第16話 子爵による傲慢な治療依頼

 控えめなノックの音にクリスが返事をした。


「どうした?」


 ドアの向こうから声変わり前の少年の声が響く。


「オンディビエラ子爵より緊急で治療の依頼がきました」


 クリスがドアを開けるとニコが申し訳なさそうな表情で立っていた。クリスが首を傾げながら訊ねる。


「私はそのオクトパス子爵を治療したことがあったか?」


「オンディビエラ子爵です。クリス様が治療したという記録は残っていません」


 クリスはニコの訂正をさらりと流した。


「では面識はないな。どのような状態だ?」


「それが、クリス様を指名してとにかく早く来て治療してくれ、の一点張りでして……」


「どういう状態かわからなければ治療に必要なものの準備もできないのにな……仕方ない。私の屋敷に連絡してカリストに標準治療の道具一式を持って、オニオン子爵の所へ来るように伝えてくれ。私はこのままオーガス子爵のところへ行くとしよう。馬車の準備を頼む」


「オンディビエラ子爵です。伝達と準備をしてきます」


 律儀に最後まで訂正したニコは駆け足で事務室へ戻っていった。


「師匠、名前を覚える気がないのですか?」


「名前が長いのが悪い」


 平然と言い切ったクリスに対し、ルドが真剣に忠告する。


「覚えられないのであれば本人の前では呼ばないほうがいいですよ。姓は位を表しますから、有力者になればなるほど自身の姓に誇りを持っています。その姓を間違えられる、忘れられる、ということは侮辱されたことと同じですから。場合によっては面倒なことになります」


「わかった。ではオーク子爵のところに行くか」


 自分の説明を聞いていたのか疑いたくなったルドはつい本音を口に出していた。


「……わざと間違えていません?」


「そんなことはないぞ。オは合っているだろ?」


「オ、しか合っていませんけどね」


「それだけ合っていれば十分だ。行くぞ」


 ルドは治療魔法の魔法式が書いてある紙を一瞬で燃やすと、ため息を吐きながらクリスの後を追いかけた。





 街の中でも城に近く、綺麗に敷き詰められた石畳の上を馬車が走っていく。周囲には競うように飾られた貴族の屋敷の庭が並んでいる。屋敷はその奥にあるため全容は見えない。


 馬車が高くそびえる門の前で一度停車した。門番が出てきたので御者が治療院研究所から来たことを伝えると、すんなりと馬車ごと通された。


 そのまま庭を走り馬車が屋敷の前で止まる。

 クリスが馬車から降りると屋敷の前に立っていた白髪交じりの執事が頭を下げた。


「クリス様ですね?お待ちしておりました」


 慇懃に礼をした執事にクリスが訊ねる。


「治療を希望しているのは誰だ?どういう状態だ?」


 執事が無言でクリスの後ろにいるルドに視線を向ける。その視線の意味を悟ったクリスが説明をした。


「こいつは見習い治療師で、今は私から治療魔法を学んでいる。場合によっては私の助手になる」


 助手という言葉にルドは心の中で舞い上がった。背中に羽根が生え、天から降り注いできた光のカーテンを昇っていく。


 クリスに助手と認められただけなのだが、ルドの魂は昇天しかけていた。

 が、ルドの思考がふと現実に戻る。ここ数日、クリスに付いているが、実際に助手らしいことをした記憶はない。だが、クリスは場合によっては助手になると断言した。


 では、どのような場合だと助手になるのか。


 ルドが最近のことを思い返していると、脳裏に街の治療院で腰痛の治療をした時のことが浮かんだ。あのときは止めるのも聞かずに魔力を吸い取られ、治療の手伝いをさせられた。

 あの時は上手くいったが、次も上手くいくという保証はどこにもない。しかし、それを助手の仕事だというのであれば……


 天にも昇るほど浮かれまくっていたルドの心は、地に沈むのではなく荒れ狂う海に蹴落とされた。そのまま溺れながら太陽の光が届かない深海へと沈んでいく。


 ルドの心が遭難しかけていたが、本人が無表情を維持していたため、誰も気付くことなく話が進んでいく。


「そうでしたか。治療を希望されているのはイレナお嬢様です。こちらへどうぞ」


 屋敷に入るとずらりと並んだ使用人が一斉に頭を下げた。全員の首に質素な銀色の首輪が光っている。


 廊下には華美に飾られた装飾品が並び、財力を見せびらかしている。だがクリスとルドは観賞することも興味を示すこともなく淡々と歩き、そのまま応接間に入った。


 部屋に誰もいないことにクリスの声が一段低くなる。


「治療希望者はどこだ?緊急だというから来たのに、誰もいないとはどういうことだ?」


「すぐに参りますので、お待ち下さい」


 執事が部屋から立ち去る。腕を胸の前で組んで仁王立ちをしているクリスにルドが勇気を出して声をかけた。


「師匠、先ほどの助手って……」


「ん?必要があれば魔力を借りるぞ」


 予想通りの答えにルドが首を横に振る。


「やめて下さい。あれは危険だと……」


「この前は初めてだったから倒れたが、コツは掴んだ。次はもっと上手くやる。それに」


 クリスが言葉を切って長い前髪の下からルドを見上げる。


「おかげで治療の幅が広がった」


 不機嫌だった声は少し高くなり、目元はどこか嬉しそうに緩んでいる。微笑んでいるようにも見えるクリスの表情に、ルドは息を飲んだ。


 いつも隙がなく、どこかキツイ表情をしているのに、上目遣いで、この表情は反則だ。

 普段との差が激しいためか、可愛らしく見えてしまい、何も言えなくなる。けど、言わないといけない。


 ルドは葛藤しながらも、どうにか口を動かした。


「いや、あの……でも、」


 ルドが必死に言葉を探しているとドアが開いた。


「ようこそクリス様。こんなに早く来ていただけるとは……」


「治療を希望しているのは貴殿か?」


 執事から治療希望者はお嬢様と聞いていたが、目の前に現れたのは恰幅がいい中年男性だった。

 栄養状態が相当良いらしく、腹だけでなく四肢にもしっかりと脂肪がついている。その後ろに控えているメイドが棒のように見えるほどだ。


 明らかに不機嫌な顔となったクリスに対して中年男性は気にすることなく話続ける。


「治療師の最高位をお持ちのクリス様に我が家に来て頂けるなんて喜ばしいかぎりです。それも我が家名と……」


「帰る」


 クリスがまっすぐドアに向かって歩きだす。突然の行動にルドと中年男性が慌てた。


「し、師匠!?」


「いきなりどうされましたか!?出迎えた時になにか失礼なことがありましたか?出迎えをしたヤツは誰だ!」


 中年男性の怒鳴り声にメイドの体が小さくなる。メイドが答えるより先にクリスが言った。


「失礼なのは貴様だ。いきなり呼び出しておいて人の話は聞かない、問いには答えない。こんな無礼な扱いを受けるために来たのではない。ルド、帰るぞ」


「な!?そんな勝手が許されると思っているのか!いくら治療院に寄付していると……」


「名が知られていない貴様の寄付など、たかが知れている。まさか寄付しているという理由で、あんな横柄な態度をとっていたのか?ならば、とんだお門違いだな」


 呆れたように言うクリスとは反対に中年男性の顔がどんどん赤くなっていく。そこにノック音が響いた。


「失礼します。クリス様の執事が到着しました」


 ドアが開きカバンを持った青年が入ってきた。

 この国では珍しい艶やかな黒髪に漆黒の瞳。優雅に微笑んだ顔は中性的で惹きつけられる。中年男性が今までの怒りを忘れて思わず見惚れるほどだ。


 惚けている中年男性を置いて、クリスが自分の執事に声をかけた。


「カリスト、帰るぞ」


「はい」


 優秀な執事は理由も聞かずに主の言葉に頭を下げて道を開けた。そこで中年男性が我に返る。


「ま、待て!その執事は?」


「私の執事だが、それがどうした?」


 クリスの言葉を半分聞きながら中年男性はカリストを頭から足先までじっとりと見つめた。茶色の瞳は珍しい玩具を見つけた子どものように輝いている。


 中年男性は興奮を抑えながらクリスに訊ねた。


「いくらだ?」


「は?」


「その執事だ。いくらでも払う。いくらで売る?」


 カリストを買う気満々になっている中年男性にクリスの深緑の瞳から色が消える。その冷気にルドの背中に寒気が走った。


 冷めた顔になったクリスが淡々と答える。


「金などいらない。いくらでもあるからな」


「では物でどうだ?欲しいものがあれば、なんでもやるぞ」


 必死に食い下がる中年男性にクリスが目を細めて考える素振りをする。


「そうだな、どうしても欲しいというのであれば……」


 クリスは口角だけを上げて感情のない声で言った。


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