10.明日には昨日の今日の僕
六月十五日、金曜日、朝。
今日は金曜日。全国の学生の疲れは僕のように溜まってきているところだろう。
朝早くからうるさく鳴り響く目覚まし時計を止めて、布団から這い出す。
「いつまで寝てるの! 遅刻するわよー! もう、真くんも彩花ちゃんも来てるわよ!」
「今行くから……そんなに叫ばなくても聞こえるよ」
目覚まし時計よりも音量を間違えている母の声を聞き流しながら制服に着替える。
どうしてだろう、いつも通りのはずなのに随分と長い間眠っていたような気がする。
「っと、今日は体育があるんだっけか」
学校の準備を済ませる。
何かが引っかかっているのに、吐きそうな程叫びたい思いがあるはずなのに、その言葉は出てこない。
「じゃ、行ってきます」
「いってらっしゃい」
玄関を開けてすぐのところに幼馴染の二人が立っていた。
「おはよう」
「おはよ! どうしたの、ぼーっとしちゃってさ」
「おはよう、今日はいつにも増してぼけっとしてるな」
「寝起きなだけだから大丈夫だよ」
今年はクラスが二人と離れたせいか、彩花も真も会う度にこうして色々気にかけてくれている、ような気がする。そんなに僕には友達がいないように見えるのだろうか。
……こう見えても、友達ぐらいちゃんといる。
いつも通りくだらない会話をしながら学校に到着する。
教室、窓側、一番後ろ。まるで漫画みたいなその席が僕の席だ。
「おはよう滝さん」
「おはよう、今日もいい天気ね」
隣の席の彼女、滝夏穂は読んでいる本から目を離し、柔らかな笑顔で言った。
長い黒髪を時折耳にかけ直しながら本を読む滝さんは今日はどこか嬉しそうに見える。
「……バッドエンドは、あまり好きではないのだけれど、どうやらこの本はハッピーエンドのようね」
「それは何よりだ」
「ええ、本当によかったわ」
滝さんが微笑みながら、慈しむようにぱたりと本を閉じる。丁度読み終わったようで、本のしおりは一番後ろに挟まれていた。
そのまま特に何かある訳でもなく現代文の授業が始まる。
教科書を開く。一行目を読んだところでもうこの話の二行目、三行目が思い出せた。
そこまで、読んだことがあっただろうか。
また一つの引っかかりを抱えながら授業は過ぎていった。
梅雨の季節を無視した太陽が僕たちを照らす。暑いけれど、どこか心地よく、爽やかな空だ。
「暑いけど気持ちいい天気だね」
「だよなぁ! やっぱり晴れはいいよな!」
一緒にパス練習をしている真が空模様に負けず劣らず爽やかにそう返してくれる。
そんな会話に気を取られていたからだろうか、真からパスされたボールは足をすり抜けてしまう。
そのボールを取ろうとした時だった。
「危ないっ!」
「ん?」
突然真から声をかけられて、振り返る。
その目の前には、誰かが勢いよく蹴りすぎたのか、それなりのスピードがあるサッカーボールが迫ってきていた。
僕に、それを避けるだけの反射神経も運動神経もない。
ばしん、という見事な音がグラウンドに響き渡る。
——それと同時に、膨大な量の記憶が頭に流れ込んでくる。
この、六月十五日の記憶が、大量に。
僕の意識はそのまま記憶の海に飲み込まれていった。
まただ。また僕は大切な記憶を忘れていた。
彩花の死も。何度も何度も六月十五日を繰り返していたことも。滝さんが僕を救ってくれて、僕を好きだと言ってくれたことも。
僕が、本堂彩花を好きだとやっと気づいたことも。そう答えを出したことを。
忘れようがないはずなのに、どうしていつも忘れてしまうのだろう。
目を開けば、どうやら保健室に運ばれたようで、薬品の棚と白いカーテンが目に入る。
「あ! 起きた! まーくんもう大丈夫なの?」
「彩花……」
「ほんっとに心配したんだからね? 全く、ボールに当たるなんてドジなんだからさぁ」
「彩花」
彩花の手を握る。
「彩花、好きだ」
「……もう、頭打っておかしくなったんじゃない?」
「違うよ、運動神経がよくて、昔から僕をずっと助けてくれて、お人好しで……そんな彩花を、僕は好きだ」
「ほん、とに?」
「この命に懸けて、本当に」
少しの間、沈黙が保健室を支配する。
そして。
「……私も……私も、まーくんが好き」
それから僕たちは、明日二人きりで遊びに行く約束をした。
——六月十六日の空は、美しかった。
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