02 太陽色したきみ

 二学期がはじまったら、もらったスポーツドリンクのお礼をきちんとしなくちゃ。

 昨日の出来事は彼の気まぐれだろうと考えていたひとみは、そう思って今日も油絵に励んでいた。相変わらず点けっぱなしのラジオから、今日の最高気温は何度だと騒ぐ声が聞こえる。ひとみはただ、筆を動かしていた。やがて、ゆらめきながらも城の体を成してきた絵を見つめて、筆を止める。

 次は何色をのせようか。次はどんな風に筆を動かそうか。それを考えるだけで、ひとみの心は弾んだ。

 がらり、と扉が開いた。昨日のように声を掛けられるまで誰が来たことに気が付かない、なんてことはなく、ひとみはぱっと顔をあげる。「林先生、」と言ってから、その人影が美術の教師でないことに気が付く。

「よう」

 軽快に片手をあげたのは萩本だった。



「林ちゃんじゃなくてごめんな」

 若くて綺麗な美術教師の林は、生徒たちから林ちゃんの愛称で呼ばれている。なぜかスポーツドリンクを二本持った萩本は、今日は隣に座るわけじゃないようだった。昨日と同じようにひょいとキャンバスを覗き込まれて、我に返ったひとみはようやっと口を開く。

「………昨日はスポーツドリンクを、ありがとうございました」

「今日は水筒持ってんの?」

「持ってない、ですけど……」

 だと思った、と言って、パレットを置いたひとみにひょいと投げ渡されるのは、昨日と同じスポーツドリンクのペットボトル。驚いたひとみが萩本を仰ぎ見る。昨日とは違う色をしたタオルを首にかけた彼は、意地悪そうな表情をしていた。

「えっ……そんな、」

「受け取れません、はナシな。差し入れってことで受け取ってよ」

「差し入れなんて」

「めっちゃ綺麗な絵を描く杉村さんへの差し入れ。あ、できれば敬語もナシな! クラスメイトなんだし!」

 自分の絵を「綺麗な絵」と評され思わず固まってしまったひとみ。そもそも喋ることが苦手なのも相まって、か細い声でお礼を言うしかない。思わずスポーツドリンクを抱え込む形で俯いてしまったひとみに、萩本が心配そうにしゃがんで覗き込んだ。杉村さん、と声をかけられて、なんと返事をすればいいのかわからなかった。

 いつだって冷たい指先まで熱が走る。こんなの、

「大丈夫? ほんとに脱水起こしたりしてねぇよな?」

「あ、いえ……大丈夫、です。すみません」

「あー、いきなり来たの嫌だったか? ごめんな」

 絵描くの邪魔しちゃってるもんなぁ、と萩本の軽い声がラジオの音と混ざる。

 ひとみがなんと答えようか迷っているのが分かったのか、それとも彼自身が迷っていたのかはわからないが、萩本が黙り込んだ。ゆったりと透明な沈黙が流れる。ラジオの音とふたりの息遣いだけが夏の隙間を漂っていた。

「………俺、杉村さんの絵に惚れたからさ。ちょっと見に来たくなっただけだったんだよ。悪かったな」

 ひとみが息を呑んだ。そんなこと、言われたことない。

 なにも返事しないひとみに、悪い方向に考えたのか萩本が立ち上がる気配がした。ひとみは思わず顔をあげて、萩本の腕をつかんだ。黒に赤のラインの入ったデザインのリストバンドが指に触れる。いきなりのことに目を見開いた萩本より、つかんだひとみのほうが驚いた顔をしていた。ひとみの手から落ちたスポーツドリンクが、キャンバスの下を通り抜けて転がっていく。

「萩本くんが、わるいわけじゃないんです」

「杉村さ、」

「絵を、先生以外にほめられたことが、なくて。昨日も今日もほめられて、恥ずかしくなっちゃっただけで」

 口下手な自分はきらいだけれど、ここまで恨めしいと思ったことはない。困惑した萩本の顔から、ひとみは目を逸らした。いまさら、萩本の腕をつかんでしまったのが恥ずかしくて頬に熱が集まる。父親以外の男性に最後に触れたのはいつだったろうか。なんだったら、小学校の組体操かもしれないなどと脳が現実逃避をはじめる。

「そっか、なら良かった」

 そういってにかっと笑った萩本に、ひとみは安堵する。見上げる形で目が合って、萩本の顔が整っていることに気が付いた。一瞬見惚れかけたひとみは、ふたたび目を逸らして自分のキャンバスを見つめた。思わず掴んでしまった腕は、そっと離した。

「杉村さんは、ほんとに絵が好きなんだな」

「………まあ」

 しみじみとそうつぶやいた萩本に、一拍遅れて返事する。そういわれれば否定する謂れもない。幼いころから、ひとみは絵しか描いてこなかったのだ。ひとみの世界は絵を描くことでできている。ひとみの生きる意味は絵を描くことで、それ以外はいらないとすら思っている。普通科の高校に入学したのは、言葉にこそしないがせめて高校は、と思っている両親への親孝行だ。いちにちいちにち描くたび、完成に近づいていくのは幸せ以外の何物でもない。

 萩本が、喜色満面と言った声色で続けた。

「杉村さんのそんな顔見たことないしな。普段もそうやって笑ってりゃ可愛いのに」

「………かわ……っ、」

「あ、照れた? ほっぺた真っ赤だぞ」

「………っ、からかわないでくださいよ」

「からかってねぇよ」

 そう言って、萩本はからからと笑う。

 冷房はよく効いているはずなのに、体がかっと熱くなる。これも全て、夏と、萩本くんのせいだ。らしくもなく絵を描くこと以外にこんなに胸が高鳴るのも、すべて。

 そんなひとみの心中も知らず、萩本は続けた。

「なあ、絵描くのは昼前からやってんの?」

「一応、朝から……」

「昼飯は?」

「適当に、パンとかで」

「ここで食ってんの?」

「はい」

 そこで質問攻めは一瞬落ち着いた。首元を掻く仕草をした萩本が、頬の真ん中あたりまで来ている髪を耳にかけた。さらさらとした黒髪を、長くもなく短くもなく適当な感じにしているらしい彼はくせ毛なようで、あちこちの方向へ髪が跳ねている。少し迷った様子で、萩本は続けた。

 ラジオが洋楽に切り替わり、やわらかな女性の声とピアノの音がやけに大きく聞こえた。

「……昼飯、俺もここにきて食べていい? いつも部活終わってから昼食って帰るんだけどさ。杉村さんの絵見たいし、昼飯んときなら絵を描く邪魔にもなんないだろうし……なんないよな?」

 いつもは堂々としているくせに変なところで遠慮するんだから、とひとみは少しだけ思った。微かに口角をあげて、答える。

「………喋るのが、得意じゃないんですけど。それでよければ」

「まじ!? やった!」

 この二日で随分打ち解けたものだ。人見知りで口下手なひとみに、友達と呼べるようなひとはほとんどいない。それも彼のように、明るく優しい、人気者になれそうな性格をした人など。クラスにいるときはあまり周りを見ていなかったから、彼がどんな交友関係を持っているのかは分からない。しかしこの二日でも滲んでいる人柄の良さなら、たくさんの友達がいるだろうことは簡単に予想できた。

 それじゃあ、明日。そう言って萩本が歩き出す。

「明日はちゃんと、水筒持ってきます」

「ははっ、了解! またな、杉村さん」

萩本が出て行ったあと、ひとみは転げたスポーツドリンクを拾いに席を立った。

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