夢と現実と創作の境界

雨雲雷

プロローグ

 きっかけは、テレビでやってたホラー映画だった。


 今にして思うとチープな内容で、とても怖がるようなものじゃない。

 小学校を舞台に子供たちを追いかける幽霊はどう見てもワイヤーで吊るされた人間だったし、逃げ込んだ先で待ち構えていた火の玉や提灯オバケはいかにもなハンドメイドだった。


 これで怖がりなさいというのが難しい話で、むしろ悲鳴よりも苦笑いの方が視聴者から引き出しやすいぐらいの、ちょっとこれはダメでしょって内容。

 そんな映画なんだけど、恐怖し泣き叫んだ子供がいた。


 恥ずかしながら、私のことだ。


 当時十歳の私は、それはもう臆病で怖がりな女の子で、三度目の悲鳴を上げたところで堪らずテレビの前から逃げ出した。「全然怖くないから」って観る前に教えてくれたお母さんを「嘘つき」って涙ながらに糾弾して、そんな私を宥めながらお母さんとお父さんは困ったように笑っていた。


 当時は「なんで笑うの」ってまた私は怒ったけれど、振り返ってみれば両親の反応は当たり前かなって思わなくもない。あの頃の私は感受性が豊かすぎるというか、あまりにもピュアだったから、いくらなんでも怖がりすぎだと自分でも思った。


 で、ここからが本題。

 泣いて怒った夜、疲れた私はベッドに入ってぐっすり眠ることができればよかったんだけれど、そうはいかなかった。


 いつもなら目を閉じればすぐ寝てしまうのに、その夜は目が冴えて、思考も働くことを止めようとしない。

 何度も何度も、望んでもないのに映画の怖かったシーンが頭の中でプレイバックされる。


 それによって、私があの映画の舞台に迷い込んでしまったらどうしよう、お化けが夢の中に出てきたらどうしようだなんて危機感に支配され、本気で身の危険を感じて、頭が警戒態勢を解除しようとしない。


 こうなると一人でトイレに行くのも怖くて、掛け布団から身体を出したら誰かに掴まれるような気がしてならないから、ひたすら潜り込んだベッドの中で丸まっていた。

 そうしていると時間の経つごとに疲れてきて、巡り続ける思考が途切れ途切れになってくる。ゆるやかに、思い出すかのように眠気を認識する。


 これでやっと寝られる……と安心して、深く息を吐く。


 でも、現実で長く辛い戦いから解放された私を待っていたのは、悪夢だった。


 記憶の限り再現された映画の舞台である暗い小学校の中で、私は例のワイヤー幽霊に追いかけられた。

 一対一の追いかけっこでも充分に怖かったけど、作中に登場した他のオバケたちも出てきて私を怖がらせる。


 これが映画の再現なら、私の傍には主人公サイドの子供たちがいてもいいはずなのに、当たり前のように誰もいなかった。結果、一人で逃げるはめになる。

 恐慌状態ながらも理不尽さだけは感じて、なんでーって叫びながら走った。


 でも必死に逃げてるのに全然前に進まなくて、グラウンドを横切る途中でワイヤー人間に追いつかれそうになる。

 肩を掴まれる感覚がして、私の全身を冷たさが駆け上がった。


 キャーって腹の底から絶叫したのが夢の私なのか、現実の私なのか曖昧なタイミングで飛び起きる。

 いつもなら目覚めた時には朝なのに、その時はまだ三時。


 なんでまだ朝じゃないのっていう遅々とした世界に対する八つ当たり的な怒りと、また寝たら悪夢の続きを見てしまうなんて現実に怯えて、私の頭は再び異常なまでに回転し始めた。


 結局朝まで眠れない、寝たくないから起きていて、カーテン越しに見える窓の外がうっすら明るくなってくるとそれだけですごく安心した。

 助かった……って心の底からほっとしたことは今でもばっちり覚えている。


 夜が明けた。

 でも、夜は再びやってくる。何度でも。


 翌日、またあの夢を見たらどうしようって考えていると、やっぱり見た。

 そうして次の日も次の日も、というか毎日、眠りにつくと同じ悪夢を見るようになった。


 その度に追われる私は逃げ続け、飛び起きた時には寝汗でパジャマはびしょびしょだ。

 休むための眠りであるはずなのに、私の疲労は溜まるばかり。むしろ夜の方が体力を消耗する。


 睡眠不足ですっかりひどい顔になった私をお父さんとお母さんはとても心配してくれたけど、悪夢を見る日々は変わらない。

 考えるから見るんだって思っても考えずにはいられなくて、もう眠ることが嫌で嫌で仕方なかった。


 高校生になった今ではギリギリ笑い話にできるけど、当時はもう夜が怖くて眠るのが怖くて、寝る前に『今度こそ朝を迎えられないかも』なんて割と本気で思ってたりした。


 そんな私を救ってくれたのは、薬でもカウンセリングでもなく両親が誕生日プレゼントに買ってくれた一冊の本だった。

 それが『時計塔のアリス』という童話であり、私を救ってくれたお守りだ。


 その内容は、アリスという少女が時計塔の中で、懐中時計に手足が生えたコミカルなキャラクターたちと一緒に暮らす優しい物語。


 でもそんな彼女たちに、私を襲う悪夢を撃退する力があるのだろうか。


 実際のところ私は、期待していなかった。というより、考えることすらしなかった。元々そういった目的で買ってもらったものでもないし、枕元に何かを置いたところで、助けに来てくれるなんて思いもしなかったからだ。


 でもこれが、効果てきめんだったのである。


 例の小学校に放り込まれた私が、ふと気配を感じて横を見るとアリスがいた。

 彼女は私の不安を掻き消すように、にっこりと笑う。

 それだけで、私の恐怖心はどこかへ消え去ってしまった。


 周りにはアリスだけじゃなく懐中時計のみんなもいて、私に寄り添ってくれる。

 行こう、とアリスが私の手を取って、引かれるままに前へと踏み出す。

 アリスと手を繋いで走れば、どんな幽霊も私たちに追いつけなかった。


 前方や左右、どこから何が来ようと、私とアリスを取り囲むように並走してくれる懐中時計たちが常に守ってくれたから平気だった。

 幽霊もオバケも、ワイヤー人間も何もかも。

 私を怖がらせるものは、アリスと懐中時計たちが触れさせない。近寄らせない。


 とても心強かった。

 みんなの優しさが嬉しくて、心が温かいもので埋め尽くされる。

 夢の中で私は、本当に久しぶりの安息を得た。


 ――悪夢は、終わったんだ。

 そう思うと、思わず笑ってしまう。


 暗かった小学校の空は、いつのまにか晴れ渡る青空になっていた。

 ホラー映画の舞台は、私たちの遊び場に変わる。


 私は思いっきり楽しんだ。夢を満喫した。


 シーソーでアリスと遊んでいると、懐中時計が私の方にもアリスの方にも次々と押し寄せてくる。乗れないからって真ん中の方までよじ登るからめちゃくちゃになって、絶妙なバランスで両端が浮く。

「おおー」と私とアリスが声を揃えたのもほんの数秒で、すぐにがたんとアリスの方が地面について笑った。

 それからも地面に半分埋まったタイヤの上を順番に渡ったり、ジャングルジムを上ったりした。


 アリスやみんなが一緒なら、私の夢はハッピーな内容になる。

 私は夢の中でも、一人じゃない。


 それ以降、毎夜続いた悪夢は見なくなった。決まりのように繰り返されてきたのが、ぴたりと止まった。

 それは間違いなく枕元に置いた『時計塔のアリス』のおかげだ。この本がある限り、私は夢の中でアリスたちに会える。そしてアリスたちがいれば、私は悪夢を見ない。


 私は夜が待ち遠しくなって、眠るのが楽しみになった。

 あれだけ怖がっていたのに、嘘のように平気になった。


 それこそ本当に、『悪い夢でも見ていたかのようだ』という表現がぴったりで、悪夢から脱した私は夢に対し好意的な感情を抱くようになったのだ。



「まあ、そんなことがあったんだよ」

「……なるほどなあ」


 二人で電車に揺られながら、簡単に幼少期のトラウマとその克服を語った。

 静かに聞いていたアリスは腕を組んで、目を閉じると深く頷く。私だけが成長した今となっては、アリスは私よりも頭一つ小さい。


 それはそうと、さすがに当の本人に聞いてもらうのはかなり恥ずかしかった。

 んー、と話を頭の中で整理している様子のアリスと、それをじっと待つ私によって沈黙が訪れる。


 静かになると、電車の走る音がボリュームを上げたわけじゃないのによく聞こえるようになった。

 窓の外では、暗闇が絶えず流れ続けている。

 いつまで経っても、明るい場所には出そうにない。


 私たちは今、どこにいるんだろう?

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