第4話 潮騒

「私ね、明日死のうと思うの。」

 まるで世間話をするかのように、彼女は言った。今日のご飯は煮物よ、って言っていた母が脳裏によぎる。そのくらい自然に彼女は言い放った。

 大学のテストが終わり、ようやく夏休みが始まったというのに。さっきまで何処に行くかという話をしていたのに。私の頭の中は、どうしてで埋まった。

「突然だね。どうしたの?」

 私はさも動じてませんといった顔で聞いた。内心はどうしてとなんでという言葉で埋まっているが。

「さっきね、面白い言葉を見つけたの。」

 彼女は知識を語る小学生のように、得意気に話をしだした。

「ニライカナイって知ってる?沖縄の言葉で海の彼方にあるあの世なんだって。死んだ人の魂はあそこに行って、7代後に自分の家系の守護神になるらしいの。海の底って説もあるけど、どちらにしてもロマンチックよね。海の果てにあるなんて、きっと楽園に違いないわ。」

 あぁ、そういうことかと私は納得した。彼女は海が好きだ。暇さえあればどこかの海に行って、夜まで眺めている。そんな時は連絡さえ取れなくて困っているのだ。

「なんで海が気になるのか分からなかったけれど、ようやくわかったの。私は、ここに行かなきゃいけない。ニライカナイに行く。もうチケットも取ったし荷物もまとめて、遺書も書いたの。」

 この子は本気だ。本気で海の彼方に行く気なのだ。私には止められない、止める資格も理由もないからだ。

「…でも本当にニライカナイがあるか、わからないよ。」

 そっとボヤくように言った。すると、彼女は優しく微笑んで言った。

「じゃあもしもあったら、貴方の家の近くの海から叫んであげるわ。ニライカナイはあったよって。」

「そっか…」

 私はそれ以上、何も言えなかった。


 あの日から4日後、彼女は沖縄の海で発見された。お葬式で彼女の顔を見たけれど、それはそれは安らかな、まるで迷子がお母さんを見つけた時のような安心した顔をしていた。

 そして、3年の月日が経った。ニライカナイがあったという声は、まだ来ない。

 ある日私は、何故かものすごく早く起きた。夜中の3時半、まだ夜は明けていない。会社は休みだったか、誰かが呼んだのかわからないが、なんとなく近くの海に足を運んでいた。砂浜を黙々と、歩く時に鳴る砂の音と波の音を聞きながらただただ歩いた。

 どのくらい歩いたか分からないが、ふと立ち止まって海の向こう側を見つめた。ニライカナイ、海の果てにある楽園、そこに彼女は行けたのだろうか。もしかして地獄に行ってしまったのだろうか。いやありえない。彼女は地獄に落ちる人では無いだろう。まさかまだ海を迷っているのだろうか。迷い過ぎて別の国に行ってはいないだろうか。不安になって、つい声を出してしまった。

「ねぇ、ニライカナイには行けたの!?そっちに着いたら連絡くれるんでしょ!!答えてよ!!」

 思わず涙が出た。彼女が死んだときでさえ流さなかった涙が、雨のように止まらなかった。ずっと、信じていた。彼女の言葉を、彼女のことを。それが壊れてしまう気がして、声が枯れるまで叫んだ。

 ざざーん、ざざーん、ざざざざーん。ざざーん、ざざざざーん。

 不意に波の音が大きくなった。顔を上げて、波の向こうを見た。

 海が、海が大きく揺れている。海が叫んでいる。海の音と恐怖で足が竦む。でも、これが彼女の声だと、何となく感じた。やっぱりあったんだ、ニライカナイはあったのだ。海の果てに、あの楽園はあったのだ。彼女の言葉は全部本当だったんだ。涙が止まらない。さっきよりももっと溢れ出てくる。

「あぁ…あなたは、そこにいるのね。」


 気がつくと、朝日が昇ろうとしていた。海はもう何も語ることも叫ぶこともしなかった。それでも私は、そこから離れることが出来なかったのだ。

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りゅう @Ryu_1210214

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