第2話 海辺
磯の香りが強い。
小典は、普段、それほど意識していないが、江戸も海の近くにある。よって、四六時中、潮の香りはしている。とくに、風向きや雨の降る前、そして夏の夕方は、潮の香りが強くなる。しかし、ここまで村中が濃密な磯の香りに包まれているのは、それこそ、海辺近くまで来なければ感じられないだろう。
「それで、この近隣の村々にでるのか?」
「へい」
返事をしたのは、六尺近くの長身で目つきの鋭い男―卯之介だ。卯之介は、小典が一番信頼している目明かし、つまり岡っ引きだ。
「旦那から知らせを受けて、伝手をたどっていろいろ調べてみたんですが、確かにこの近隣の村々で出るみたいですぜ」
「うーむ」
小典は、どうしたものかと腕を組んで考えた。卯之介がそう言うのなら間違いはないのであろう。頭が痛い。
小典たちがいるのは、御菜浦のひとつに数えられる本芝浦にある漁村のひとつだ。御菜浦とは徳川将軍家に献上する海産物を獲る地域の事で、他にも芝金杉浦や品川浦や大井御林浦、などがある。
本芝浦は、雑魚場としても有名で、人々は活気があり、知らぬ人々の出入りも多い。目の前にある遠浅の海では、海苔や海老が捕れる。魚貝も多く獲れ、地域全体の雰囲気も悪くはない。
「本当にここで出るのか?」
辺りを見渡しながら、小典は再度、卯之介に聞いた。
人々の表情は明るく、大きな木の桶を抱えて笑顔で通り過ぎる女子どもが先ほどからひっきりなしに通っていく。不穏な気配は微塵も感じられない。
「へい。どうやら本当のことらしいですぜ。物の怪がでるって噂は」
そうなのだ。髙気様からの頼まれごとは、物の怪が出るという本芝浦の村を探索せよ、とのことだったのだ。
初めてそれを見たのは、権蔵という漁師であった。
漁から帰って漁師小屋で一杯ひっかけた。一杯のつもりが二杯、三杯と杯を重ねるといくつ杯を重ねたかわからなくなった。気がつけば、夜もとっぷりと暮れていた。
そろそろ帰るかと外に出て、家を目指す。飲んでいた漁師小屋から自宅はそれほど離れていない。通りをご機嫌で歩いているとどこからか笛の音が聞こえてきたという。辺りを見回すが、闇夜と波の音しか聞こえない。酔ったせいかと再び歩き出した。すると、今度は、女子どもの笑い声が聞こえ始めた。権蔵は、再び辺りを見渡した。すると、ぼんやり灯りが見える。近寄ってみるとそこは色とりどりの提灯がぶら下がっている見たこともない通りが奥まで続いていた。艶やかな着物を着た女性や走り回っている子供らもいる。目をこすってみたが、目の前の景色は消えない。権蔵は、こんな通りがあったかといぶかる前に猛烈にこの先に行ってみたくなった。踏み出した。どこからか酒の香りと貝の匂いがする。すると、隣に酒とつまみの貝がたくさん積まれた店があった。夢中で飲み食いした。こんな美味い酒も貝も初めて食べた。そのうち訳が分からなくなった。
気がつけば、村人数人が心配そうに顔を覗き込んでいた。訳が分からず、村人の話を聞くと権蔵は数日行方不明になっていたとの由。発見されたのは、村から数里ほど離れた海岸の岩場であった。幸い擦り傷だけであったが、飲み食いしていただけの記憶以外はまるっきりなかった。
次は、お梅という三十路の女である。
日が暮れて、離れた村で飯屋のお運びの仕事を終えて、帰りを急いでいた。
ふと、人の気配がした。
見ると道端に異国風の着物をまとった男がいた。男は出店を構えている。
こんな所に出店が、と不思議に思ったが足がそちらに向かっていた。
店には、見たこともない貝の装飾品やら玉でできた装身具が所狭しと並んでいた。
異国風の男に勧められるまま、装飾品やらを手に取って、うっとりと眺めていた。
気がつくと亭主に揺り動かされていた。周りは、林の中。聞くと女は、丸一日以上行方が分からなかったという。心配した亭主が近所の人たちと探し回ったところ村から数里離れた林の中で木に抱きついているところを発見されたという。
女には、装飾品などを眺めていたことだけしか覚えてないという。
次は、六つの泰吉という男の子だ。
明け方早く目が覚めた、泰吉は、外から子どもたちの声が聞こえたという。
近所の遊び仲間が居るのかと思い、戸を開けて外に出た。
するとそこには、見知らぬ男の子と女の子たちがいた。
不思議に思いながらも誘われるままに遊びの輪に加わった。
見たこともないお面、玩具、遊び方、どれをとっても泰吉の知らないものばかりであった。泰吉は夢中になって遊んだ。
気がつくと心配そうな母親や大人たちが顔をのぞき込んでいた。
泰吉は、一里ほど離れた山の中で発見された。なんでも、猟師が大木の頂上付近に小枝を集めてできたらしい大きな巣の中を覗いてみたところ、子どもがすやすやと寝ていたので驚いたという。
さすがにここまで奇怪なことが続くと、近隣の村々の村長たちや有力者が集まり、どうするかを話し合ったという。
小さな事も含めれば、数え切れないほどの不可解な出来事がその場で報告された。
これは、拝み屋を頼むしかないと言うことになり、実際に伝手を辿って、高名な拝み屋に来てもらったという。
護摩を焚いて祈ることしばし。汗だくになって拝み屋が居並ぶ村長たちや有力者に告げたことは、到底、拙僧にはこの怪異は祓えぬ。なぜなら、悪意がないから、ということであった。
動揺する村長の中から、ひとりがそのわけを聞くと、
悪意があれば、抗うことができるが、それがなければ、祓うのは至難の業だ、という答えであった。
しかし、悪意があろうかなかろうが、こうして実害が出ているのは事実。このままにしてはおけないし、変な噂が出て商売に支障が出ても困る。何とかしてほしいと懇願した。腕組みして考えた拝み屋は、再度護摩を焚いた。そして、振り返ると居並ぶ面々に告げた――
「それで奉行所を頼れ、とその拝み屋が申したと?」
小典は、半ば呆れたように言った。
「はい。その通りで」
うなずいたのは、この長浜村の村長である惣兵衛である。
年のころは、五十路過ぎたあたりであろうか。深い皺の中まで日に焼けている。筋骨は太く、いかにも海の男といった風情だ。流行りの縦じまの着物が妙に浮いて見えるのは、職業柄、褌一丁の姿のほうが多いからだろう。
「奉行所は物の怪退治まで引き受けておらぬぞ」
苦笑しつつ小典は、言った。
「ですが、現にこうしてお役人様がいらっしゃった」
これには、小典も何も言えなかった。高気さまの顔が浮かぶ。心の中で嘆息した。
「まあ。どこまでできるのかわからぬがやるだけはやってみよう」
小典は、観念した。やるしかなさそうだ。
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