迷宮 Ⅲ
暁色の夕暮れ。
緑葉から鮮やかな紅葉へと変色を遂げた木々の合間を、薄ら寒い木枯らしが吹き抜ける。
紅葉栄える両脇の並木、その道を二人が影を伸ばしながら歩いていた。
一人は着物姿の年老いた老人。
無精髭を生やしシワの寄った顔をしているが、そこに年相応の弱々しさはなく。
波風立たぬ水面のような、それでいて静謐な覇気を感じる。
歳月を経て深く太く年輪と、威厳を重ねた大樹の如き老人。
そんな老人に手を引かれているのは、身体のあちこちに傷を残している黒い髪の幼き少年。
「……なあ、じいちゃん」
歩きながら少年は口だけを動かし、隣の老人に話し掛けた。
「なんじゃぼん?」
京都の出身という訳では無いが、老人は隣の少年。
自身の孫の事をぼんと呼び、視線を向けた。
「……助ける事って、いけないことなのか?」
少し遅れて、自身の思っていた事を口に出す。
ふむ、と老人は自身の髪と同じ色素の抜けた髭を撫で、少年の言葉の真意を探ろうとした。
着ている赤色の着物の袖を揺らしながら、老人は少年を見据える。
「あの子が言ってたんだ。余計なお世話だって、頼んじゃいないって……嫌がってたんだ」
老人が真意を探り当てる前に、少年は語った。
数十分前、少年は虐められていた一人の少女を助ける為、複数人の年上の子供達に喧嘩を売ったのだ。
相手は年上、ましてや何人もいたのだ。
結果は火を見るより明らかだった。
しかし何とか食らいついて子供達を退けた後、助けた少女にそう言われた。
少年の傷は、喧嘩の際に負ったものだ。
「く、クハハハハ!」
低い声が暮れた空に響いた。
少年は祖父の笑い声に、馬鹿にされているのだ思ってムスッと頬を膨らませた。
老人は繋いでいた手を離し、むくれる少年の頭にポンと乗せる。
「そらぁなぼん。嫌がってたんじゃあねぇぞ。その女子おなごは、自分に関わったせいでおめぇが傷つくのを嫌がったのよ」
「なんでそんなことが分かるの……?」
「わかるさ。てめぇの婆さんも似たような性格してっからな」
「……でもその子はそうとは限らないよ? 本当に嫌なのかもしれないじゃんか?」
「本当に嫌なら、あんな嬉しそうな顔をしねぇさ」
老人は少年を迎えに行った時、ボロボロな孫の横で一瞬だけだが嬉しそうに笑った少女を見たのだ。
「……いいか緋色。これだけは覚えとけ。男なら目の前に困ってる奴を見捨てるな、どんな絶望に置かれても決して諦めるな、そして……自分の矜恃を信じて貫け。そうすりゃあお前も──」
老人は凛とした彫りの深い顔をニヤッと崩し、ガジガジと撫でるというよりも掻き回すに近かったが、少年はその大きな掌に安心するような心地良さを感じていた。
*
(……ここ、は……?)
深い暗闇から意識が引っ張り上げられる。
辺りを確認しようと体を動かした時、ズギリと激痛が身体を突き刺した。
それによって脳は完全に覚醒し、緋色は自身の置かれた状況を理解する。
同時に、全身が痛みで熱くなる。
「は。くたばり……損なったのか……」
我ながらしぶとい、と緋色は己の生命力を自嘲した。
あそこで死んでいれば幾分か楽になっただろうに、しかしそうはならなかった。
こうなれば後に待っているのは、あの化け物に殺されるという事のみ。
もうどうにもなりはしない。
全てを諦めかけた時、頬に重みを感じた。
痛む体を無理やり動かすと、それが視界に入った。
「……ッ!」
それは、亡き祖父が緋色に送った首飾りだった。
緋色の瞳と同じ赤色のクリスタルで作られた、美しい首飾り。
クリスタルの中には剣と龍が彫られていた。
この首飾りは確か、祖父の実家に伝わっていたと言う、所謂家宝で相当大事な物だった筈だ。
緋色がまだまだ幼かった時、祖父の宝物だというこの首飾りを貰えて、小躍りする程嬉しかったのを憶えている。
家を出る支度をしていた時、箪笥に仕舞っているのを見つけ、置いていくのも忍びなくて持ち出していたのだ。
クリスタルを見ていると、緋色の頭に祖父の言葉が反響した。
──どんな絶望に置かれても決して諦めるな。
幼き日に見た祖父の勇ましい顔と共に、その言葉約束が脳裏をよぎって仕方が無い。
(あぁ、くそッ)
首飾りを見ていると、叱られている気分になった。
ギリと奥歯に力を入れ、歯を食いしばる。
諦めかけていた心に生気覚悟が灯る。
少しだが、痛みも和らいできた気がした。
諦めずに生きる事を選択した緋色は、まず最初に周囲の情報を確認した。
忙しなく目を動かし辺りを見る。
(ここはやつの巣か?)
藁の様な何かで出来た巣。
その中に緋色は寝ていた。否、緋色だけではない。
手を動かすと、ひんやりとした柔らかい何かに肌が触れた。
暗がりの中ではよく見えない。
緋色はポケットにあった罅の入ったスマートフォンのライト機能をオンにする。
「──っ」
さっと血が引いていく。
それはかつて、人と呼ばれていた肉塊だった。
照らし出された死体は一つではなく、巨大な巣の中以外にも積み重なり、ちょっとした山になる程大量にあった。
化け物は緋色が死んだと思い、巣に運んだのだろう。
死体郡を見てここで吐かずに済んだのは、生きる事への覚悟を決めたのと、体に残る鈍痛のおかげか。
「ここにいるのはマズい」
大量の死体を見た時、ある一つの仮説が浮かんだ。
もしかしたらこの死体は化け物の餌なのではないか?
それが正解なのかは分からないが、一つ言えるのは、このままでは眼前の彼らの仲間入りをしてしまう事。
激痛を耐え懸命に両の足で立ち上がる。
気を抜けば、すっと力が失われてしまうだろう。
今ここで倒れる事が出来たらどれだけ楽か。
だが、それだけは出来ない。
今まで無価値に生きてきた。
ただ怠惰に日々を浪費してきた。
全てを諦めて祖父との約束を破り続けてきた。
「なさ、け……ねぇ、なぁ……」
それでも、死の淵に立たされた今になって諦められない、諦めたくないなどと。
今になって漸く、何かを成し遂げてから死にたいなどと。
ああ、どれだけ恥らしい事だろうか……。
涙が溢れそうになり、それを堪える。
今の緋色に泣く資格はない。
それを誰よりも、緋色自信が理解していた。
壁に手を付き足を進め、巣穴から出る。
コツコツコツ、乾いた足音だけが迷宮内に広がる。
体感では巣穴を出て一時間ぐらい経った頃だった。
『ギギァァァアア!!』
遠くから悍ましい声が耳を突いた。
この咆哮は、緋色が居なくなったことに気付いたものだ。
続いて迷宮が揺れる。
揺れはさほど大きくは無い、それほどまでに遠く移動したという証拠だ。
しかし、油断は出来ない。
緋色が見つかるのも時間の問題だ。
痛みに襲われる恐怖を抑え、少し足早に歩く。
「うぉっ……!」
より体を安定させるために、掌を付いた壁に体重を掛けた時だった。
掌を中心に、壁にどんどん罅が広がっていき、ドゴン! と愉快で豪快な音を立てボロボロに崩れ落ちた。
衝撃で刺すような痛みが襲ってくる。
なんとか立ち上がり前を見ると、崩れた壁の先に道ができていた。
その道は今まで進んできたような、荒く掘り進められたものとは打って変わって、人の手で整備された綺麗なものだった。
石造りのタイルにはツタが生えているが、それでも美しいと感じられる程度には整っている。
壁に付いた灯篭が、白亜の通り道を照らす。
崩れた壁は、この道を隠すために人為的に作られたようにも思える。
これまで居た
幸いな事に、この道の入口は人一人が通れる程度の大きさだ。
先に何があるかは分からないが、化け物から身を隠す為には丁度いい。
そう考えた緋色は、躊躇する心に一括して進んだ。
*
進んだ先にあったのは、二メートルを超える白亜の石扉だった。
不思議な装飾と彫刻に、白亜とは真逆の黒で彩られた赤眼の龍の絵。
荘厳なる異質な空気を放つ、そんな扉。
緋色は歩み寄ると、扉は独りでにゆっくりと、岩と岩が擦りあう音を鳴らしながら開く。
緋色を歓迎しているかのように、最後に大きな音を立て扉は止まった。
「……っ!」
目の前の光景に息を飲んだ。
半球状になった空間の地面を埋め尽くす無数の綺麗な花と、壁に彫られた幾何学模様。
中央には祭壇のようなものがあり、その周りを七つの台座が囲っている。
天井には太陽を模した光源が、祭壇に一条の光柱を降らしていた。
宙には淡い光の球が揺蕩いながら、この空間を動き回っている。
あまりにも幻想的だった。
現実とは思えない景色に、どこか夢心地になる。
何よりも緋色の目を引いたのは祭壇の中心にあった、妖しく輝く龍を模した赤黒い鎧。
鎧であるはずなのに、化け物をも凌ぐ圧倒させる存在感を放っている。
気付けば痛みを忘れそれに近付いていた。
緋色が鎧に触れた時、呪文の様な音声が頭に入り込んだ。
『──接触者確認。接触者を対象とし、対象を解析。……解析完了。対象者は人間。対象を新たなる所有者として認定し、適合と解除を執行する』
緋色の中に理解不能の言語が流れる。
だからといって出来ることも無く、ただ呆然と立ち尽くすだけだ。
その間も声は止まない。
『第一から第五までの封印を解除、伴い凍結されていた機能の起動を開始。……
数秒、不可思議な声が聞こえなくなった後。
『やあ、おはよう
一つの意思を持って、鎧は緋色に声を掛けた。
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