01 夏のはざま
熱中症で何人が救急搬送されました、と無感情に数値化された人々のニュースが、ラジオから流れていた。がらんどうの美術室に、ひとみのスマホから流れるラジオだけが響く。そこからあふれる声がいかに猛暑を訴えていようとも、贅沢にもエアコンの入ったこの部屋で、ひとみが猛暑を感じることなどない。そうしてひとみは、今日も黙々と作業に励んでいた。
キャンバスに描かれていく風景だけが、この夏のひとみのすべて。
「へえ。
その声に、驚いて振り向いた。スマホからは相変わらずラジオが流れており、ハイテンションとは言い難いMCの声が空間を占めていた───はずだった。
「
「ん、そうでーす。クラスメイトのはずなんだけど、忘れちゃった?」
「すいません、顔覚えが悪くて」
ひとみが苦笑いでそう答えれば、萩本も苦笑を零した。彼は確か、普段の教室でひとみの席の真反対に座っている男子だったか。高校に入学して以来ひとことも話していなかったはずだけれど、どうしてここにいるのだろう。どうして、わたしに話しかけたのだろう。タオルを首にかけて、スポーツドリンクを片手にひとみの絵を覗き込む彼に、怪訝そうな視線を向ける。ひとみは、一学期最後の体育の授業以来袖を通していない体育着を着ているあたり、運動部なのだろうか。
「すげぇな、これどこのお城? てか絵の具?」
言いながら、彼は美術室に無造作に置かれた椅子を引っ張ってきて、ひとみの隣に座った。汗が頬を滑り落ちていた。登下校を除いて外を歩くことのないひとみに比べ、随分健康的に日に焼けた肌が、随分対照的だった。ひとみはいったん作業の手をとめる。人に見られながら描くのは、得意じゃない。
「とくに、どこのお城ってわけじゃないですけど……油絵ですよ」
「へぇ、すごいな……ほんとにそこにお城があるみたいだ」
そういって、行儀悪くも足を椅子に上げ、自分の膝に頬杖をつく彼。まるでなにかを懐かしむように細められた双眸が、開け放たれたカーテンから差し込む太陽の光に照らされて輝いた。何の用事でここに来たのだろうか、と疑問が浮かんだ。
「……まだ、描きかけなので」
「これで?」
へぇ、と萩本から嘆息が漏れる。
まるで珍しい宝石を眺めるかのように、雨上がりの虹を眺めるかのように、萩本の口元が優しく笑う。彼が入ってきたときに開け放たれたままなのだろう、美術室の扉から入り込む風が、ひとまとめにされたひとみの髪を揺らした。そんなにまじまじと見つめられると、なんだか恥ずかしくなってくる。
「杉村さん、絵描くの上手かったんだな」
「………まだまだですよ」
俯いたひとみの背を、萩本がぽんと叩いた。いつの日も冷たいひとみの手とは違い、今日の気温と同じくらい熱を持った萩本の手に驚いて、ひとみがばっと振り向く。幼い悪戯っ子のような表情で萩本が言った。
「自信持てって。めっちゃ上手いよ、この絵」
俺が保証する、と萩本は続けた。久々に直球な褒め言葉を渡されて動揺する。思わず、あまのじゃくに卑屈な言葉を吐きそうになったひとみは、ぐっと口を噤んだ。彼がどれほどの気持ちでこの絵を褒めたのかは分からなかったけれど、久々なその感覚に、ゆびのさきまで支配される。先生以外のひとに自分の絵を見られたのは、褒められたのは、久しぶりだった。
「………そう、かな。ありがとう」
絞り出した小さな声は、ふたりきりの美術室にやわらかく響いた。返事がいちいち遅いひとみのことを、萩本はゆったりと待っていた。そのこたえに、満足そうに頷いてみせる萩本にひとみも微笑み返す。萩本が、少しだけ驚いたようにまなこを見開いたのは、すぐにキャンバスに向き直ったひとみには見えなかった。
「………続き、描かねぇの?」
「………ひとに見られながら描くのが、苦手なので」
「あ、まじか。邪魔してごめんな」
勇気を出したそのひとことに、萩本はあっさり立ち上がった。隣から人の気配が消える。緊張が少し緩んだひとみの不意を突くように、頬にひやりとした感覚がして、思わず小さく声をあげた。
「っなに……」
「アクエリ。まだ口開けてないし、やるよ」
「えっ」
「水筒とか見当たらねぇし、いくらクーラー効いてたってぶっ通しで絵描いてたら脱水起こすぞ」
ほら、と半ば押しつけるようにひとみの手にスポーツドリンクのペットボトルを握らせる萩本。そうしてにっこりと笑ってから、出口に向かって歩きはじめた。足音がラジオにまぎれて消えていく。
「……あ、ありがとう!」
「油絵、頑張れよ! 次話すときは敬語ナシな!」
扉の前で少しだけ振り向いてそう言った萩本は、ひらりと手を振って扉の向こうに消えていく。扉はきっちりと後ろ手で閉め切られ、美術室が再びひとみの世界で埋められていく。
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