06 ラジオが切れたなら

 閉め切られた窓と扉、クーラーが効き始めるまでは溶けてしまうほどの暑さのその場所で、ひとみは珍しくキャンバスも出さずに座り込んでいた。四階にある美術室からは景色がきれいに見える。気休めにタオルを首にかけ汗を拭っているが、暑さはそう簡単に消えてくれるわけでもない。サイダーの蓋をあけたまま、ちびちびと飲んでは窓の外を見てを繰り返した。

 ひとみは真面目だった。成績こそ平均値だが、努力肌であることにかわりはない。テスト前はきちんと勉強に励むし、家族の言うことはよく聞く。今回も例に漏れず、林から聞いた話をじっくりと考えているのだった。どちらにせよ、こんな気持ちで絵を描いたところでいいものが仕上がるわけもないのだからなにをしていたって同じである。

 何があんなに私の心をしめつけて、抜けないとげのようにちくちくと痛みを与えてきているのか。確かにそれは、今日萩本と会うまでなかった痛みだ。萩本が先輩と並んで、話しているのを見るまで、いちどたりとも経験していない痛みだ。それはまるで、心の臓をぎゅうと握りつぶされたかのように、具体的な痛みのような気さえしてくる。

 うだるような暑さがひとみの周りを埋めていた。

 最近のことを、──萩本と出会ってからのことを、ひとみは思い出していた。それで気が付くのは、今日のような痛みは前から少しだけあったということ。萩本がひとみのことを「ともだち」と表すたび、それは訪れた。むずがゆくて、どこか心地いい、いたみ。今日の痛いだけの鼓動とは異なるけれど、それに似た何か。ひとみは喉を鳴らしてサイダーを飲んだ。飲み慣れない炭酸が喉を焼いた。

 林の言葉が腑に落ちたひとみは、じっくりと目を閉じて考える。夏の間は、だれも美術室を使わない。そもそも空いていることを知っている人すら少ないのではなかろうか。萩本はなぜあの日、美術室に入ってきたのか───それすら分からない。あの日から、なんとなくつけていたラジオが、淡々と今日も猛暑だと伝えた。ひとみは、自分がキャンバスを広げやすいようにと雑に教室の後ろへと押しやった机の脚に、寄り掛かった。

 正午を知らせるチャイムが鳴る。耳障りなチャイムに一度思考を妨害されてしまったと、ひとみは息をついた。行儀悪く足を伸ばして、閉じたままの瞼を開こうとはしない。


(──……私が、絵以外のことを、こんなに考えたことはあったかな)


 平成最後の夏は、猛暑が続くとラジオが喚く。いつだって気だるげなMCも、暑さにやられて溶けてしまったかのような声をしていた。

 冷房と外の暑さが混ざり始めた。春のような秋のような気温に包まれて、ひとみはひとつ欠伸する。扉が開いた音がしたけれど、眠気の中で思考の海に潜ろうとしていたひとみは、面倒くささと眠気が勝って目を開けられなかった。もう、眠りかけていたのかもしれない。すぎむらさん、と声がした。

「……おい、大丈夫か?」

 足音がだんだんと近づいてきていた。心配そうな声色は、熱中症でも心配しているのだろうか。それでも、一度駆け足になった足音が止まったあと、小さくため息をつく気配。半分ほど中身の減ったペットボトルを掻き抱いて規則的な息をしているひとみは、眠っているようにしか見えない。少しだけ日に焼けてこそいるものの、白い肌を汗が零れ落ちていた。

「………なんだ、寝てるのか」

 ぼんやりとした意識の中で、ひとみはその声を聞いていた。

 律義に膝丈にされたスカートから脚が覗き、いつも結んでいる髪は降ろしたまま、無防備に眠るひとみに、萩本がそっと手を伸ばす。もう半分以上眠りに落ちていたひとみは、それに気が付く術はない。紺色の生地に黄色のアクセントが入ったリストバンドが、ひとみの頬の汗をそっと拭った。くすぐったくて、ひとみは少しだけ笑う。

 萩本が、優しく微笑んだ。

 瞬間、充電切れかオーバーヒートでも起こしたのか、ひとみのスマホの電源が、落ちた。急にぷつりと途絶えたラジオのせいで、中途半端に沈黙が訪れた。ほかの生徒が階段を駆け上がりじゃれ合う声が、足音が、それから冷房の音がすべて混ざり合う。ひとみと萩本の息遣いだけが真実だった。

 

 萩本が美術室に来たということが、ようやくひとみの脳に到達するころ。

 頬にやさしく手が添えられて、くちびるに熱が触れた。



(夏のせいだ。……こんなの、全部)

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