第1話

 物語の外から鐘の音が聞こえた。


 チャイムだ。もう下校時間になったらしい。

 本にしおりを挟んで現実に目を向けると、周りの生徒たちは席を立って退室していくところだった。椅子を引く音や扉に向かう足音、それにちょっとした会話が静かだった図書室に一時的な賑やかさを生む。


 窓の外は、すっかり茜色になっていた。

 閉じた本を鞄に入れて、ぞろぞろと帰宅する流れの一部に混ざる。


 高校に入学して、だいたい半年が過ぎた。

 私もすっかり、図書室の常連だ。

 何かの部活に入る事もなく、放課後は大体図書室に居座って、下校時刻になるまで本を読み耽っている。


 家に帰って読めばいいじゃんという話だけど、場所が大事なのだ。

 だってほら、図書室こそ本のためにある空間というか。

 例えるなら牛乳だって牧場で味わった方が二割増しでおいしいはず。

 環境というのは味を左右する。多分。多少は。


 まあでも一番の理由は静かだから。結局はそこだ。

 廊下を歩きながらも、頭の中ではさっきまで読んでいた物語の続きをあれこれ想像していた。

 なんとも中途半端なタイミングで時間が来たものだから、先が気になって仕方がない。テレビ番組のいいところでCMに入ってしまったような心境だ。


 もう少し先まで読みたいなあという欲求がなかなか消えない。かといって、歩きスマホならぬ歩き読書をする度胸や精神はない。

 続きは帰ってから。

 ただ、帰ったら帰ったでお母さんに家事の手伝いを頼まれたりするから結局再開はいつも夕食の後になるんだけど。


 靴に履き替えて、駐輪場に向かう。

 この時間ともなると校内は閑散としていて、気楽に帰路につけるのがいい。

 部活動のない生徒が作る人の波、つまり下校ラッシュに混ざるのは避けたい。人混みは苦手だ。だからこその図書室でもある。


 ぽつんと取り残されている私の自転車を発見するのは容易だった。

 籠に鞄を乗せ、解錠し、ハンドルを握り校門へと連れ歩く。

 校庭やテニスコートでは、運動部の生徒たちも撤収に入っていた。

 今日も一日お疲れ様。

 校門を抜けたところで自転車に跨り、ゆらりとペダルを漕いで自宅を目指す。


 目指しながら、ふと浮かんだ『読書の秋』について、あれこれ考えを広げていった。

 読書の秋と世間は言う。

 でも年中読書している私にとって、秋という季節に特別な思いはない。


 春になろうと夏になろうと、そしてこの秋が過ぎて冬が来たとしても、私が自由な時間にすることは読書であることに変わりはない。私の趣味は、季節によって変わるものでもないからだ。


 強いて秋という季節のメリットを挙げるならば、涼しいから読書に集中しやすいという点だろうか。

 夏は暑いし、冬は寒い。

 だからそういった環境面の話をするならば、秋というのは読書に適している。


 ただ、気温の快適性でいえば春も負けていないので、私は別に読書の春でもいい。

 ついでに言うと夏も冬も、屋内に限れば文明の利器を活用して過ごしやすい空間というものを手軽に用意できるので、そうなると結局のところオールシーズン読書に良し、といえる。

 導き出された結論に一人納得して、青信号に変わった横断歩道を渡った。



 鍋の中でぐつぐつ煮込まれるカレーのルウをかき混ぜながら、その具合を見守る。

 いい感じかなと目視で判断し、おたまで掬い小皿に垂らしたルウを口に含んだ。

 うん、美味しい。


 仕上げとして、隠し味に牛乳をちょっとだけ入れる。そしてまた味見。

 完璧だ……。

「できたよ」

「ん、ありがとう。じゃあこれよろしくね」

 隣でサラダを担当していたお母さんは、すでに人数分のライスをよそっていた。


 盛りつけたカレーライスをテーブルに運んでいると、今日は早く帰ってきたお父さんが新聞の番組欄をじっくり眺めていた。

「今日は面白そうなのがあるじゃないか」

「どれのこと?」

 訊いてみると、お父さんは「これ」と紙面の一箇所を指差す。その指先にある文字を目で追ってみると、七時から超能力に関する特番があるそうだ。

「好きだよねえ、こういうの」


 そうして家族三人揃った夕食で、テレビに映る超能力者の紹介VTRを眺める。

『本日はこのスタジオにお呼びしております! では登場していただきましょう、ミスターKJさんでーす!』

 司会者が声高らかに言うと、セット中央にあるカーテンが開く。そこにはVTRで見た白スーツのおじさんがいて、拍手に迎えられながら柔和な笑みを浮かべていた。


 ミスターKJなんて名前だけど、日本人だ。KJはイニシャルかもしれない。

 スーツは真っ白だけど、肌は夏をしっかりエンジョイしたかのように黒い。

 白スーツよりもアロハシャツの方が似合いそうだけど、超能力者だから見た目のインパクトも重視しているのかもしれない。そんな印象を抱きながら、カレーライスを口に運んだ。


『では、実際に超能力を見せていただいてもよろしいでしょうか?』

『ええ。もちろん』

 ミスターKJは、これからスタジオにいる芸能人や観覧者の前で超能力を披露するみたいだ。


 司会者は番組が用意した新品未開封のトランプをケースから出して、入念にシャッフルしたあと、赤いテーブルクロスをかけた台の上に裏向きで並べ始める。

 そうして縦に六枚、横に九枚で計五十四枚のカードが整列した。

 作業が完了すると、司会者に代わってKJが台の前に立つ。ゆっくりと落とした人差し指が触れたのは、伏せられた一枚のカード。


『このカードは、ハートの5です』

 テレビ画面には息を呑んだ出演者たちの顔が次々と映され、最後にKJの不敵な笑みがアップになる。

 カードに触れた状態で、KJはじっくりと間を置く。


 当たってるんだろうなーって思いながら見ていると、KJがカードをひっくり返す。

 そこにはハートの5。スタジオは大盛り上がり。

 二枚目以降は、テンポよく宣言とカードのオープンを繰り返した。

 流れ作業のようにどんどん言い当て、目の当たりにした芸能人たちがオーバーリアクション気味に驚く。


 最後まで数字とマークの指定を外すことなく、ジョーカーを含めた五十四枚全てを見事に的中させた。

『これが私の力、透視能力です』

 得意げに両手を横に広げるKJ。スタジオは拍手喝采。


「おーすごいじゃないか。なあ?」

「そう? 手品みたいに何かタネがあるんじゃないの?」

 スタジオの芸能人と同じような反応をするお父さんだけど、お母さんはこれっぽっちも信じていない。占いは信じるのに、超能力は否定されるKJがちょっとかわいそう。


 でも私の意見も、今のところお母さん寄りだ。

 だって手品師でも似たようなマジックができるはずだから。

 とはいえ、すごい。あれは出来る人にしか出来ないのは事実だ。


『超能力は本人が気付いていないだけで、実は皆さんも持っているかもしれません。そう、テレビの前のあなたも』


 えっ。

 KJが、私を指名している。

 目と目が合って、指をさされる。


 ……いや、いやいや。そんなわけない。

 私というか、全ての視聴者に向けて発言しただけだ。

 何を勘違いしているんだろう私は。どきりとして、心拍数がちょっと上がった。


 お父さんとお母さんは平然としているのに、自意識過剰だ。

 あー恥ずかしい。


 再び画面に注目すると、KJが拍手に見送られながら満足げにカーテンの奥へ去っていくところだった。

『いやあ、どうでしたか田沼さん?』

 興奮冷めやらぬといった様子の司会者が出演者にコメントを求める。

『いやあ、すごかったですね。あの力があったら、もうビックリ箱で驚かされることなんてなくなりそうですよ』

『でも結局見ちゃうんだから、その瞬間に驚くでしょ!』

 普段からドッキリのターゲットにされることの多いお笑い芸人がコメントして、他の芸人のツッコミが決まる。スタジオに小さな笑いが起こったところで、番組は次の超能力者紹介のVTRへと進行した。


 うーん、何だったんだ一体。

 トランプめくりには驚かなかったけど、去り際に妙な衝撃を残していった。

 もやもやと、違和感が心に居座る。


「どうしたの? ぼーっとしちゃって」

「えっ? いや、何でもない」

 お母さんに言われて、はっとする。差し込んだまま止まっていたスプーンを持ち上げ、残りのカレーライスを食べ進めた。


 この違和感を語っても、両親から共感は得られそうにない。

 さっさと食べ終えて、部屋で本の続きを読もう。

 でも、他に誰か、この感覚を味わった人はいないんだろうか。


 明日にでも、学校で沙也に訊いてみよう。


「いやあ、そもそも観てないんだよねえ。昨日は家族で外食だったから」

「そんなあ」

 訊いてみたら、そんな答えが返ってきた。

「まあまあ、そう気を落とさずに。このピーマンを受け取りたまえ」

 ピーマンが、沙也の弁当箱から私の弁当箱へ次々と移されていく。


「じゃあ私からは、この人参を……」

「残念、私は人参も嫌いなんだ」

「気が合うね」

 知ってるけど、沙也の弁当箱にひょいひょいと入れる。沙也は「うげえ」なんて言いつつも、抵抗せずに見届けた。

 嫌いなものを交換するのって友情を感じる。

 教室の隅で向かい合い弁当をつつく、穏やかな二人の昼休み。


「で、その番組がどうしたのさ。なんか面白いことでもやってたのかね」

「まあ……ありがちな、大体想像通りの内容だったんだけどね。スタジオに来たミスターKJって人が、伏せたトランプの数字とマークを全部言い当ててさ。そのあと、あなたにも超能力あるかもしれませんよーみたいなこと言ったんだけど、それがなぜか、私に向かって言ってるような気がしたの。気のせいなんだろうけど、沙也はどう感じたのか訊いてみたかっただけ」


「ふーむ。それは実際に見てみないと分からんなあ。ネットに動画アップされてたら、それ見てみるか」

 そう言った沙也はスマホを取り出して、いじる。ネットにアクセスしているんだろう。

 でも私としては、それじゃダメだ。

「いや、リアルタイムで見ることに意味があるというか。後から見たんじゃ対面したことにならないというか……」


 放送とアップされた動画。どっちも画面越しなんだけど、決定的に違う。

 KJがそこにいるか、そこにいたKJを見るかの違い。

「なるほど。じゃあ過去に戻るしかないわけだ」

 気を悪くした様子もなく、沙也はスマホを机に置く。


「そこまでしなくても。というかもう、この話は終わりにしよう。そんな重要なことじゃないし。ごめん変なこと言って」

 本当に、もう大して重要じゃない。

 昨日はあれだけ気になっていたのに、一晩眠るとどうでもよくなっていた。


 気のせいというか、気にしすぎというか。そもそも気にすること自体が変だって思うようになったのだ。

 どうしてあんなにビックリして、心臓がどきどきしたんだろう。不思議だ。


 そして眠って起きたら平気になっている。

 そんなものなんだろうか。


「どうせ過去に戻るなら、宝くじの当選番号とか知りたいよね」

「おお、確かに。千理よ、任せたぞ」

「じゃあタイムマシン手に入れないと」

 気を取り直して、冗談を言い合う。


 もし過去に戻れたら、そう考えると妄想は尽きない。

 しかし現実は未来への一方通行だし、いくら後ろ歩きしようと過去には戻れない。

「なら、タイムマシンを手に入れるために未来へ行かねば」

「タイムマシン、あったらいいね」


 あと本の世界に入ることができる装置とか欲しい。

 未来のテクノロジーに期待しつつ、そのあたりの欲望をひとしきり語り合った。


「……そうだ沙也、明日の天気を予想してよ」

「あー、明日土曜だっけか」

「うん。晴れだったらいいんだけど」


 沙也の予想する天気は、ほぼ的中すると言っていい。

 テレビの予報よりも、目の前にいる友人の言葉の方が私は信頼できる。

 彼女いわく単なる勘だというその予想は、現在まで驚異の的中率百パーセント。

 いつかは外れるから、と沙也は言うけど、外れる気がしない。


「うむむ、明日はねえ……」

 沙也は目を閉じ、眉間にしわを寄せて天を仰ぐ。

「晴れ――」

 ぱっと目を開け、得意気な表情を私に向けた。

かと思いきや、難しい顔になる。

「――のち、分からん」

「分からんって、初めて聞いた」


 いつもは断言するのに、今日は歯切れが悪い。

むうー、と沙也は唸りながら再び天井の方を見上げて、答えを頭の中に探している。

 見つからないということは、最初から存在しないんじゃないだろうか。なんて。


「明日になってのお楽しみ?」

 あまり悩ませても悪いのでそう言うと、沙也は顔を私の方へ戻して、ちょっと照れたような笑みになる。

「お楽しみですな。なんか今日は調子が悪い」

「たまにはそういう日もあるよね」


 ただの勘だし、寝不足とかで頭がぼーっとしてたら精彩を欠くことだってあるはずだ。

 少なくと午前中は晴れになるだろう。

 それからも、昼休みが終わるまでだらだらと雑談を続けた。


 聞いて聞いてと語りだした沙也による昨日のうっかりエピソードに、相槌を打ちながら付き合う。

「それでさあ、スマホはどこじゃーって家中を探し回って、結局冷蔵庫の中に入ってたんだよ。そこで思い出したんだけど、飲むから出した牛乳を、飲んだから冷蔵庫に戻そうと思って、代わりにスマホを冷蔵庫に入れたみたいだ」

「それ、牛乳は出しっぱなし?」

「うむ。テーブルの上に置きっぱなし。それで気付いた」

 ははは、とゆるく笑う沙也。つられて私も笑う。


「そういえば、残業で疲れてたお父さんが似たような行動したよ。ソファーにスマホを投げようとしたらしいんだけど、間違えてグラスに注いだビールの方を投げちゃって、ソファーがびしょ濡れ」

「ははは。いやー、残業って怖いねえ」

「沙也はうっかりなだけでしょ」


 二人で笑ってると、窓からやってきた風に沙也のさらさらな髪が揺れた。

「前髪がうっとうしい」

 指で前髪をいじる沙也。

「全体的に髪が長いもんね」

「千理も結構伸びてきたよ」

「私はまだ、肩にかかるくらいだから」

「私を目指すかね」

 沙也は腰の辺りで掴んだ後ろ髪を持ち上げ「ふふふ」と不敵に笑う。

なぜか悪そうな顔つき。それがおかしくて私まで笑った。


「いや、今の長さをキープする。沙也ぐらい長いと手入れが大変そうだし」

「そっかー。それもよかろう」

 背筋を伸ばして静かに立っていたら、沙也は深窓の令嬢に見えなくもない。

 でも中身は、自ら残念系だと言っちゃう女子だった。そこが付き合いやすくていいというのは私の談。


 類は友を呼ぶというか、変なやつ同士気が合ったみたいだ。

 とはいっても、さすがに初対面ではお互いもっと固かった。全然ゆるくなかった。

 人は他人に対し、少しでも自分を良く見せようとするものだ。


 私の場合は、この歳になっても枕元に『時計塔のアリス』を置いていないと眠れないといった話は誰にも語るつもりがなかった。話せばきっと馬鹿にされるから。

 でも、沙也にだけは語った。


 その沙也も最初は、かしこまった言葉遣いだった。今みたいに、くだけた物言いじゃない。

 だから私たちの最初は特別なものなんかじゃなく、なんとも普通の会話からスタートしたと覚えている。どこにでもいる、ありきたりな二人の女子高生だった。


 私たちは仲良くなったのが先で、それから一緒にいる内になんとなく互いの悩みだとか本性なんかに気付いて、そこで初めて「実は……」といった具合に打ち明けた。そして共感し、今に至る。


「というか、あれか。明日の天気を聞いてきたってことは、どこかへお出かけかね」

「うん。駅前の古本屋に行って、それから図書館かな。今読んでるやつが終わるとストックが切れちゃうから、また補充しないと」

「好きだねえ、本。今は何を読んでるんだっけ?」

「『ドラゴンズテイル』ってやつの一巻。三巻まで出てるから、明日まとめて買っちゃおうかと」

「ほう、ハマったか」

「なかなか面白いよ。王道のファンタジーって感じ」


 主人公は真っ直ぐで正義感の強いリクティという青年で、様々な出会いと別れを経験しながら剣と魔法の世界を冒険する物語だ。

 男向けの作品だけど、少年漫画を楽しめる私にとっては問題ない。


「千理が言うなら、私も読んでみますかね」

「そう? 読むなら月曜に貸すけど」

「うむ、よろしく」


 普段は純文学を好む沙也が、果たしてライトノベルを読んでどんな感想を抱くのか。

 楽しみのような、不安のような。

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