。
――アリスは、無事なの?
「アリス!」
悲しい光景が心を締め付けるけど、その上から心配が塗り潰す。
せめてアリスだけは。どうか、神様。
きっと大丈夫のはず……。
縋るような思いで念じたまま見つめていると、懐中時計の山が一部動いた。そのはずみで、小さな歯車がころころと転がり落ちる。
揺れは続いて、山のてっぺんから少女の手が飛び出した。
アリスだ! 出てこようとしてる!
良かった、生きてるんだ!
助けようと動いたけれど、アリスは一人で難なく脱出を果たした。上にいた何人かの職員が、無言のまま下に滑り落ちる。
やっぱり、アリス以外は……。
もしかしたらアリスを守るために、みんながクッションになったのかもしれない。身を犠牲にして、アリスが瓦礫に直撃するのを防いだんだ。
みんなの性格を考えたら、そうするはず。
懐中時計の頂点に立った彼女を、下から見上げる。その横顔は、痛みに顔をしかめていた。
血は流れていないようだけど、さすがに無傷とはいかないはず。
まだ私に気付いていないのか、視線は合わない。
何やら銀色で棒状のものを両手に持っているけど、あれはなんだろう。
分からないけど見つめる。そして、実感した。
あの女の子は、間違いなくアリスだ。挿絵で見た通りの姿をしている。
トップハットにコルセット、ロンググローブに裾広がりのロングスカート、そしてブーツ。それらを気品ある黒で統一して、ところどころに銀色で星型の装飾が付いている。
ロングストレートのブロンドヘアは、彼女の動きに合わせて滑らかに揺れるところまで一緒とは……すごい、カンペキだ。
本来創作のキャラクターだけど、この現実にデザインをうまく落とし込んだ姿になっている。
今まで夢で会ってきたアリスよりも、明確に生きてるって感じる。
実体化だ。平面のイラストだったキャラクターが立体的なヒトになった。
きっと実際にいたらこんな感じなんだろうなというイメージをそのまま体現したかのような彼女は、本物意外にありえないと感じさせる説得力を持っている。
極めて完成度の高いコスプレをした他人なんかじゃなく、確定的に本人そのものなんだ。
根拠はない。でも、そう思う。
人間にしては出来過ぎなまでに可愛らしい顔のつくりだけが、彼女が架空の存在であることを証明する名残かもしれない。
その顔も服も、よく見ればあちこち傷だらけだ。
それでも、力強い眼差しで……。
――あれ、変だ。
あの様子だと、きっと身体中が痛いはず。
だとしたら、たとえ我慢していたとしても目には涙を浮かべていないとおかしい。
だって原作のアリスは、つまずいて転んだだけで泣いちゃう女の子なんだから。
それなのに。目の前にいるアリスは、とても険しい顔をしていた。
両手に持っている物も、見慣れない。
よく見るとそれは、時計の針みたいだ。
分厚い短針と長針が、根元で繋がっている。芯となる直方体があって、それを左右から時計針の形をした丸みのある外装で覆っているようだ。針の先端は、スペードのマークに似ている。
短針側を持ち手にして、六時を示したその時計針は相手を殴打する武器として使えそうなサイズだった。
……殴打だなんて、なぜ私はそんな物騒なことを思ったんだろう。
すると、さっきまで上から聞こえていた音を思い出した。
――もしかして、あの音の正体は……。
そんなまさか。アリスは、そんなことをする女の子じゃない。
そもそも、あんな時計針は作中には存在しなかった。時計塔のどこにも置いていないはずだ。
アリスを見ると、途中何度か懐中時計を踏みつけながら、器用に山から降りていた。
みんなを心配する素振りもない。
かちゃかちゃと、また音が聞こえた。
沈黙していた職員たちが、一斉に動き出している。
もう壊れているのに、次々と起き上がろうとしていた。
まともに立つことができなくて、何人かが倒れる。そして山が崩れる。
アリスは後ろに跳んで、職員たちから距離を取った。私との距離も開く。
この間にも懐中時計たちは何とか立ち上がって、アリスに向けて次々と向かっていく。
敵意のようなものを感じた。
何人かは瓦礫に足を取られて転び、何人かは立てないから這って進む。
全員がアリスに掴みかかろうと、手を前に突き出していた。
押し寄せる懐中時計を、アリスは手にした時計針で片っ端から叩き伏せていく。それは少女とは思えないほどの威力と容赦のなさだった。
さっき聞こえた音が、今度は目の前で聞こえる。
やっぱり、この音だったんだ。
じゃあ、さっきも同じことをやってたんだ……。
見た目で言えば、確かに彼女はアリスなのに。
これは夢だ。
『境界のない理想の世界』によって私が見ている夢、そのはず。
でも、なんでこんな酷い夢を見せるの?
笑えない。ちっとも楽しくない。
アリスがみんなを殴り倒すところなんて、見たくないのに。
彼ら彼女らには個性があって、ちゃんと名前も付いている。
例えばジェームスとか、メアリーとか。ネクタイやリボン等のワンポイントで見分けがつくようになっている。挿絵でも描き分けられていた。
文字盤側が胴体で、顔に当たる蓋の部分には何のパーツも付いていないけど、身振り手振りで感情を表現するから何を考えているのかは分かりやすい。
みんなアリスと仲良しで、良い人たち。
それがどうしてアリスに襲い掛かろうとするのか。
アリスの周囲には、叩かれ歪められた懐中時計の職員たちが続々と転がっていく。
瓦礫の上に積み重なる残骸の姿は、まるで廃棄場みたいだ。
それぐらいに、無惨だった。
「やめて、どうしてそんなこと……」
かろうじて出た声は小さすぎて、アリスに届かなかった。
足も動かない。目の前の暴力に満ちた空間に、割り込む勇気が出ない。
まだ動ける懐中時計はアリスを取り囲み、次々と飛び掛かる。
それを彼女が、何てことないように時計針で打ち払っていった。
「…………」
これは私の知ってる『時計塔のアリス』じゃない。
違う。絶対に間違ってる……!
瓦礫の上を這うように動く職員の背中を、アリスは逃がさないように踏みつけた。
そうして左手の時計針を手放し、右手に握った時計針を七の時刻にカチッと曲げる。そしてその長針の先を、足元の懐中時計に向けた。
今の時計針は、まるで銀色のライフルに見える。
「死んどけ馬鹿野郎」
発砲音と機械が壊れる音が重なって、耳をつんざくほどに響いた。
透き通った声色で、汚い言葉を吐いたアリス。その横顔に目が離せないまま、何も言えずに立ち尽くす。
撃たれた懐中時計の職員は、動かしていた手足が瓦礫に力なく横たわると、そのまま動かなくなった。
左の手首に青のリストバンドをしているということは、あれはダニエルだ……。
ここからじゃよく見えないけど、きっと胴体の文字盤には大穴が空いている。
アリスの持っている時計針は鈍器としてだけじゃなく、時刻を変えると銃としても使用可能らしい。
どこで手に入れたんだろう。
シルバーで時計の針といったデザインは、最初からアリスに合わせて用意されたもののように感じる。
それでも実際は、作中にあんな道具は登場していない。争いを匂わせる世界観でもない。
アリスが、私の方に振り向く。
とっくに気付いていたと言わんばかりに、エメラルド色の瞳を向けてきた。ブーツで、壊した懐中時計を踏みつけたまま。
「誰だお前」
銃口は向けられなかったけど、きつい言葉が飛んでくる。
私が知ってるアリスなら、きっと『あなたはだあれ?』なんて首を傾げながら優しく明るく語り掛けてくる……そのはずだった。
でも目の前にいるアリスの姿をした少女は、ひどく冷めた目をしている。落ちている時計針を拾って、軽快に瓦礫の上を飛び移りながら私の前までやってきた。
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