名もなき恋

千ヶ谷結城

名もなき恋

 誰もいない、白色蛍光灯に照らされた駅舎のベンチに、私と彼が並んで座る。

 私が家に帰る為の電車は12分後にホームへ入ってくる。

 それまで私と彼は2人きりという訳だ。

 今日は彼が準備してくれた図書館、屋台の通り、観覧車、公園のデートコースを巡った。

 どこに行っても彼は優しく、いつでも私の彼氏だった。

 1日一緒にいたんだから十分だろ、とでも言うかのように悪魔が私に寂しさの芽を植え付けた。

 すると悪魔の企み通り、私の中の寂しさは止まることを知らず、一気に成長し口から言葉を出させた。


「帰りたくないなぁ……」


 私が言った無意識の言葉の意味を理解したのか、彼が私の手を少し強く握った。

 お互いの手は共に冷えていて、繋いだ瞬間から互いを温め始めた。


「俺も……帰したくない」


 彼はさりげなく言ったつもりだろうが、私の脳内にはしっかりとインプットされた。

 彼が私に対して、そんな風に思ってくれていると分かると、胸いっぱいに幸せな気持ちがあふれた。

 しかし悪魔が植え付けた寂しさまでは除去してくれなかった。

 電車が来るまであと8分。

 この4分が経つのに何回時計を確認しただろうか。

 ちらりと横目で彼を見ると、彼は目を瞑っていた。

 まるで何かに浸っているかのように。


「どうしたの?」


 私は思わず声をかけた。

 私の声に驚いた彼がぱっと目を開けた。

 適度に涙で濡れた目が、蛍光灯の光を受けて輝いていた。

 こんなに綺麗なものが、世の中に存在していたのかと思ったほどだ。

 そんな目が、すぐに私を捉えた。

 目が合って私は小さく覚悟をした。

 私と彼は目が合っているだけで何も話さない。

 何も話さない時間があっても耐えられた。

 互いの目線が交差して1分ほどが経過した。

 残りは6分。

 1人分のスペースが空いていたのを彼が詰めて、私に近寄った。

 目を瞑っていたときから彼が何を考えているのか、全く分からなかった。

 そして今も、何を思って間を詰めたのか理解に苦しんだ。


「えっ……」


 私が言おうとした言葉は彼によって防がれた。

 もっと詳しくいえば、彼の唇に。

 彼と私の唇が距離をゼロにしてキスをしている、という状況を理解するのに10秒はかかった。

 離れてからも私は何も言えなかった。


「お前が帰りたくないとか言うからだろ」


 彼が目線を逸らし、照れながら言った。

 それに私がどんな風に反応したら正解になるのか、難しい問題だった。


「帰りたくないのは……本当だもん」


 すねた子どものように私が口をとがらせると、彼は顔を隠してしまった。

 もう彼の表情を読み取って会話をすることもできない。

 自分の言葉が原因だと分かっていても、私から彼に伝えられることは、今はない。

 残り3分。

 こうして互いに黙っているだけでも時間は過ぎてゆく。

 少しでも電車が遅れてくれればいいのに。

 そんなことを身勝手に願っていた。

 まだ繋がっている手を強く握った。

 彼はそれを感じて握り返し、顔をこちらに向けた。

 彼の顔は真っ赤で、火が出そうだった。

 彼と会話をしていない時間が過ぎてゆくのは、本当に惜しかった。


「今日は楽しかったよ」


 何か言わないと気が済まなかった。

 言う言葉なんて何でもよかったのだ。

 「好き」でも「離れたくない」でも。

 究極を言えば、「キスをしたい」でもよかった。

 しかし、そんなことを私が言えるはずもない。

 私が言えるのは、彼になんの影響も及ぼさない言葉だった。

 もうすぐ電車がホームに入ってくる。

 そうサイレンが告げた。

 電車が一夜の関係を引き裂こうとしている。

 なるがままに身を委ねるべきなのか。

 切なさを浮かべた彼の瞳が私を見つめている。

 線路を伝って電車の走行音が聞こえた。

 相当近くに迫っているようだ。

 彼は何も言わない。

 電車がホームに入ってくると同時に、私は立ち上がった。

 少し遅れて彼も立ち上がった。


「もう……バイバイしなくちゃね」


 彼との別れを自覚させるかのような言葉は、ひと吹きの風に消された。

 私が一歩電車に近づくと、いとも簡単に繋いでいた手は解けてしまった。

 それを気にせず私はドアが開いた電車に乗った。

 彼に背を向けたまま告げた。


「バイバイ……また、明日」


 かき消えそうな声で言うとすぐに出発のベルが鳴った。

 ベルが鳴り終わる前に、私の視界がぐらついた。

 電車のドアが閉まる直前に、彼が私の腕を引いたのだ。

 電車はあっさりと私たちの前から姿を消した。

 肩を抱かれていることに気づき、顔を少し後ろに向けてみる。

 そこには彼の顔があり、彼の吐息が耳にかかった。

 私が困惑の言葉を発そうとすると、先に彼が口を開いた。


「やっぱりもう少し一緒にいたい」


 そう言った彼が切なくて可愛くて、これが私の彼氏なんだと思うと、愛しさで胸がきゅぅっと縮んだ。

 驚きを嬉しさと愛しさに代えて私は応答した。


「私も……。君と一緒に……ずっと一緒にいたいよ」


 肩にかかった彼の手に自分の手を重ねた。

 これで同じ想いでいることが伝わるような気がした。

 それから私たちは次に来る15分後の電車を待ちながら、今日のこととこれからのことを話した。

 図書館、屋台の通り、観覧車、公園を共に歩いた彼を、私は手放さない。

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