第8話 夜霧の丹三、霧の中へ 小典、夢を見る

「捨、〝夜霧の丹三〟に間違いねぇな」

 卯之介がかたわらで片膝を立てて座している男に向かってささやいた。

 場所は、長浜村にある例の盗っ人宿近くの雑木林である。木の陰に片膝を立てて座っているのは、両目をつぶっている若い男であった。按摩の捨松である。捨松は、両目が見えない。しかし、その分、その他の感覚が異常なほどに発達しているという。以前、暗殺者が投擲した手裏剣を見事打ち落としたのを卯之介も見ている。その他にも捨松の驚くべき感覚をこれまでも見聞きしてきた。むしろ、目の見える凡人よりも、卯之介は捨松を信頼している。

 一緒に居た捨松が夜霧の丹三を見つけたのは、江戸市中であった。

 卯之介は、すぐにそこらに遊んでいた子らに小遣いを持たせて、奉行所まで文を届けさせた。もちろん、小典に知らせるためであった。万が一、留守でも遅れて知ることになるし、記録にもなる。

 卯之介と捨松で尾行を続けて、結局、長浜村近くまできてしまった。小典からの連絡はなかった。

「ええ。ですが……」

 卯之介の問いかけに捨松は口を濁した。

「ですが、何でぇ?」

 捨松は、すぐには応えなかった。木の陰に座したままジッと何かを感じているように卯之介には思えた。それが、気配なのかその他の何かなのかは卯之介には分かりようもなかった。

「わかりません。なぜか、また夜霧の丹三の他に気配があるのです」

「他に気配!?」

 卯之介は、素早く周りを見渡した。

 同じ盗人仲間や用心棒などがいるのなら、最悪、逃げることも考えなくてはならない。あくまで、捕縛するのは奉行所の役目だ。

 辺りはすでに日が落ち、光の残滓のみが微かに残っている程度だ。それも刻々と闇に飲まれていっている。

「夜霧の丹三から離れた場所かい?」

 卯之介の感覚では、丹三以外の気配や人影は、見えなかった。

「いいえ。すぐ近くです」

 心なしか、捨松の顔が青白いような気がした。

、と言ってもいいくらいです」

 卯之介は、もう一度、闇をすかして夜霧の丹三を見た。心なしか、丹三の歩く姿がおぼつかないような気がした。しかし、いくら目をすがめて見ても丹三以外の人影は見えなかった。


「畜生め!」

 丹三は吐き捨てた。

 盗人宿に着くと土間にどかりと座り込んだ。吐く息が荒い。じっとりと冷や汗をかている。まだ、春には早い時期だ。吹く風は冷たい。なのに冷や汗が止まらなかった。

「感冒にやられたか?」

 丹三は舌打ち混じりにつぶやいた。

「せっかく、この真珠の買い手がついたってのに」

 そう言うと懐手に何かを取り出した。布に包まれたそれは、片手よりも若干大きい丸い物であった。丹三は、慎重に布を剥いでいく。はらりと最後の布が落ちるとそこには輝く純白の真珠が現れた。わずかばかりの残照でもその輝きは失われておらず、むしろ、逢魔が時の怪しさと相まって、自ら発光しているかのごとく輝いていた。

 丹三はウットリとその輝きに魅入る。己の体調の悪さも思わず忘れてしまう。それぐらい、怪しく美しかった。

 この特大の真珠は、浜松の廻船問屋宅に盗みに入った際に見つけて、手に入れた物であった。丹三は、ひとり働きが多い。その時もそうであった。持てるだけの小判を手に家を出ようとした際に蔵の奥がぼんやりと光っていた。そこで、小さな木箱に入っていたのがこの大きな真珠であった。すぐに丹三は魅了された。だが、すぐに手放そうと思った。なぜだかは、はっきりしたことは分からないのだが、長年、ひとり働きで培ってきた、感とでも言おうか。

――こいつは持ってちゃいけねぇ品物だ

 丹三の心の奥がそう叫んでいた。

 名残惜しかったが、早々に手放すことに決めて、客も見つけた。

 だが、客は直前になって断りをいれてきた。

 珍しいことではない。別の客を探すことにした。

 客はすぐに見つかった。実物を見せて、気に入ったのだ。

 だが、これも直前になって断りを入れてきた。何でも、家族が病となり大金が必要になったという。

 次の客も見つかった。今度こそはと思うが、客が行方不明となってご破算。

 終始このような状況であった。

 さすがの丹三も薄気味悪くなり、廃れた社にこの真珠を隠し置いてきたこともあった。だが、次の日には、丹三の手荷物の中に真珠が入っていた。

 海や川に捨て去ろうと思ったこともあったが、いざ捨てる段になると先ほどまで持っていたはずの真珠がどこにもないのだ。確実に懐に入っていたはずだったのに。どこかに落としたかと首をひねりつつ、しばらくすると懐から出てきた。

 とうとうのっぴきならなくなったとき、盗品を扱う商人から江戸に客がいるとの報が来た。

 一も二もなくその話に飛びついた。

 そうして江戸へ来て、仲介者と話をつけ、客人に物を見せ、値段の交渉をしてやっと帰ってきたところであった。

 今度の客は、うまくいきそうであった。

 それなのに、体調がすぐれないなどというざまだ。

「さっさとこの真珠とおさらばして、とんずらする算段のはずがよ」

 しかし、丹三はここ十年以上風邪はおろか体調を崩したことすらなかった。

「まさかな……」

 けだるい身体を疎ましく思いながらも、また、この真珠に何かされているのではないかとの考えがよぎる。

 頭を振って、嫌な考えを追い払う。

 丹三は土間から身体を持ち上げ、半分以上、朽ちて床が抜けている部屋に上がった。

「しばし横になろう」

 そう言うとバタリと横になった。何やら、部屋の中に乳白色の煙のようなものが充満してきたが、丹三はそれどころではなかった。今は休むことだけが最優先であった。

 乳白色の煙は、丹三を飲み込んだ。



「消えた」

 驚いたように呟いた捨松の言葉を聞いた卯之介の行動は素早かった。

 音もなく荒ら屋に近づくと慎重に壊れた隙間から中を覗いた。

「……馬鹿な。いねぇ」

 卯之介は呆然と言った。

 狭い部屋の中に夜霧の丹三の姿はなかったのだ。



 小典は、乳白色の世界に居た。

 何の建物もないし、人もいない。しかし、恐怖は一切なかった。

 小典があてどもなく歩いていると見たこともない門構えの家屋に行き着いた。何の躊躇もなく中に入ると豪奢な部屋に通された。

 飾り棚に色とりどりの陶器が並び、極彩色の大壺が飾られ、生きているのかと見まごうほどのふすま絵が、ぐるりと取り囲んでいた。真新しい畳の匂いと木材のいい香りが漂っている。

 小典は、大きく深呼吸をして、心地のよい香りを楽しむとぐるりと当たりを見渡した。

 視線を目の前に戻すと箱膳に各種、色とりどりの料理が盛り付けられた器が置かれていた。酒まで用意されている。

「さあさあ。鞍家さま、しばらくこの場でおくつろぎください」

 どこかで聞いたような声だ。だが思い出せなかった。

 箸を取って小鉢から取った料理を口に運ぶ。

―シジミの煮付けだ。どこかで同じものを食べたような気がするな

 そう思ったが、どうしても思い出せなかった。

「少し、お身体をお借りします」

 声が言った。

「ああ」

 小典はさして気にもとめなかった。








 








 





 

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