第10話 小典、夢を流す
卯之介の上半身は、朱に染まっていた。
浅い傷が無数についている。目の前に居る男――丹三も同じく己の血で染まっていた。どちらも浅手である。両者ともに致命傷は与えられていない。
「なぁ。どうだい、射車羅の卯之介とやら」
荒い息の下から話しかけたのは丹三のほうであった。
卯之介は目線だけで問いかける。
「あんたの力と俺の技量はほとんど同じだ。これでは、いつまでたってもらちがあかねぇ」
確かにすでに何合も打ち合ってはいるが、すんでの所でお互い致命傷は与えられてない。技量は伯仲している。
卯之介が話を聞いていることを確認すると丹三は続けた。
「ここは、お互い手打ちをしようじゃねぇか」
「手打ち?」
「ああ、そうさ。手打ちさ」
話している間も両者ともに警戒は解いていない。
「30両」
「何?」
「30両でどうだい?」
「どうとはなんでぇ?」
「とぼけるな。この勝負の預かり料よ」
「預かり料?」
「おおよ。あんたたちは、30両を受け取って俺を見逃すのさ」
「……」
「悪い話じゃないはずだ」
確かに30両あれば、卯之介のようなつましい生活ならば5年以上は安泰だ。
「へっ!見くびってもらっちゃぁ困るぜ」
卯之介は笑った。
「たかだか30両で裏切る射車羅の卯之介じゃぁねぇ」
「ならば40両でどうだ?」
「くどいぜ!夜霧の丹三よ」
「けっ!頭の固い奴だ」
丹三は、呆れながらもまんざらでもない声を出した。
「なれば、どちらか死すまでか」
「おうよ」
サラリと怖いことを話す丹三に卯之介も応じた。
卯之介と丹三の視線が噛み合う。お互いニヤリと笑った。間合いにぴりりとした緊迫感が増していく。間合いを両者がゆっくりと詰める。
最高潮に緊迫度が増し、両者相見えると思ったその時、
「来る」
それまでまんじりとも動かず、物も言わなかった捨松が喋った。
捨松の言葉に両者は反応した。
大きく後方に飛んで間合いをとる。
「捨、何が来るんだ?」
構えを崩さずに卯之介は聞いた。これまでのところ捨松の言葉は全て当たっている。
丹三も訝しげに二人を見ている。
「……」
二人が捨松を凝視する中、捨松は無言のまま眉間にしわを浮かべた。
「鞍家さま?」
困惑したように捨松が言った言葉に
「旦那が!?」
二人のやりとりに丹三の声が混じる。
「おい!一体何が来るんだ?」
二人のやりとりにただならぬモノを感じたのだろう。丹三も身構えている。
三人の周りは相変わらず、濃い乳白色の霧が取り囲んでいた。
音は全くない。三人の息づかいだけが微かに聞こえるだけだ。二人とも捨松の次の言葉を待ちつつも当たりの気配を探っていた。
「捨、何も気配を感じないが」
「おい!何も来ねぇじゃ……」
卯之介の言葉のあとに丹三が声を荒げた。だが、言葉は最後まで続かなかった。
それは突如、沸いたように現れたのだ。
初めは濃密な気配だけであった。それが突如、人のそれに変わった。しかし何かが違っている。上手くは言えないが、人の気配とは微妙に何かが異なっているのである。
三人とも動くことができなかった。呆然とその場に立っていることしかできなかった。そこへ、乳白色を透かすようにひとりの人物が現れた。
「旦那!」
思わず卯之介が叫んだ。
鞍家小典であった。
小典は、ちょうど卯之介と丹三の間に煙のように現れたのである。
黒い紋付きの羽織に二本差しの姿。いつもの小典の格好だ。だが、一つだけいつもと異なっているところがあった。
「……旦那、目をどうかされたのですかい?」
卯之介が慎重に聞いた。
そう。現れた小典は、両目を堅くつぶっていたのだ。目をつぶったまま立っている。
「旦那?」
卯之介がもう一度問いかける。
「旦那だと?役人かい?」
丹三が問う。
「ははぁ。こやつがあんたの飼い主だな。なれば、この素っ首を獲ればいいんだな」
丹三は言うが早いか動いていた。懐から目にもとまらぬ早さで白い粉を蒔く。と同時にその目潰しを避けるように低い体勢のまま走り寄る。
目潰しを蒔くと同時に下から掬うように斬りつける丹三必殺の技だ。
「旦那!」
「鞍家さま!」
卯之介と捨松が同時に叫んだ。
小典は、目をつぶって突っ立ったままだ。見向きもしない。
卯之介も完全に虚を突かれた。小典を助けるべく飛礫を投擲する拍子を逸してしまった。
丹三が疾風のように襲う。
小典はなおも動かない。
丹三の刃と目潰しに倒される小典を卯之介も捨松も想像した。
その時、小典が動いたのである。
瞳がカッと開いたのだ。それだけだ。しかも丹三のいる側の片目だけ。
「なっ!?」
声を出したのは、丹三だったか卯之介だったか。
大きく見開いた小典の瞳から七色の煙のようなものが流れて広がったのである。それは、瞬く間に丹三の全身を包み込んだ。まるで水飴のように粘ついて丹三から離れない。
驚いた丹三が、数瞬の間もがいていたがすぐに大人しくなった。まるで夢を見ているように呆けた表情に変わった。
「これは一体……」
思わず口に出した卯之介にむかって小典が口を開いた。
「ご心配には及びません。彼は夢を見ているだけです。自分の一番望む夢を」
小典の声だ。だが、卯之介は睨みつけた。
「あんた、誰だ?」
姿形は、紛れもなく小典である。だが、中身は全くの別人であると卯之介は見抜いた。
「ほう。わかりましたか」
小典の姿形の者が言う。
「旦那はどこへ行った?」
卯之介の身体から殺気がほとばしる。
「おっと。お待ちを」
小典は手をかざした。
「鞍家さまは、安全な場所でくつろいでおります。このことが終わり次第無事戻られますよ」
「……あんた、どこかで会ったことがあるな」
卯之介はその口調に覚えがあった。だが思い出せなかった。
「そのうちわかります。おっと、そろそろのようです」
小典が、丹三の方を向いて言った。
丹三は相変わらず全身を七色の不気味な粘性のあるモノに覆われている。その中で、丹三の表情がコロコロと変わる。泣き顔を見せたかと思えば、笑顔を見せる。そうかと思えば、憤怒の表情を見せる。酔ったような表情も、恐れおののく表情も一瞬ごとに変わっていく。その様は、不気味を通り越して滑稽ですらあった。
すると、丹三が何かを警戒するようにキョロキョロと辺りを見回しはじめた。険しい表情のまま、その場で歩く動作をする。戸を開け、閉める仕草をすると、人と話しているような表情をする。数回頷くと、何かを受け取る仕草を見せ、何もない手の中を見て大きく頷いた。そして、丹三は、己の懐からふくさを取り出した。それは片手にかろうじて乗る球状の形をしていた。ふくさをはらりと払いのける。そこには、巨大な虹色に輝く真珠が乗っていた。丹三はそれを何もない空間にむかって差し出した。
「さぁ。これで終わります」
小典の姿形の者が言った。
丹三が差し出した巨大な真珠が光り輝き、その光輝が当たりを照らし出した。
「皆さまも行きましょう」
そう言うとつぶっていた片方の目を開いた。そこから七色の霧があふれ出る。避ける暇もなく卯之介と捨松の全身を包み込む。丹三の状態と同じだ。
光輝がさらに光る。視界を覆うほどだ。
「恐れることはありません。鞍家様の元へ行きましょう」
卯之介と捨松の頭の中に言葉が響いた。
白光が全てを包み込んだ。
「卯之介!捨松!」
小典は、突如現れた卯之介と捨松の身体を揺さぶって声をかけた。
部屋の中でくつろいでいたところ、突然、煙のように二人が現れたのだ。
何度か声をかけると二人とも目を覚ました。
「だ、旦那?」
「鞍家さま」
驚く二人に小典の方が驚いた。
「ど、どうしたのだ?ふたりして。驚くのはこちらだぞ。突然、現れて」
小典の言葉に、卯之介と捨松は当たりを素早く見渡す。
「ここは?」
卯之介が聞いた。
「ああ。柱右衛門の紹介でな、教えてもらった店だ」
「柱右衛門殿の?」
卯之介は訝しむ。
「おぬしたちも教えてもらったのだろう?」
小典の言葉に卯之介と捨松は困惑の表情を浮かべる。
「いや、旦那。あっしたちは、夜霧の丹三と……」
卯之介がそこまで言うと、
「お三方、揃いましたね」
横合いから声が聞こえた。柱右衛門であった。
「さぁ。お二人とも先ずはおくつろぎください」
卯之介と捨松の前にいつの間にか、色とりどりの料理が並べられた箱膳が置かれていた。
「いや、あっしたちは、夜霧の……捨松、何て名だったか?」
「……確か、丹……思い出せません」
二人とも困惑している。
「さあさあ。料理が冷めてしまいます。この柱右衛門がお薦めする
「卯之介、捨松せっかくだ。頂こう」
小典の言葉に、卯之介と捨松は頷いた。
それからは、大いに飲み食いし、楽しいひとときであった。
「お三方には大変お世話になりました。そして、この村の方々にも迷惑をかけてしまいました。くだんの賊に獲られた真珠は、私めの宝でございました。なんとか取り戻したいと、皆さまにご協力して頂きました。必ずやこのお礼はさせて頂きますよ」
柱右衛門の言葉が響く。
「そうか。取り戻せたのならそれは良かった。礼には及ばん」
小典は答えた。
「皆さまには、信頼の証に私めの本当の名を……」
「本当の名?」
「はい。私めは……」
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