05 あふれる炭酸

 昇降口の、やけに安い自販機でサイダーを買った。普段はあまり口にしないけれど、なんとなく飲みたくなったのだ。キャップをひねれば、炭酸が抜ける音が景気よく鳴る。もっとも、景気が良いのは音だけだ。理由もわからず、ひとみの心は沈んでいた。

 美術室の鍵を貰いに、職員室の扉を叩いてから開ける。先生の半数以上が部活動の活動場所に行ってしまっているせいか、先生の人数は普段より格段に少ない。職員室にはいってきたひとみに気が付いて、美術の先生が立ち上がった。冷房の効いた職員室は、汗をかいているひとみには少し寒いくらいだった。

「林先生」

「杉村さん、遅かったのね」

「……寝坊しちゃって。ごめんなさい」

「心配したよー。なにかあったの?」

「遅くまで絵を描いてたんです」

 まるで同級生に接するような林の態度。ひとみは、これが漫画だったなら、へら、と効果音のつきそうな愛想笑いを零す。その様子を見た林が、少し考える仕草をしてからひとみの頬をつついた。外の暑さに火照った頬に冷えた細い指があたり、ひとみは驚いた顔をする。

「今日は元気ないね」

「……そうですか?」

「サイダーなんて買っちゃって。景気づけ?」

「………そう、ですけど」

「ここ最近楽しそうだったから、先生は嬉しかったんですよ。なにかあったでしょ、杉村さん」

 特に表に出しているつもりはなかったが、楽しそうだったと言えばそうなのだろう。実際今日だって、萩本が来る前に美術室に行かなければと急いでいたのだ。絵を描くだけじゃなくて、彼と会うのがひとつの楽しみと化していた。それなのに、どうしてこんなにつらいんだろうか。彼のことばの、態度の何が、私の心を締め付けている?

 目を細めた林に、ひとみは思わず声を漏らした。

「………わかんないんです」

「なにが?」

「なんで、こんなに……辛いのか」

「……誰かにいじめられたの?」

 まあ違うだろうけど、と林の目は雄弁に語る。ふるふる、と首を振ったひとみに、林が少しだけ微笑んで見せた。設定温度に到達したのか、冷房の音が途絶える。数人の先生が、パソコンに何かを打ち込む音や、紙が擦れる音がやけにはっきり聞こえた。

 どうせ答えてくれないだろうけど、とひとみは口を開いた。そもそも詳しい事情を話していないのだから、答えられるはずなんてないけれど。たとえ全てを包み隠さず話していたとしても答えてはくれなかっただろう。林先生はそういうひとだ。

「……先生は、これがなんなのかわかりますか」

 ひとみの言葉に、林がくすと笑った。

 筆を持つ人の手が、ひとみの頬をむにと挟む。ひとみの手が握っているサイダーが、結露を始めていた。水滴がひとみのゆびを滑って、職員室の床に垂れた。

 やがて、林のその桜色の唇が開かれて、ことばが溢れた。

「杉村さん、わたしは詳しいことは分からない」

「……はい」

「だけど、ひとつだけ教えてあげる」

 しっかと林を見つめたひとみに、満足そうな視線が絡む。雰囲気は普段とがらりとかわり、教師らしく大人らしい一面が顔をのぞかせる。


「杉村さんが絵を描きたいなら、覚えておいて。なにもしらないひとは、なにもかけないの」


「……なにも、かけない」

「もちろん、物事をたくさん知っているだけで良い絵が描けるってわけじゃないし、世間とかを知らなくてもいい絵を描ける人だっている。だけどそういうことじゃなくて、私が今言ってる「知る」っていうのはね、自分のことね」

 神妙に頷いたひとみ。頬を挟んでいる林の手に、ひとみの体温が移り始めていた。林はゆったりと続ける。

「自分を知るためにはね、悩んでいいんだよ。いっぱい感じて、いっぱい悩んで考えて、それでちゃんと自分の気持ちに向き合ってごらん。辿り着くのが「わかんない」でもいいんだよ、それはそれでひとつの答えなんだから。それで、その過程全部を大事にしな」

 林はそう言って、ひとみの頬を解放した。

「たくさん、自分を知ってごらん。学校はそれができる場所。未知の自分と出会う場所」

「………詩人ですね、先生」

「これでも美術教師ですから」

 そういって胸を張った林は、いつもの若く可愛い、まるでともだちのような教師だった。ひとみもつられて笑う。

 金属がぶつかり合う音がして、林の手とは違うひやりとしたものが頬にあてられた。それは見慣れた美術室の鍵で、ひとみは少々驚きながらそれを受け取る。

「平成最後の夏くらい、はじけて青春しちゃえ!」

 そう言って、おちゃらけて拳を突き上げた林。ひとみは思わず声を出して笑った。

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