04 水泡に帰す
今日は、学校に来るのが随分と遅くなってしまった。
ひとみは、がたんがたんと不規則に揺れる電車に身を任せながら、ふとそんなことを思っていた。耳に挿した薄いエメラルドグリーンのイヤホンからは、音漏れしないように音量を控えてラジオが流れている。ひとみの高校の生徒が使用しない時間帯は閑古鳥が鳴いているような路線だから、あまり気にする必要もないのだが、なんとなくひとみはそうしていた。
朝でもなく昼でもない、中途半端に暑いこの時間帯にこの路線を使用するひとはほぼいない。先頭車両の真ん中の椅子、途中で遠くの海が臨める位置がひとみの特等席だった。ひとみのほかには、祖母と同じくらいの年であろう老婆がひとり、斜め向かいに座っているだけだった。静けさがその場を占める。
昨日はつい楽しくなってしまい、遅くまで絵を描いていた。遅くまで、というかほとんど朝までだ。仮眠と思って眠ったはいいけれど、起きれるはずもなく当然寝坊。電車に乗ってなお、少し残る眠気に、ふわとあくびをひとつ。慌てて家を出たせいで結わいていない髪が、ふわりと首筋をくすぐる。あとで結べばいいか、と思っていたくせして髪をまとめるゴムを忘れてきてしまったのは内緒だ。最低限に梳かされた髪を手櫛で整えながら、ひとみはため息を吐いた。なんてついてない日。
最寄駅から高校までは十数分。昼前となればコンクリートから熱気が立ちのぼり、太陽の光が真上から降り注ぎ、ひとみを焦がしていく。いつもより汗をかいてしまうな、とひとみは思った。それでも、シンプルなデザインの時計を見てすこし急ぎ足。
(………ぎりぎりセーフ、かな)
萩本が美術室にやってくるのは、だいたい正午前後だ。土日を除きこの一週間ほど、萩本は欠かさず毎日美術室にやってきていた。昼を食べ、ひとみの絵の進捗を見ては楽し気にほめちぎって、帰っていく。他愛のない話に花を咲かせるのは楽しかったし、ひとみの敬語も慣れれば外れた。パーソナルスペースの感覚が同じなのか、距離感で不快になることもないし、彼の持ってくる話題は例外なく楽しいものだった。異性とここまで仲良くなったことなんてない。
随分打ち解けたものだ、とひとみは何度だって思った。萩本がひとみのことを評するとき、いつの間にか代名詞が「クラスメイト」から「友達」に置き換わるのはすぐだったし、ひとみもその意見に異論はない。少しだけ胸が痛んだのはきっと、この夏が終わってもこの関係でいられるのかわからないからだ。
時刻は十一時半になろうとしている。
駅から少し歩いた先にある坂を下れば高校だ。多少駆け足で高校を目指せば、首と言わず顔と言わず汗が伝うのがわかった。体力に自信はなかったが、それでも高校までは保った。最後に、グラウンドの横を息を整えながら通り抜けようとすると、やけに運動部からの視線が刺さる。暑さで感覚までやられてしまったのかと、ひとみは一応と言った体で視線のもとをたどった。普段気にしたこともないから、何の部活のひとたちかもわからないけれど。
振り向いたひとみに、フェンスの向こうの先輩らしきひとから声がかかった。
「杉村ちゃん?」
包み隠す暇もなく、怪訝な声が漏れた。周りを見渡すが、ひとみ以外に人はいない。杉村なんてありふれた名字、他の誰かのことかと思ったけれど視線の矛先は確かにひとみだ。はい、と小さく答えたひとみに頓着せず、その女子生徒は振り返って名前を叫ぶ。
「おーい、シン! きみの彼女いるけど!」
シン、というのが誰だかわからなくて、思わず後ずさる。ひとみに恋人関係なる人は存在しないし、言葉を交わす男子生徒は萩本ただひとりだ。目が悪いのかもしれない、人違いです、と返そうとして勇気を溜める。ただでさえ人と喋るのは得意でない。
動揺して固まったままのひとみの耳に、聞きなれた声が触れる。俺に彼女なんていませんけど、という呆れた声と同時にフェンスの向こうから顔を出したのは、萩本だった。
「あ、杉村さん」
「………萩本くん?」
「……優奈先輩、変な気回さないでくださいよ」
予想外だという様に、萩本の目が丸くなる。なんだ、シンって萩本くんのことか――と安心すると同時、思う。どうして私のことが知られているのだろう。そんなことを考えているとは思わない萩本は、部活終わりでか少し火照った頬のままその女子生徒を軽く睨みつけた。優奈と呼ばれたその人は、悪びれずからからと笑う。
美人というに相応しい優奈の隣に立った萩本は、やけに絵になっていた。どくり、と心臓が嫌な音をたてる。
「あれ、彼女じゃなかったの?」
「……………」
焼けた肌に火照った頬、真夏日に似合わぬ冷めた視線で先輩にため息を吐く萩本。気心知れているのか、敬語がなければ先輩後輩だということ感じさせないような雰囲気で彼はつづけた。なまぬるい風が、ひとみを置きざりに萩本の声を運ぶ。
「――――俺なんかに、杉村さんは勿体ないでしょ」
その言葉と光景は、ひとみに理由のわからない痛みをもたらした。
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