第35話 めまい


 魁斗にうながされ、バケツや噴霧器を持って物置へと行く。

 物置の窓ガラスに映った俺の顔は、傷とアザだらけでボロボロだった。そうでなくても痩せてガイコツみたいなのに。


 結局、この男は何もできなかったんだ。

 当然だ。こんな覇気のないガイコツに、何かを守れるはずもない。なんて惨めな奴だ。


『戸津床公太郎』


 その時、また耳の奥で声がした。以前、俺を咎めた自責の念だ。

 そいつは今回、俺の名前を呼んだ。馬鹿にしたような、責めるような、そんな口調だった。


『戸津床公太郎』


 それから用具の整理に取りかかったのだが、何をしていてもずっと名前を呼ばれてるような気がする。

 ここにいる、しょぼくれたガイコツの名前を。何かをほのめかすように。


『戸津床公太郎』


 名前を復唱されると、なんだか無性に惨めったらしい気分になってくる。

 ガラスに映った戸津床公太郎は、こんなに弱く情けない奴だ、って無理やり認識させられてるような感覚がある。

 その声がするたび、ジワジワ心が痛む。魂が抜け出してしまいそうになる。


『戸津床公太郎』


 ところで、何なんだ?この声?

 今、ここにいるのは俺一人。他には誰もいない。

 ここで場所で「惨めな自分を直視しろ」とほのめかすのは、窓ガラスの中の俺しかいない。

 この野郎、なんのつもりだ?


『戸津床公太郎』


 何だよお前、いい加減にしろよ。さっきから人のことバカにして!


 バリン!


 耳の奥の声に耐えかねて、思わずガラスを殴ってしまった。薄暗い物置に現実の音が響く。

 窓ガラスには思いきりヒビが入り、そこに映っていた惨めな男が消えた。俺を馬鹿にしてた奴が。

 カシャンカシャンと音をたて、割れたガラスが地面に落ちた。

 その中で一番大きなガラス片を手に取ってみる。


「……あっ、そうだ。ヤバっ」


 とんでもないことをしたような気がして、周りを見渡した。近くには誰もいない。さいわい窓が割れたことに誰も気付かなかったようだ。

 見られてたらまずいところだった。気付かれなかったからいいものの、うかつだった。


「よしよし、これで大丈夫……だな」


 散らばった細かなガラス片を、物置の棚の陰に寄せて、上手く隠した。

 割れた窓は、敷地の裏のほうの窓だし、誰にも気付かれないだろう。そして備品をずらして置いてしまえば隠せる。バレたら台風か野生動物のせいで割れたことにすればいい。うん、問題ない。


 じゃあこれをどこに隠そうか……と、一番ガラス片を持って気づいた。どういう具合か、もうさっきの変な声が止まっている。

 これは俺がガラスを割ったから?となると、なんかあの声に勝ったような気がして若干うれしい。たまには思い切ったことをするもんだ。


 もしくは、割れたガラスを持ってるからかもしれない。

 そう思った俺は、ガラス片をズボンの下に潜ませた。

 そう、御守りがわりに持っておくことにする。俺を責める声が、もうしないように。


 いちおう作業終わりに入所者のチェックがあるが、今日の管理は酒田先生だからチェックが緩い。なので見つかることもないだろう。

 そう、このガラス片があれば、俺は大丈夫なんだ。もう責められることはないんだ。

 

 そして作業終わり、酒田先生のチェックをくぐり抜け、ガラス片を部屋に持ち帰った俺は、バレないようにそれを布団の中にしまった。

 でも、このままじゃ手を切ったり、刺さったりして危ないので、雑巾を一つ拝借し、ガラスに巻きつけて握りを付けた。

 海外の刑務所のドキュメンタリーでよくある、抗争の時に使うようなあれを参考にした。

 そうして出来あがったもののクオリティが予想外に良く、俺は確かな満足感を得た。


 素晴らしい……これがあればもう怖くない。

 妙な声に悩まされることも、ビビることも無くなる。

 そうだ。これを使えばいいんだ。

 俺はこれを使って、悩みのタネを消していくんだ。


「全員集合!夕食の時間だ!!」


 夕食の時間になったので、ズボンの下にガラス片を忍ばせる。誰にもバレないように。

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