第19話 ワンコ弟子による静かな観察
暗い水車小屋の中に突如、澄んだ青年の声が響いた。
「迎えに来るのが遅くなって済まなかった」
その声にその場にいる全員が身構える。水車小屋の入り口にはフードを被った青年がいた。
「何者だ?」
クリスの問いに青年がフードを取った。逆光と顔を隠すように伸ばされた前髪で顔はよく見えなかったが、栗色の髪と碧い瞳が輝いている。
警戒するクリスたちの間を女性が駆け抜けて青年の足元に縋りついた。
「よくご無事で……」
青年が女性に手を伸ばす。
「辛い思いをさせたな」
「いえ……」
その後の言葉はすすり泣く声になり聞き取れなかった。
「共に来てくれるか?」
青年の問いかけに女性が満面の笑みで顔を上げる。
「はい!」
二人のやり取りを見て、クリスはカリストに視線を向けた。それだけでカリストがクリスに紙袋を手渡す。
クリスは女性と視線を合わすように屈むと紙袋を差し出した。
「薬だ。朝、昼、夕の一日三回飲め。傷は一日一回、一度沸騰させてから冷ました水で流して、洗濯した綺麗な布で軽く拭いて覆え。今は傷のまわりが赤くなり痛みがあるが、それがなくなったら私の屋敷に来い。傷を治す」
女性が嬉しそうに紙袋を受け取る。その顔はクリスが顔の傷を治した時より輝いていた。
「ありがとうございます」
「……必ず傷を治しに来い」
そう言うとクリスは水車小屋から出て行った。後を追いかけてきたルドが声をかける。
「よかったのですか?」
無言で歩くクリスにルドが言葉を続ける。
「迎えに来たのも同郷のようでした。所有者のいない奴隷はこの国では生活することさえ難しいです。このままにしておくのは……」
「それを決めるのは私ではない」
クリスが振り返ってルドを見上げた。
「治療魔法を教える途中だったな。治療院研究所に帰るぞ」
「あ、はい」
ルドはクリスに従って左腕がない御者が待つ馬車に乗り込んだ。
治療院研究所に到着するまで、クリスはずっと窓の外を眺めていた。
その横顔にいつもの強気はなく、どこか憂いをおびているようで、ルドはなんとなく目が離せなかった。
長い前髪で隠れた深緑の瞳はここにありながらも、いつもどこか違うところを見つめている。鼻筋はまっすぐ通っており、小さな唇は花びらのようだ。小柄な体にかかる長い茶色の髪は絹のような光沢があり、常に輝いている。
体は小柄なのに、誰にも屈しない強い意志と魔力を持っている。それなのに、どこか儚く、ちょっとしたことで崩れてしまうような脆さを感じてしまう。
目の前にいるのに、手を伸ばせば届くところにいるのに、何故か遠い。このまま消えてしまうのではないかという不安がルドを襲う。
そんなルドの考えなど知るよしもない馬車は順調に走り続け、治療院研究所の前に到着した。
「降りるぞ」
クリスが腰を上げたところで、ルドが意を決したように言った。
「師匠、今日は帰りましょう」
「は?」
「治療魔法を教えていただくのは明日からでいいです。それより師匠は休んだほうがいいです」
「別にあれぐらいの治療では疲れていないぞ。魔力もそんなに消費していない」
「いえ、休んで下さい」
「何故だ?」
怪訝な顔をするクリスにルドがはっきりと言った。
「よくわからないですが、休んだほうがいいと思ったからです」
以上!と、言わんばかりにルドが口を閉じる。そして無駄なことを言わない代わりに、琥珀の瞳が休めと強く訴える。
クリスはルドのよく分からない気迫に負けて軽く息を吐いた。
「わかった。今日はここまでだ。明日、治療魔法を教える」
「では、自分はここで失礼します」
満足したルドが馬車から降りる。
「じゃあ、また明日だな」
「はい。また明日、お願いします」
頭を下げたルドに見送られて馬車が走り出す。
治療院研究所が見えなくなったところで左腕がない御者がクリスに声をかけてきた。
「クリス様が他人の言うことを聞くって珍しいっすね」
その言葉にクリスも腑に落ちないものを感じた。いつもならルドを蹴飛ばして治療魔法を教えるところだが、何故かその気にならなかったのだ。
「自分で思っているより弱っているのかもしれないな」
「なんっすか?」
クリスは自分で呟いた言葉をかき消すように頭を左右に振った。
「いや、なんでもない。屋敷についたら起こせ」
「はい」
クリスは馬車の椅子の下からクッションを取り出して壁に押し付けると、そのままよりかかって眠りについた。
翌日。
ルドはいつも通り治療院研究所に到着して、いつも通り白いドアをノックした。
そこで、いつもならクリスが出てくるのだが反応はない。部屋の中にも人の気配はない。
「まだ来てないのか」
ルドはドアの横の壁に背をつけると、そのままクリスの到着を待つことにした。廊下を通る人もいないため、不気味な静寂が流れる。
しばらく待っているとテオが歩いてきた。ルドが慌てて背中を壁からはがして姿勢を正す。
「おはよう。治療魔法のほうはどうだ?」
「少しずつ教えて頂いてます」
「そうか。まだクリスは来てないのかい?」
「そのようです」
「珍しいな。ちょっとクリスのスケジュール確認をしようか。もしかしたら緊急の治療依頼が入ったのかもしれない」
「緊急の治療依頼が入った場合はどうすれば分かるのですか?」
「治療の依頼は必ず事務室を通すことになっている。事務室で治療師のスケジュールを調整するから、どこにいるかは事務室で聞いたらだいたい分かる」
「そうなんですね」
テオは感心しているルドを連れて事務室に行った。
カウンターの中ではグレーの髪を揺らしながら書類の片付けをしているニコがいた。
「おはよう、ニコ。今日のクリスのスケジュールはどうなっている?」
テオの質問にニコが手を止めて顔を上げる。
「おはようございます。クリス様は、今日は休むという連絡が先ほど入りました。なにか御用がありますか?」
「いや、特にはないが……クリスが休むなんて珍しいな。体調でも悪いのか?」
「休む理由は言われませんでした。あ、あとルド様に手紙が届いております」
ニコが白い封筒をルドの前に出した。
「ありがとうございます」
ルドが手紙を受け取る。そのまま全体を見たが、宛先どころか差出人の名前もない。だが、封筒を閉じている封蝋(ふうろう)に押された印璽(いんじ)を見てルドが微かに眉をひそめた。
「じゃあルドも今日は休みだな。慣れないことばかりで疲れているんじゃないかい?どうせなら、しっかり休んだらいい」
「わかりました。失礼します」
ルドは早足で治療院研究所を出た。少し歩いて周囲に誰もいないことを確認すると、手紙を開けたが、中には何も入っていなかった。
「やはり……」
想定内だったルドは街の中心部を睨んだ。周囲には溢れた魔力によって風が巻き上がる。
ルドは両足に力を入れて唱えた。
『風の精よ、我が足に空を駆ける力を』
残像と風を残してルドの姿が消えた。
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