第2話

 土曜日の空は、それはもう晴れ渡っていた。

 サヤの予想ではこの後どうなるか分からないらしいけど、見たところ雨は降りそうにない。一応バッグに折り畳み傘を忍ばせ、自転車に跨った。


 到着したのは、お爺さんが一人でやっている小さな書店。

 ちょうど店から男の人が出てきて、入れ違うように入店する。

 中では老眼鏡をかけたお爺さんが、レジの向こうでパイプ椅子に座って新聞を読んでいた。相変わらず客の来店に対して何の反応もない。というか気付いてない。


 田舎町とはいえ駅前の土曜日だというのに、店内に客の姿は見当たらない。これも大体いつものことだ。

 大きい本屋だと出入り口にセンサーがあって、会計の済んでいない商品が通過しようとすると反応するようになっている。


 しかしこの店にはそんな設備はない。

 防犯カメラはあるようだけど、死角が多い。私はしないけど、万引きされてもおかしくない無防備さだった。

 まあ私が心配してどうなる、という話だ。


 親切心を発揮して、万引き対策に力を入れた方がいいですよなんて女子高生が人生の大先輩に助言するのも気が引ける。それにもしかしたら万引きしそうな客にはしっかりと目を光らせている可能性だってあるのだ。

 当の店主は、新聞を読むのに没頭しているようにしか見えないけど。


 それはさておき、頭を切り替えて本の物色といこう。

 早速、目的である中古本コーナーへ向かった。

 いつも、直感で面白そうだと思ったタイトルを買う。

 表紙買いならぬ、タイトル買い。格安の中古品だからこそ出来る冒険だ。


 購入する前にネットで評価を調べることはしない。それは面白くない。

 他人の評価に流されて、バイアスのかかった状態で読むのは違う。ネタバレなんてもってのほか。

 棚に収まった本を左から右へ、流れるように一冊ずつ背表紙のタイトルを確認していく。端に着いたら下の段。そうしてジグザグと進み、最下段を確認し終わったら隣の棚へと移る。


 ……おっ、これは。

 その流れの中で、ふと視線の動きが止まった。

 白いハードカバーに、黒のゴシック体で『境界なき理想の世界』と書かれてある。


 このタイトルは、ちょっと興味を惹かれる。

 でも何故か背表紙に作者の表記がない。本を抜き取って表紙を見ると、こちらにはタイトルの下に作者名があった。なぜこっちにだけ。

 作者はS・K。

 イニシャルだろうか?

 もしくは、そういう名前で活動しているのか。


 表紙にイラスト等はなく、文字だけのシンプルな装丁。

 ……これは、あえてこういうデザインにしているのかもしれない。

『境界のない理想の世界』というタイトルのみで、内容を想像しろと。


 これは気になる。

 こういうのをどんどん買っていこう。

 本日一冊目の購入決定だ。


 中古品でなおかつ白いカバーだというのに、目立った汚れもない。

 前の所有者は丁寧な人だったんだろう。それか、読み終わったらすぐに手放す人。

 良好な状態を保ってくれたことに感謝しつつ、値段を確認しようと本を裏返す。


「あれ?」

 本来は張ってあるはずの、値段を表示したシールがこの本には貼っていなかった。

 うーん、剥がれたのか、貼り忘れか。

 とりあえず、レジへと持って行く。


 レジの前に立つと、お爺さんが新聞から顔を上げ私を見た。

「あのう、この本、値段のシールが貼ってないんですが……」

 差し出した本を手に取ったお爺さんは、ずれた老眼鏡の位置を正して、それをしげしげと眺める。


 そして、不思議そうに首を傾げた。

 そしてそのまま、暫く考え込むように黙り続ける。

 ど、どうかしたのかな。


 元々ここの店主は無口な人で、会計時に『○○円』と金額を告げる以外にお爺さんの声を聞いたことがない。

 いらっしゃいだとか、ありがとうも言われた記憶はない。

 それに対しては別に腹立たしいなんて思わず、そういう人だと受け入れている。


 私としては、お金と引き換えに本が手に入ればそれでいい。

 まあ、最初は不愛想だなあとは思ったけれど。


 ああそうか。

 つまり、金額が分からないからお爺さんは何も言わないんだろう。

 いや言わないというより、言えない。そんな推理。

 とはいえ、気さくに会話するような関係じゃないけど、この沈黙は気まずい。


 突っ立っている私に構う素振りも見せず、お爺さんは『境界のない理想の世界』のカバーを眺め続けている。

 先週この本は無かったから、仕入れたばかりのはず。

 もしかしてレア物で、一万円だとか言われたら困る。もしそうだったら、やっぱり買うのやめますと言うしかない。


 高くても、二千円までなら出せる。今日の予算の限度額だ。

 一冊に予算全て使たら、量を求めて古本屋に来た意味ないけど。


「一万円」

「えっ」

「ああ、いや、二千円」


 私が驚いて言葉に詰まっている間に、お爺さんは金額を訂正した。

 お爺さんの頭の中でどういった基準により値段を決めたのかは分からないけど、なぜか私の考えとピッタリだった。


 予想的中というか、何というか。私も見る目があったりするのだろうか。

 財布を取り出し千円札二枚を差し出すと、受け取ったお爺さんはレジの中の千円札に重ねる。

 透明なビニール袋の中に入った本を受け取り、書店を後にした。


 十冊くらい買おうと思って来たけど、結局手に入れたのは一冊だけ。

 ちょっと冒険しすぎたかなーと思いつつ、まあこんな日もあるよねとポジティブに考えた。あとは『境界のない理想の世界』が傑作であることを祈るばかりだ。


 『ドラゴンズテイル』の二巻と三巻を買うお金がなくなってしまったのは痛いけど、次のお小遣いまで我慢しよう。その日までそう遠くない。

 並木道をのんびりと自転車で走りながら、さっきの出来事を思い返す。


 お爺さんは最初、『境界のない理想の世界』の値段を一万円だと言った。

 ぼったくるつもりかと思ったけど、あのお爺さんはそんな悪人にも見えないし、かと言って冗談を言うような人とも思えない。


 単純に、間違えたといった顔をしていた。

 一万円と二千円を間違えるかというと疑問だけど、やっぱり年を取ると仕方のないことなのかもしれない。

 それに年齢は関係なく、間違えは誰にでもあるから、そういうことにしておこうと思う。


 でも世の中には何十万とする本だって存在する。

 『境界のない理想の世界』は、ひょっとしたら一万円の価値がある代物なのかもしれない。


 ネットで調べたらすぐに分かるだろうけど、もしうっかり本の内容にかんする記述を見てしまったら台無しだ。完全にフラットの状態で何の事前情報もないままで読みたい。


 ネットか……そういえば、KJの動画はアップされているのだろうか。別に見るつもりはないけど、ふと気になった。

 超能力。

 もしかしたら、あの店主のお爺さんは人の心を読む超能力者だったりして。


 いやいや、それはないと思う。思うけど。

 あれは単なる偶然だった……と結論付けるのは、否定したい気がした。

 日常にファンタジーなことが潜んでいたって、いいと思う。その方が楽しい。


 夢や創作の世界に比べて、現実はとても平凡だ。

 平凡だからこそ平和な日常があるのかもしれないけど、色々な物語を読んでいると、非日常というものにに憧れてしまう。


 駅前で書店を営む超能力者のお爺さん。

 目で見ずとも、客の心を読んで万引きを警戒していたのかもしれない。そう考えるとセキュリティは機械にだって負けないはずだ。

 盗みを働く人間が、無心で事を終えられるとは考えにくい。ドキドキしたり、ハラハラしたりするはず。やったことないから、想像だけど。


 私が二千円まで出せると考えたことをお爺さんは読んで、そう言ったのだろう。

 だとしたら、仮に五百円でお願いしますって思ったら、本の値段は五百円になっていたのだろうか。分からないけど、もしそうだとしたらちょっと勿体ない事をしたかもしれない。

 そんな事を考えながら、図書館目指して自転車を漕ぎ続けた。


 この町の図書館は、道路を挟んで美術館と向かい合っている。

 実に文化的な場所であり、それ故に私のお気に入りだ。

 休日ということもあり、敷地内の駐車場はびっしりと埋め尽くされていた。その大半は美術館目当てだろう。


 今は葛飾北斎の浮世絵展をやっている。先週私も行ったけど、教科書や資料なんかでよく見る富岳三十六景の実物は思ったより、というか随分と小さかったのが印象に残っている。

 大きな額縁に飾るサイズかと思っていたけど、かなりコンパクトだった。


 図書館の駐輪場に自転車を残し、館内へと進む。

 自動ドアが開き、その先には静謐な空間が広がっていた。

 木の棚がずらりと並んで、空調も適度に暖かい。


 やっぱり読書というものは、誰にも邪魔されず、静かなところで楽しむに限る。

 そのための図書館。堂々と孤独でいられる。

 それぞれの本棚の近くには、大体チェアーが設置されている。

 先客がいない場所を探して、そこに座った。


 さて……と、膝の上でバッグの口を開け『ドラゴンズテイル』の一巻を見つける。

 挟まれたしおりは既に半分を超えた位置にあって、読了の時は近い。


 ちらり。視線が移る。

 その先にはレジ袋に入ったままの『境界のない理想の世界』があって、隣の『時計塔のアリス』と一緒に待機していた。

 先に『ドラゴンズテイル』を読み終えないと……あとちょっとだし……。


 でも。うーん……。

 普段、複数の本を同時進行で読みはしない。ポリシーと呼ぶほどでもないし、絶対的なマイルールでもないけど、今までそうしてきた。

 そんな中で、優先順位が入れ替わろうとしている。誘惑に負けそうになるのは初めてだ。


 ……バッグの中を見つめながらいつまでも固まっているのも変なので、決断しよう。

 『ドラゴンズテイル』よ、浮気した私をどうか許してほしい。


 取り出した『境界のない理想の世界』を見つめる。

 なんとなく深呼吸を一回。本とのファーストコンタクトの瞬間は、いつだってワクワクだ。

 よし、と意気込んで本を開いた。

 ぺらり、ぺらり。ぺら、ぺら、ぺら……。


「ん……?」

 ページを幾らめくっても、なかなか文字が現れない。タイトル、作者名、注意書きや目次のあれこれも無い。

 いつ始まるんだろう。これもそういう仕掛け? 作者の意図?


 二十ページまで進んでも、白紙のまま何も見えてこない。

 ここまで来ると、さすがに不安になってくる。

 印刷ミス? 二千円を無駄にした?

 これが読者の不安を煽る作者の狙いだとしたら大したものだ。現に私は見事にそわそわしている。


 真相は分からないまま、めげずに本を読み進める。まだ一文字も読んではいないけど。

 その先も、どこまでいっても白紙だった。

 活字のオアシスを見つけたと思ったら、それは蜃気楼だった。そんな気分になる。

 砂漠を歩いたわけじゃないけど、がっかり具合は負けず劣らずだ。


 これは、返品しに行った方がいいのかな……。

 そんな考えが頭をよぎる。レシートはレジ袋の中にあるから可能なはずだ。

 いや……いやいや。ちょっと待とう。

 もしかするとこの『境界のない理想の世界』は、あえてこういうモノなのかもしれない。


 白紙であることに意味があり、作者はそれを狙っている。

 これこそが、この作品の完成形なのではないか。

 世の中には無音の曲というものもあるらしいし、それの本バージョンなのかも。


 ……ちょっと好意的に解釈しすぎかもしれない。


 でもこの作品は、『無』というものを描写している。そんな深読み、あるいは考察。

 それはそれで面白い。中古で二千円という値段に見合うかどうかはさておくとして。

 これは、すぐに国語のテストで作者の心情を述べよという問題にしたら面白いかもしれない。

 誰が正解できるんだろう。採点する教師の技量も試される。


 まあ、でも。やっぱりこれは印刷ミスの可能性が高い。店長は買い取る時に確認しなかったのかな。

 一応、念のためこの本をネットで調べて、その結果次第で返品しよう。

 あまり気は進まないけど、仕方がない。


 もしかしたら、ブラックライトを当てると文章が現れますとかだったら面白い。

 そうなったら、読むためにブラックライトの機械を買わないといけなくなる。

 いくらするんだろう。そもそも家電量販店に売っているのだろうか。


 でもまずは、この本について調べよう。

 普段作品を読み終わるまでは、その作品名を検索窓に打ち込むことはない。食べるのを楽しみにしていた料理を、舌にのせることなく胃に直接放り込まれたような気分になるからだ。


 ネタバレを食らった状態じゃ楽しめない。過去の苦い経験から肝に銘じている。

 そんなことを考えつつ、スマホを操作する。

 『境界のない理想の世界』と打ち込み、検索。

 切り替わった画面を見ると、すぐに首をかしげた。


 一部のワードが被っただけの無関係なサイトが並んでいる。

 なんでだろう。出たばかりの自費出版なのだろうか。そして作者はネットで一切の情報発信をしていないという……。


 今度は、大手ネット通販サイトにアクセスした。

 作品名で検索……ヒットせず。

 続いて作者名で検索してみたけど、結局私が求めたものは見つからなかった。

 そうなると、やっぱり個人で制作した本としか思えない。


 『境界のない理想の世界』を後ろからめくると、奥付にあたるページも見当たらない。

 思い切って、全体をぱらぱらーっと一気に見てみる。

 文字もイラストも、何もなかった。これじゃ自由帳と変わらない。

 私の二千円が……。そう思いながらめくっていると、途中で何かを見つけた。

 二つ折りにされたメモ用紙が、本に挟まっている。それを取って、広げてみた。


『この本を枕元に置いて眠りなさい』


 ボールペンによる手書きのメモ。それなりに達筆だ。

 これは明らかに第三者が忍ばせたものだ。作者のSKが書いたとは思えない。

 これが作品にとって必要不可欠な物なら、綴じていないと紛失してしまう可能性がある。

 だから、このメモがあってこそ完品とは考えにくい。


 本を枕元に置いて、とは。夢の中で物語が紡がれるのだろうか。

 それってどんなカラクリ? それこそ、常識では測れない非現実的な話だ。

 返品は……明日にしようか。

 試すのはちょっと怖いけど、試さないまま手放すのも後悔しそうだ。


 せっかく二千円払ったのだから、返品するとしても、一度体験してみてもいいだろう。

 大丈夫。夢の中ならアリスがいる。


 『境界のない理想の世界』をバッグに戻して、代わりに『ドラゴンズテイル』を取り出す。

 本来予定していた流れになった。

 全く予想外の展開だったけど、気を取り直して読書を始める。


 日が沈み始める頃に読み終え、図書館を後にした。

 晴れやかな気分で自転車を漕ぐ。ちょっと鼻歌でも歌いたいぐらいだ。

 『ドラゴンズテイル』は、なかなか良かった。


 一巻では主人公の青年リクティが、アーテスというドラゴンと次第に心を通わせていく過程が描かれた。終盤ではアーテスがリクティの相棒になり、これからの旅路を共にすることになって二巻へと続く。


 私もドラゴンの背中に乗って大空を飛んでみたいなあ。

 そして地上を見下ろしてみたい。アリスと沙也も一緒なら完璧だ。

 本を読み終えた後は、余韻に浸る。妄想も膨らむ。


 明日は『境界のない理想の世界』を返品しに行って、戻ってきた二千円で『ドラゴンズテイル』の二巻と三巻を買おう。

 そう決めて、帰宅した。


 日付が変わろうとしている。

 パジャマに着替えて、そろそろ寝る時間だ。

 ベッドの枕元には、いつものように『時計塔のアリス』を用意してある。

 今夜は、その反対側に『境界のない理想の世界』を置いた。


 考え直すなら、今しかない。

 正直なところ、夢の中で何か嫌なことに巻き込まれるのでは、という不安がある。

 その一方で、夢の中ならアリスがいるから何も怖くない、という安心と信頼もある。


 わざわざ危ない橋を渡る必要があるのかどうか。

 好奇心に従って進むか、心の隅で鳴る警鐘に立ち止まるか。

 まあ、あのメモ書きが悪戯だという可能性もあるから……。


 あ、そうだ。ふと思い立って『ドラゴンズテイル』を『境界のない理想の世界』の横に置いた。謎の保険。でも精神的に少し楽になる。

 枕元には、全部で三冊の本が並んだ。


 読むからという理由で本を寝床に持ち込む人はそれなりにいるだろうけど、お守りやその他の用途で三冊も本を置く人間はなかなかいないんじゃないだろうか。

 まあ、この光景を見られるとしても家族だけだ。何の問題もない。


 電気を消して、ベッドにイン。

 『時計塔のアリス』の方を向いて、目を閉じる。

 もしかしたら、アリスや懐中時計たちだけじゃなく、リクティやアーテスも夢に登場したりして。なんて考えるとわくわくする。


 そして、そわそわもする。どんな夢を見るのか想像もつかない。

 『境界のない理想の世界』とは、一体なんなんだろう。私の脳みそが独自に解釈して、舞台を構築してくれるのだろうか。

 夢の世界は、いつだって……。


 ……あれ、そういえば。

 天気は晴れのままだった。

 まあいいや、寝よ寝よ。

 自分の呼吸に意識を向けると、ゆるやかに意識が遠のいていく。


 目を開くと、天井が見えた。

 真っ暗だ。まだ夜は始まったばかりらしい。

 むくりと上体を起こし、ベッドから出た。その際に、枕元に置いた本を一冊掴んでおく。


 まっすぐ机に向かって、椅子に座り、電気スタンドを点灯させる。

 暗い部屋に、机の上だけが光で明るくなった。

 持っていた『境界のない理想の世界』を机の上に置いて、静かに開く。


 白紙だったはずのページには、しっかりと文章が刻まれていた。

 ああやっぱり、こっちが正しかったんだ。

 あ、というか、これは夢か。


 気付いたけれど、だからといって何かをするでもなく、ただ夢を体験し続ける。

 私の脳が作り上げた『境界のない理想の世界』は、一体どんな作品なのか。舞台じゃなくて本の内容を用意するとは予想外だったけど。


 物語は、どうやら主人公の一人称視点らしい。わくわく。

 朝が来て目覚めてしまう前に読了することは無理でも、できるだけ読み進めたい。


 作品の舞台は現実世界で、幼少期から始まった。主人公は女の子みたいだ。

 読み進めると、少女はどんどん成長していく。生涯を描いたストーリーなのかもしれない。

 名前が明示されないまま、序盤で少女は高校に入学した。

 親友と語らい、放課後は図書室で本を読む。そんなシーンが続いた。


 沙也を思い出す。なんだか私の日常に似ている。

 似ている……頭がぼんやりする……。

 それにしても、本を読む夢を見るというのも久しぶりだ。しかも今回は、随分とリアリティがある。

 ひょっとするとこれは現実で、私は寝ぼけているんじゃないかとさえ思えてくるほどだ。


 あれ、でも、現実だとすると本が白紙じゃないのは変だ。

 まあ、そんな事はどうでもいいか。

 せっかく、こうして『境界のない理想の世界』を読めているんだから、目覚めてしまう前に、読了は無理でもできるだけ読み進めたい。この物語を堪能したいと思う。


 二千円も出したんだから。二千円……返品……なんだっけ。

 私は夢を見ているのか?


 作中では、主人公の少女は夢の世界へ迷い込んだ。

 そこで、白スーツの男に出会う。

 男はにこやかに笑った、という描写があって、次の行に台詞があった。


「さあ、ページをめくってごらん」

 その台詞で、このページは終わりだった。

 嫌な予感がしても、手は止まらない。

 めくったら何が書いてあるのか。裏は透けずに見えないけど、きっと文字が並んでいるはずだ。


 ページをめくると、少女の独白が書かれていた。

 文字を限界まで大きくした、たった二行の文章。

 その二行だけで、左右のページがぎっしりと埋められていた。


 私は自覚した。

 この夢こそが、現実だった。


 身体の底から冷え上がるような感覚を覚える。

 夢から覚めるような衝撃に、心臓が暴れ始める。

 その一文を読み終えた瞬間、どこからか強い風が吹いた。窓は閉めてあるはずなのに。


 手で顔を守るようにして、強く目を閉じる。本が勢いよく捲れていく音が、風の音にも負けないくらい大きく響いた。

 どうして部屋の中に台風が。

 何とか立ち上がって、薄く目を開ける。


 部屋にあった物が、乱暴に飛ばされていた。ベッドさえも浮いている。

 本棚も傾いて、中に詰まった私のお気に入りが次々と風に引きず出されていく。

 他の家具に比べたら、本なんて軽々と舞う。


 暴風に晒された本は開かれ、耐えきれずに綴じたページをばらばらと手放した。

 解き放たれた紙が舞い、混ざって、纏められていた物語がめちゃくちゃになっていく。


「あーっ!」

 最悪だ!

 『時計塔のアリス』が、巻き込まれてる!

 部屋の中心に向かって吸い寄せられているその本は、何よりも大事なもの。

 取り戻したいから、慌てて駆け出す。


「それだけはだめ! だめなんだって!」

 伸ばした両手でカバーを掴む。

 だけどその手から、次々とページが部屋の中に吐き出されていく。

 ハードカバーの中身が空っぽになった。


 どうしよう、こんなことになるなんて――。


 夢だ。これは現実じゃない。


 こんな最低の夢、私は認めない……。


 未だ絶えない暴風の中で、視界がぐらりと揺れた。

 視界が真っ黒に閉ざされていく。

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