第15話

「十」


 ピアスの男は、不機嫌な顔をしたまま、声を出す。

 優子は、握っていた友里の手を離して、駆け出した。


「九」


 優子がむかっているのは、コンクリートの建物の多いところ。つまり、火の手が迫ってこないところだった。


__判断は悪くないが、ずいぶん足が遅いな……まあ、人間だから、仕方がないか。


 ピアスの男は優子の背を見つめながらそう考える。


「八……?!」


 ふと、勇介の方に視線を移してみると彼らは、優子とは反対側、つまり、多少火が強いほうへと逃げだしていたことに気が付く。


__俺の意図に気が付いていた……?それとも、考えすぎか?


「七」


「六」


「五」


 無情にも、ピアスの男はカウントダウンをやめない。

 すると。


「よ……」

「きゃあああああああああ!!!!!!来ないで!来ないで!!」


 あたりに、が響く。


 まだ、ピアスの男の視界の中から逃げきれていない。だから、男は理解している。


 そして、優子は、。皮膚を破ったことで、あたりに、濃厚な、美味そうな血の匂いがただよう。


「……はぁ?!」


 ピアスの男は、思わずカウントダウンをやめてしまった。


__何をしようとしている……?!


「……三」


 カウントダウンを再開する。

 まだ、優子の意図は読めない。


「二」


__こけおどしか?

 ピアスの男は優子から目を離せない。


「一」


 そして、が視界に入ってきたとき、ピアスの男は、優子の考えねらいを理解した。


 それは、人間にとって、絶望で。


 それは、人間にとって不都合で、不条理で。


 それは、今の俺にとっても、不都合極まりない存在。


 優子を囲むようにして、ピアスの男とは別の集団の、吸血鬼たちが現れたのだ。


「ゼロ。……クソがァ!!!!」


__悲鳴と血の匂いでほかの吸血鬼どもを呼びやがった……!!!


 最も合理的で、最も破滅的で、最も効率的な答え。それを、優子は選んだ。


「俺ら以外の吸血鬼どもを退かせろ!」


 部下にそう命令して、ピアスの男は優子のほうへ駆け出す。


 ◇◆◇


 私には、庄司と、夫と別れてしまってから、決めていたことがあった。

 それは、二人の子供を、私のかわいい娘と息子を、守り抜くこと。


 そのためだったら、私の命なんて、なくなってしまっても構わない。


「……いえ。このまま、いきましょう。ここを通れたら、あとは山をつっきるだけ。ほかの道を通ろうとすれば、余計に時間がかかるだけだわ。」


 私は、そういって前へ進もうとした。

 でも、それは間違いだった。


 十人の吸血鬼に囲まれて、最愛の息子、勇介を失いそうになった。

 圧倒的な才能と可能性を持ち合わせる娘、友里に絶望を教えてしまった。

 プライドを捨てても息子と娘についていく決断をした男性、杉田さんを危険にさらした。


 それならば。


 そうならば。


 私は、この命を彼らの希望にかえよう。


「逃げるのは、勇介でなくてはいけませんか?」


 その希望の先に待っているのが、もしもほかの絶望だったとしても。


「私では、だめですか?勇介は今、足を痛めているのですが。」


 勇介の驚く声が聞こえる。何年間あなたを育てたと思っているの。隠そうとしているときに、右耳を触る癖が治っていないわ。


「一応聞いておこう。お前の名前は?」


 目の前の吸血鬼の言葉。

 私は堂々と、胸を張って答える。

 

「秋田 優子。勇介の、母です。」


 ひどくふがいないけれども。ひどく愚かだけれども。

 私は、この子たちの、母だ。


 カウントダウンとともに、私は走り出す。


 友里たちの視線が私の背に刺さり、思わず足を止めそうになってしまう。


 __もう一度、この腕であの子たちを抱きしめとけばよかった……


 そう思ったけれども、もう、後の祭りだ。私にできる、私があの子たちに与えられる、をしよう。


「五」


 ある程度見晴らしのいい、火の手の弱いところまで逃げてきて、私は腹をくくる。



 肺に、いっぱいの息をためて、腹に力をこめて。



 私は、悲鳴を上げる。



 それだけでは、弱い。このあたりにいる吸血鬼を集めよう。


 一秒でも、一分でも、あの子たちには長く、永く、生きていてほしい。


 そのためなら、私の魂など、私の肉体など、吸血鬼ぜつぼうに売り払おう。


 ええ。大出血サービスよ。物理的に。


 腕に、自らの歯を突き立てる。

 鈍い痛み。少しだけ、逃げる足を止めそうになってしまう。けれども、絶対に止めてやるものですか。前へ、一メートルでも先へ、私はかけぬく。


 ああ。読みどうりだ。

 声と、匂い。彼らは、それで私たちを探していた。

 あの火災の中は視界がひどく悪かった。たとえ少し前に別れた人たちが私たちのことをしゃべったとしても、こんなにも早く見つかるわけがない。

 だから、考えて、そして気が付いた。


 これが、わたしの答えだ。

 悲鳴と血の匂いで周りの吸血鬼を誘い出す。

 まともになど、逃げてやらない。どれだけ醜かろうが、無様だろうが、私は、私の命を懸けて、子供たちの一分、一秒を稼ごうじゃあないか。


「……クソがァ!!!!」


 吸血鬼の怒気をはらんだ咆哮が背後から聞こえる。後ろからの気迫と殺気。


 でも、不思議と足はすくまない。心はひるまない。


 どころか、自然と口元に笑みが浮かぶ。


 迫ってくる吸血鬼たち。


 足を止めず、彼らのほうへ走りぬく。




__庄司さん。今、あなたに会いに逝きます。


 目の前の吸血鬼の醜悪な笑みが一瞬だけ見えて、




 

 首元に熱したフライパンを押し付けたのではと思うほどの強烈な痛みを感じて、








 私の目の前は、







 まっくらになった。

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