第7話 柱右衛門の夕餉
潮風が身に染みる。
耳元で轟々と鳴る風は、容易に小典の体から熱を奪い取っていく。
長浜村は、海のすぐ近くにある村だ。いくら春に近づいている季節とはいえ、海風はかなり冷たい。それでも小典は、海岸線のすぐ近くまで来ていた。なぜか一目海を見たかったからだ。
水平線の向こう、灰色の雲が広がっている。もしかしたら、一雨降るかもしれない。そうなれば、さらに冷えるだろう。
小典は、着物の袷を手で閉じるが、そんなことでは、寒さが和らぐはずもなかった。背中を丸めて、足早に海岸線から離れ、村へ向かう。しかし、足取りは重かった。例の“夜霧の丹三”の件であった。卯之介から知らせを受けてから、数日の間、終日探りを入れているが、その行方はようとしてしれなかった。追い打ちをかけるように物の怪騒ぎの件も解決の糸口さえつかめなかった。
「寒さが身に染みる」
小典は吐き捨てるように言った。つい先日までは妙に生暖かったのに急に寒さが戻ってきた。苛立ちをぶつけるところはそこしかなかった。
目明かしの卯之介や実際に夜霧の丹三を見つけた卯之介の舎弟である捨松もできうる限り、協力してはいるものの行き詰っていた。
「まったく、どこへ行きやがったんだ」
小典は、歯噛みした。
すでに逃げてしまったということも充分に考えられる。だが、小典は、夜霧の丹三が感づいて逃げたとはどうしても思えなかった。確証はない、ただの感だ。そのことを卯之介や捨松に話してみると二人とも同じ考えだと言った。つまり、夜霧の丹三は、まだ近くに潜んでいる、と三人が思っているのだ。しかし、その行方は見つかっていない。もちろん、長浜村近辺だけにいるとは限らない。江戸全体となれば大変な範囲がある。もしかしたら関東近辺に行っているかもしれない。そうなると、三人だけで追うのは無理だ。卯之介や捨松たちには裏家業独自の情報網がある。どこへ逃げても噂の欠片ぐらいはあるはずであった。だが、それも今のところはなかった。
「鞍家さま、お待ちしておりました」
声をかけられて、小典は我に返った。
どこか覚えのある小路の一番奥、長屋の引き戸の前に男が笑顔で小典を見ていた。
「柱右衛門か」
小典は、いつの間にか長浜村の柱右衛門宅の前まで来ていた。
「考え事で?」
柱右衛門は笑顔のままで聞いた。
「ああ。ついつい考えに沈んでしまった」
小典は、頭を掻いた。周りに気がつかないぐらい考え込んでいたらしい。同心としては、いたって不用心だ。ましてや、今は、賊を追っている最中だ。見逃していたら目も当てられない。
「さぁ。用意はできております。どうぞ」
柱右衛門は、己の長屋の引き戸を開けて小典を招いた。
「すまんな。今日も馳走になる」
すでに、開いた戸から何とも言えない芳醇な匂いが漂ってきた。小典は躊躇なく中に入った。腹が高く鳴った。
柱右衛門の家の中は、相変わらず殺風景であった。小さな箪笥も壁にかけてある着物も変わらない。そして、部屋全体を覆っている湿気の多さも相変わらずだが、今日は、時折、部屋全体が細かく揺れているような気がした。
――地震か⁈
と訝しんだが、ジッとして警戒していると動いていないことに気がつく。しばらくすると、また動いているような気がする。
「不可思議な家だ」
思わずつぶやいた小典の鼻腔に香ばしい匂いが届いた。腹が鳴るのをごまかすように小典は、竈に向かっている柱右衛門に話しかけた。
「いつも馳走になってすまんな」
「滅相もございません」
柱右衛門は振り向かず、竈に向かって手を動かしている。
「柱右衛門は、貝がよほど好きなのだな」
小典は、竈の周りに並んでいる盥の数々に目を向けながら言った。むろんそこには、貝が黒々と敷き詰められていた。
「ええ。そりゃあもう。大事な同胞ですから」
「え?」
小典は、耳を疑った。今、同胞と言ったような気がしたからだ。
「柱右衛門、今、何と…」
聞こうとしたが、その刹那、目の前に小鉢が現れた。
いつの間にか箱膳の上に小鉢を乗っけて、柱右衛門が差し出していた。
「こちらをお食べください」
例の笑顔を満面に張り付けて、柱右衛門が言った。
「お、おう。かたじけない」
戸惑いながらも箱膳を受け取る。お椀が一つ乗っている。
「これは、しじみの味噌汁だな」
湯気からたっぷりのしじみと味噌の香りがよく合っているのがわかる。
たまらず一口すする。
「美味い!」
思わずうなった。
しじみの身を箸でとって口に入れる。弾力と貝の旨味と磯の香、それに味噌の塩味が絶妙にあっていて、止まらなくなりそうだ。そう思った瞬間には、次のしじみの身を口に放り込んでいた。文字通り箸が止まらない。不思議なのは、食べても食べても貝が減らないことだった。だが、そんな疑問もすぐに消え去った。
「気に入っていただけたようで何よりです」
柱右衛門の嬉しそうな声が届いたが、小典は、食べるのに夢中で顔すら上げなかった。
「では、こちらもどうぞ」
声と同時に箱膳に茶碗がおかれた。
「これは……」
「シジミ飯でございます」
柱右衛門が答える。
「色がついているな」
小典は茶碗を手に取ってじっと見た。
米がうっすらと茶色がかっている。香ばしい匂いがする。それと若干の甘い香りも。
「一口召し上がればおわかりいただきます」
柱右衛門の言葉に小典は、頷いた。箸を口に運ぶ。正確に言えば、食べたくて仕方なかったので急いで口に運んだ、が正解である。
「こんなシジミ飯は食べたことがない!」
一口食べて驚いた小典は、思わず感嘆の声を上げた。
シジミ飯は比較的庶民にも作られている献立の一つだ。シジミは安く手に入るし、実際に小典の家でも食卓に上がる。
しかし、このシジミ飯は初めての味であった。
「味醂と上方の醤油、それから隠し味に黒糖を少々入れております」
柱右衛門の説明に感心している暇などなかった。箸を口に運ぶので忙しかった。頭の中は、「美味い」しか思い浮かばなかった。
シジミ飯と味噌汁をたらふく食ったことだけは覚えていた。
「鞍家さま。どうぞ我慢なさらず横になってください」
そう、柱右衛門の声が聞こえた。
「そうか。しからば、少し横にならせてもらう」
もうろうとした意識の中で、そう口が喋っているのを他人事のように聞いていた。
小典は、眠くて仕方がなかった。意識はすぐに闇の中へ落ちていった。
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