最終話 贖罪

「……こんにちは、佐々岡一等陸佐。今日も貴方が担当ですか」


「ははは、そんな嫌そうな顔をしないでください、宗介さん。お互い、陸自の鼻つまみ同士じゃないですか。いがみ合ってどうなるんです。仲よくしましょうよ」


「すみません、貴方のその実に造り物っぽい軽薄そうなところが鼻について」


「ははは、私も貴方の抜身の刃のような飾り気のなさに、毎度のことながらうんざりしてますよ。お互い様でしょう。知っていますか、男と女というのは、足りないものを補いあう宿命にあるそうですよ」


「私と貴方は男と男でしょう」


「ははは。そうですな。そして私は妻帯者。いや、実に残念。残念なたとえでした」


 事件から四日後。

 休日、僕は宗介兄さんに連れられて、大阪の隣――兵庫県伊丹市にある陸上自衛隊中部方面隊伊丹駐屯地を訪れていた。

 いや、より正確に言うと、僕たちはというべきである。


 正門から入ってしばらく行ったところにある学校の校舎のような三階建ての建物。そのエントランスで僕たち――雪下四兄弟を待っていたのは、佐々岡一等陸佐なる人物だった。


 ミディアムショートの髪にほどよく鍛えられた肉体、そして中性的な顔立ち。

 兵士というより参謀というどこか知性的な感じがする。

 屈強さを感じさせないその人物に、見た目からは好感を覚えたけれど――兄の対応からなにやら油断ならない人物であるのが感じられて、少し身構えた。


 それは僕と一緒に、宗介兄さんの後ろに隠れている三人も同じだったらしい。

 そのうちの一人を見咎めて、佐々岡一等陸佐は目を剥いた。


「おや、おやおや。光太さんではありませんか。ご無沙汰していますね。貴方の予定スケジュールにはいつも助けられております」


「あぁ、どうも、ご無沙汰してます、佐々岡一等陸佐」


 一歩後ろに下がった光太兄さん。

 しかし佐々岡一等陸佐は逃がさない。


 参謀肌と思わせて、思いがけない素早い動きを見せた彼は、宗介兄さんの虚を突いて光太兄さんに肉薄すると、彼を抱き上げてしまった。

 宗介兄さんが呆気に取られているのを、僕はこの時初めて見た。


「妻が是非ともお会いしたいと常々申しておりますよ。同じ情報戦を得意とする者として興味があるのでしょう。いや、うちとしても、情報本部に常駐していただけると助かるんですが。あぁ、そうだ、なんでも、もう外見上の振る舞いをする必要がなくなったとか。ならばぜひ、ウチの情報本部に。いますぐにでも」


「いやいやいや、いきなり幼稚園やめるといろいろと問題になりますから。その話はまた今度ということでお願いできませんか。というか近いです、佐々岡一等陸佐」


「近い。近いですか。よく言われます。私はこう、気に入った人間とはついつい距離を詰めてしまいたくなる癖がありましてね。いや、物理的にも精神的にも。盾野にもさんざんとその辺りのことをうるさく言われたのであらためようと」


 佐々岡一等陸佐のマシンガントークが急に止まる。

 気がつくと宗介兄さんが精製したカーボンブレードが彼の頸動脈に当てられていた。


 なにやっているんだ、宗介兄さん。

 陸上自衛隊にそんな喧嘩を売るような行為。


 ぎろりと獣のような佐々岡一等陸佐の鋭い眼光が宗介兄さんに向く。

 それをいつもの涼しい瞳で堂々と宗介兄さんが受ける。


 一触即発。

 まさか、この場で仲間割れ。今から雪下兄弟は、陸上自衛隊を再び敵に回して、この日本政府とドンパチを始めることになるのか――。


 思わず背筋を冷たいモノが走った。

 まずい、これはまずいだろう、と。


「……だから嫌なんですよ、むき身の刃みたいで」


「光太さんが嫌がっています。勘弁していただきますか、護国の盾イージス


「それ、その呼び名。それがいちいち癪に触るんですよ。いや、いいんですよ、私のコードネームはね、護国の盾イージス、それはね問題ないんです。問題なのは、貴方の陸自でのコードネームですよ。護国の刃。当て字は良いんです。そう、当て字は良いんです。けど、読み方が護国の刃マサムネっていうのがね。それがどうしても気に入らない。返していただけませんか。僕は、処刑人サンソンで十分だと思うんです」


「別に私が望んで呼んでいるわけではありません。好きになさったらどうです」


「では、しかるべき時には返していただくということで。あ、あとでICレコーダーを用意しますので、一言お願いできますか。しかるべき時にそのコードネームは返上すると」


「構いませんよ」


 そう言うと、佐々岡一等陸佐は微笑んで光太兄さんをその場に降ろした。

 同時に、宗介兄さんはカーボンブレードを引っ込めて、眼鏡を掌で直した。


 佐々岡一等陸佐がすぐに宗介兄さんに右手を差し出す。

 それを右手で受けると、まるで子供のように一等陸佐はぶんぶんと振った。

 顔は――大の大人のものとは思えない、きらきらとした笑顔だった。


 一等陸佐というのがどれくらいえらいのかは分からない。

 けど、部下だって居るだろうに、そんな威厳のない顔していいのだろうか。

 周りを見れば、通りがかりの陸上自衛隊員が、苦虫を噛みつぶしたような顔をしてこちらを見ていた。


 それが宗介兄さんに向けられたものだとは、ちょっと思いたくなかった。


「いやぁ、毎度のことですが、このやり取りは何度やっても飽きませんな」


「そうですか。私はいささか辟易しています」


「ははは。流石は抜身の刀だ。新しいコードネームは傾国の刃ムラサメなんてどうです」


「そこまで含めてのやり取り、本当に疲れます」


「ははは。MP3ファイルがね、溜まって仕方ありませんよ」


 どうやら、二人でいつもやっていることらしい。

 光太兄さんのことは話のネタということか。なんにしても、やっぱり目の前の自衛官さんは、厄介な人に違いなさそうだった。


 宗介兄さんの右手を離して、次に彼が視線を向けたのは――僕だ。

 一瞥して、それから、ちょっと待っていてくれという感じでウィンクをすると、彼は僕の隣に立っている、旭兄さんの方を見た。


「やぁやぁ旭くんも久しぶり。元気にしていたかい」


「……あぁ、久しぶり」


「それ!! それだよ!! そういう反応!! その糞生意気な、面倒くせえ話しかけてくるんじゃねえよこの野郎っていう感じの冷めた感じ!! 私はね、そういう生意気な反応をする活きのいい部下を常に求めているんですよ!! ねぇ、警察と縁を切って、君も陸自の所属になりませんか!! なりましょうよ!!」


「いや、その、面倒くさいから、ヤダ」


 旭兄さんが本気で狼狽える顔を見た。

 この佐々岡一等陸佐という人、何者なんだ。

 まさか、僕たちと同じで、断罪者バケモノなんだろうか。


 僕たちだけが特別なんじゃなくて、僕たち以外にも日本政府側に寝返った断罪者バケモノが居たって、それはおかしくはない。陸上自衛隊特殊作戦群、対人型生物兵器部隊。そこに人型兵器が所属していたって、おかしくはないのだ――。


「たはー!! 断られた、断られてしまった!! 仕方ないなぁ、仕方ない!! 警察での管轄は、警察庁特級隠シ特捜班トッカクでしたっけ!! 剣崎警視の下だったね!! いやぁ、彼も糞生意気な小僧ですけど、糞生意気同士息が合うのかな!! そういうことですかね、ねぇ、宗介さん!!」


「人の弟を糞生意気呼ばわりはやめていただきますか」


「すみません!! これ、褒めているんですよ!! 褒めているんです!! それくらい気骨があった方が、今の時代は生きやすいと思うんですよ!! それくらいであってことそ男だと私は思うんですよ!!」


「貴方の男の定義を、私の弟にあてはめないでください」


「まったくですな!!」


「というか、サッさんが、陸自だと色んな人に恨まれるか」


「おぉっと!! いけない、いけないよ、旭くん!! いいかい、それ以上の発言は禁則事項に抵触してしまう!! それ以上を口にするなら、当方にも――護国の盾イージスの名にかけて迎撃の用意がある!! よろしいか!!」


 なにを、どう、迎撃するのか。


 よく分からないけど、旭兄さんが黙ったので、とりあえず話は収まった。

 宗介兄さんは、長くなるようならまたカーボンブレードを出すぞという感じだったが、どうやらその前に話はおちついてくれたらしい。


 というか、光太兄さんに迫った時には、迷わず抜いたのに――ちょと扱いに差がないかな、宗介兄さん。僕の気のせいだったらそれでいいんだけれど。


 ふぅ、と、まるで今までのやり取りが、何かの儀式だったみたいに、急に大人しくなる佐々岡一等陸佐。僕以外の兄弟とは、全員知り合いという辺り――どうやら、宗介兄さんが接触した、陸上自衛隊特殊作戦群の人物とは彼のことらしい。


 頼りになる人なのだろうか。

 なんにしても騒がしいのは間違いない。


 そんな彼の瞳が今度こそ、僕を正面に捉えていた。


「君が、末の弟さん、雪下青志くんだね」


「……は、はい」


 それまでのはしゃぎぶりが嘘のように紳士な口ぶりに変わる佐々岡一等陸佐。

 彼はピンと背筋を張ると、僕に向かって手を差し出してきた。

 兄さんたちへの反応とはだいぶ差がある。


 初対面だからだろうか。

 それとも、僕の中に眠っている――断罪者バケモノの本性を警戒しているのだろうか。

 なんにしても、僕がそれを握り返すのに、少しばかり時間がかかった。


 手を取ってみるとなんということはない、彼は普通の人間のように思えた。

 ただ、本能的な直感だが――どうも彼もまた僕たちとはまた違う何かを抱えているらしい。それが何かなのかは、今一つはっきりと分からなかったけれど。


 少しだけ、僕の右手を握る力が強くなった。

 それに驚いて思わず視線を上へと向けると、佐々岡一等陸佐がそこに自信に満ちた顔で待ち構えていた。


「強い力には強い責任が伴う。違う言い方をすれば、強い力にはそれを正しく制御するための、強靭なる精神が必要になってくる」


「……はい?」


「分からないかね。まぁ、あの無慈悲な大虐殺だ。実感はないだろう」


 僕が覚醒した日のことを言っているのだとようやく気がついた。


 強い力に伴う強い責任。

 強い力を正しく制御する強靭な精神。

 なるほど、確かに僕はただ、絶対零度の冷たい殺意に流されて、あの凶行に及んだ人間であり、彼の言う二つを持ち合わせているとは思えなかった。


 暗に彼は僕を非難しているのだ――。


 


「一応、ウチで処理はした。警察側の内通者からの報告で、向こうにも非があったことも分かっている。死んで当然のクズ――などとは口が曲がっても言えないのが自衛隊員の悲しい所ではあるが、今後は、このようなことがないように頼みたい」


「はい」


「なんだったら、私が手ずから精神修養を施してあげても構わない。まぁ、その場合は、ウチの部下になるんだが――」


 僕の手を離す佐々岡一等陸佐。

 そのまま、うぅん、と、彼は自分の顎先を撫でた。

 値踏みするように僕の周りをぐるりと回る彼。


 それから、一言。


「要らないなぁ」


「……え?」


「どうも生意気さが足りない。君はなんというか、変な美意識が強いタイプと見た。そういうウジウジとした奴が、私はあまり得意ではないんだ。なので、警察に譲ります」


 彼は僕の中に眠っている本質を、ずばり見抜いて切り捨てたのだった。

 とんだ入隊試験である。上官の胸先三寸で決まるような部隊編成に、一抹の不安を感じられずにはいられない。


 大丈夫なのだろうか――この国は。


 ちょっとだけ頭を抱えたくなった。


 僕がショックを受けている横で宗介兄さんが再び佐々岡一等陸佐の前に出た。

 それよりそろそろ本来の話をと言いたげだ。

 流石に付き合いが長いのだろう、アイコンタクトだけで、彼は宗介兄さんが言わんとせんことを理解してくれたようだった。


 ならば先ほどまでの丁々発止はなんだったのか。

 ますます、佐々岡一等陸佐という人間がよく分からなくなった。


「案内しましょう。奥で、お待ちになられています」


「かたじけない」


「いいですね、その侍っぽい喋り方。嫌いじゃないです。やっぱり、傾国の刃ムラサメが似合うんじゃないですか、宗介さん」


「その話は後にしましょう」


◇ ◇ ◇ ◇


 陸上自衛隊中部方面隊伊丹駐屯地にやってきたのは贖罪のためだ。

 それは、僕が覚醒に至るあらましを宗介兄さんに説明する過程で、彼の口からそうするべきだと提案されたことだった。


 ただし、光太兄さんは難色を示した。


「あまり、一人の人間に対して特別な扱いをするべきではないと思う。私たちは、もはや人類に対して詫びてどうこうできるような立場に居ない。これから先、行動で償っていくことしかできない。言葉や一時の謝罪は痛め止め――応急処置的なものだ」


「だからってしないってのは何か違うんじゃねえか?」


 旭兄さんがそれに異を唱えた。

 うむ、と、光太兄さんは腕を組んで黙り込む。子供のふりをしていた頃には絶対に見せないそぶりだった。あるいは、もっと道化染みたそぶりで行うものだった。


 どうも光太兄さんとしては――多くの陸上自衛隊の自衛官を殺害してきた、宗介兄さんの身のことを心配しているようだった。

 それに対して、宗介兄さんがいつもの鉄面皮で答える。


 静かに抑揚のない声で――。


「もし、彼女が僕を刺すのなら幾らでも刺されよう。気のすむまで、何度でも。そもそも私たちの体は、そう簡単に死ねるようにできていない。頭と胴体を切り離しでもしない限りには、すぐに再生能力で傷は塞がる」


「いや、そういう問題でもないと思うぜ、兄貴?」


「もちろん分かっているよ旭くん。大切なのは――」


 人の気持ちに寄り添うことだと兄さんは言った。

 そして同時に彼の瞳は、いつの間にか僕を見ていた。

 まるで、諭すようにそれは優しい目だった。


 それが、四日前の出来事。


 中部方面隊伊丹駐屯地のリノリウム張りの廊下を、佐々岡一等陸佐に案内されながら歩く。先ほどエントランスで見せた多弁さはすっかりとなりをひそめ、彼はしっかりとした足取りで、廊下を奥へと進んでいく。

 その思いのほか早い歩く速さについてくのはなかなかしんどかった。


 陸上自衛隊員。もし、誘われたとしても、僕は絶対にならないだろうな。

 そんな確信が静かに僕の中で出来上がった。


「ここです」


 そんなことをうんざりと思ったその時、佐々岡一等陸佐は急に立ち止まった。

 応接室と書かれた札が掲げられているそこ。

 学校ののような感じがそこはかとなくするその前で、きゅっと、宗介兄さんは早稲田カラーのネクタイを締め上げた。


 そして、僕の方に視線を促す。


「行こうか。青志くん」


「……うん。宗介兄さん」


 僕も気合いを入れようと、肩を張ったその時だ。

 いきなり尻を後ろから蹴られた。


 蹴ったのは他でもない旭兄さんだ。


 彼はにやにやと意地の悪い笑顔を顔に浮かべて、睨み返す僕を見ていた。

 どういうつもりなのだろうか。僕、何か旭兄さんの気に障るようなことをした覚えはないのだけれども。

 訳も分からず尻をさすっていると、しょうがないなと彼は溜息を吐いた。


「あのな、青志。お前、今からどういう気持ちで、彼女に会いに行くつもりなんだ?」


「どういうつもりってそれは――謝罪しに」


「ちげーだろ。お前」


 もう一度、今度はさすっている手ごと、旭兄さんの蹴りが入った。

 駐車場まで吹っ飛ばすような本気のものではない。

 軽い、冗談めいたものだ――けれど、痛いモノは痛い。


 なんだよと言い返そうとしたところにまた蹴られた。

 とほほ、いったいなんだって言うんだろう。

 兄さん、こっちが真面目な雰囲気で行こうとしているのに、なんでそんな茶々を入れてくるのだろうか。


 すると――彼は腕を組んで、いつもの傲岸不遜な感じで僕に向かって言った。


「まぁ、勢い余ってヤッちまいそうになったとはいえ、お前は彼女を救ったんだ。それは間違いないことだ。お前は彼女にとっての王子様だ。いいか、今は結果だけを考えろ」


「結果という意味なら、僕は彼女を殺そうとした」


「殺したいほどアイラブユーってことだろ」


アッキーさすがにそれは古いよ。お兄ちゃんの世代の殺し文句です」


 光太兄さんが旭兄さんをたしなめる。

 古臭くなんかねえよと旭兄さんは怒鳴ったけれど――正直、僕も兄さんの殺し文句はちょっと古いなと感じてしまった。


 本当に、よくこんなので、女性たちはこの人のことを好きになると思う。

 それでなくてもロクデナシなのに。

 いったい何にその胸はときめくのだろう。


 人類にとっての永遠の謎だ。


 けどたぶん、旭兄さんが語りたいのは、彼だけが知ることのできる、その永遠の謎の中に属することなのだと思う。それを、彼は彼のやり方で、僕に伝えようとしているのだと、そんな風に僕は感じた。


 蹴られた尻を払って、彼の方を向く。

 気がつくと、にやにやと佐々岡一等陸佐が旭兄さんを見ているのに気がついた。

 が、今はどうでもいいから放っておくことにした。


「お前、彼女のことはどう思ってんだ」


「どうって」


「おっし、パンチがいいか」


 旭兄さんがグーパンを作る。

 振り上げてこちらにそれが振ってくる前に、待って待ってと僕は降参の手を上げた。


 しかし、知るものかと旭兄さんはそれをこちらに振りぬいてくる。

 えぇい、ままよ――。


「放っとけない!! 放っとけないって感じ……です!! 恋とか愛とか、そういうのかどうかは、ちょっとわかりません!!」


 ぴたりと、兄さんの燃える拳は、僕の鼻先で止まっていた。

 同時に満面の笑顔が兄さんの腹の立つ顔には満ちていた。

 そうそう、その言葉を待ってたんだよと、そんなことを言わんばかりに。


「おう、なんだ、甘酸っぱいじゃないか」


「甘酸っぱいねえ」


「ふむ、甘酸っぱい」


「ははは。甘酸っぱいですな」


「皆、ひどくない!?」


 旭兄さんの感想を皮切りに、光太兄さん、宗介兄さん、そしてついでに佐々岡一等陸佐までが、僕のその感想を笑い飛ばす。なんてひどいことをする兄なのだろうかと、恨めしそうに旭兄さんを睨むと、引っ込めた右腕の人差し指を立てて、僕に言った。


「昨日の夜、兄貴が言ってた通りだ。人の心に寄り添え青志」


「……けど、それは、僕の感情だろ」


「お前の感情も人の気持ちだ。お前、自分が幸せになる価値のない、くだらない断罪者バケモノだなんて思ってないだろうな?」


 そんなことは――思っている。


 僕は、多くの人を傷つけた。

 いや、傷つけるだけじゃない。

 破壊し、蹂躙し、そして、殺戮した。


 おおよそ、人間と共に歩んでいける、そんな本性を持った断罪者バケモノではない。

 さっき佐々岡一等陸佐が釘を刺してきた通りだ、僕はそもそも、自分の力を制御することのできる、強靭な意思を持った断罪者バケモノではない。


 再び、また、あの暗い感情に囚われたなら――僕は。


 そんな僕の肩を優しく叩くものがあった。

 僕の隣に立っている、宗介兄さんだった。

 彼はせっかく整えたネクタイが乱れるのも気にせず、僕の肩を何度も、何度も――なんというか、励まし方が分からないという感じで、何度もたたいた。


 えっと、これ――どうしたらいいの。


「に、兄さん?」


「おいおい、兄貴、マジかよ」


宗介そーちゃん青志あーちゃんを励ましたいのは分かるけれど、それはなんか違うよ」


「……違いますか?」


 光太兄さんに言われて、宗介兄さんが僕の肩を叩くのをやめた。

 そして、また何事もなかったように、彼は早稲田カラーのネクタイを締めた。


 ふむ、と、呟くいつもの鉄面皮。

 それから彼は僕に視線を向けた。


「私がどうやって、四言六苦の儀式に耐えたのか。その話をしましょうか」


「……え? 今、それ、必要な話ですか?」


「参考になるかと思いまして」


 なるかなと旭兄さんと光太兄さんに視線を向ける。

 すると二人は、それはいいという感じで大きく頷いたのだった。


 なるんだ、参考に。


 絶対にならない気がするのは僕だけなんだ。

 まぁ、兄さんたちがそう言うのなら、僕は黙ってそれを聞いておくことにしよう。

 お願いしますと僕が頭を下げると、分かりましたと律義に宗介兄さんは返した。

 いつもの兄さんだ。これから、部屋の中の女性に頭を下げに行くというのに、そんな気負いは少しも感じられなかった。


 なんだかなぁ。


 得意満面でも、我が意を得たりでもなく、いつもの鉄面皮。

 宗介兄さんは自衛隊のリノリウムの床が照り返す、蛍光灯の光に照らされる顔をこちらに向けて、真顔でその時の心境を告白した。


「私があの儀式に挑んだ時――想っていたのは光太兄さん、そして、旭くん、青志くん、君たち二人のことでした」


「……そうなんですか?」


「はい。母さんは、青志くんを産んで――まぁ、その、いろいろありましたので」


 言葉を濁した。

 僕たちが同じ母から産まれたのは間違いないらしいが、どうも彼女の生死については、口にするのも憚られる何かがあったらしい。

 もちろん、そんな濁し方をすれば、どうなってるのか、どうなったのか、大方の推測はついてしまうのだけれども。


 兄弟の生温かい気遣いが、嬉しいような、歯がゆいような。

 しかし、今はそんなことを考えている時ではない。


「兄さんは、当時既に殺戮部隊のブレーンとして、陸上自衛隊と死闘を繰り広げていました。おっと、この話は佐々岡一等陸佐の前では、あまりよろしくないですかね」


「ははは。構いませんよ。今は身内じゃないですか。日米だって、こうして仲良く今は手を取り合っているんですから、遺恨は水に流すとしましょう」


 といいつつ、佐々岡一等陸佐の眼は笑ってなかった。


 怖い人だ。


 話は少し脱線したが、再び宗介兄さんは話始める。


「兄さんは、初めて四言六苦の呪いに打ち勝って、記憶を失わなかった人なんですよ」


「……そうなの?」


「そういうことになっているかな。副作用で、この通りずっと子供のままだけれど。実は凄いんだよ、お兄ちゃん」


「まぁ、そういう訳でして。兄さんは、私のことを覚えていましたし、母さんのことを覚えていました。組織の作戦によりあまり自由ではない時間を縫って、私や母さん、もちろん旭くんや青志くんに、何度も会いに来てくれたんですよ」


「……知らなかった」


「当たり前だろ、記憶を失ってたんだから」


 旭兄さんがちゃちゃを入れた。今、いい所ですからと、宗介兄さんが無表情のまま顔を向けると、へいへいと彼は興味なさそうにそっぽを向いてしまった。


「私は兄さんと違って、比較的体が出来上がってから、四言六苦の儀式を受けました。その期間が長かったからですかね。その儀式を受けながら、思ったことは――兄さんの力になりたい。君たち二人の力になってあげたい。それだけでしたよ」


「……それだけ?」


「はい。それを思っているうちに、あっという間に、四苦を刻むのは終ってしまいました」


 えっと、だから、つまり――。

 宗介兄さんは、どういうことがいいたいのだろう。


 どうも要領を得ない宗介兄さんのアドバイスについつい難しい顔をしてしまう。

 そんな時、仕方ないなぁ、と、光太兄さんが声を上げた。

 見るとまた、幼児を装っていた時には絶対しなかった、大人びたポーズを取っている。


 ただ、やっぱり見た目のせいだろうか。

 ちょっとその姿は頼りなく僕の目には映った。


「じゃぁ、宗介そーちゃんが語ったことだし、私も自分の時のことを語ろうかな」


「……それより、どういう意味か翻訳してくれると助かるんだけれど」


青志あーちゃん。こういうことはね、ちゃんと自分で答えをみつけないといけないんだ」


 流石は雪下家の長男だ。

 いいことを言うなぁ。


 けど、単に自分もこの流れで話したいだけだよね。

 そんな感じがひしひしと感じられた。


 まぁ、気になる話ではあるし、聞いておいてもいいように思う。

 お願いしますと頼むと――なんだか久しぶりに、うん、と、歯切れのよい返事が、光太兄さんの口から飛び出してきた。ちょっとだけ、本当にちょっとだけびっくりした。


「私が儀式を受けたのはこの通り五歳の時のことだった。そりゃ五歳児だから、自我も何もない訳で――よくそんな状況で意識を保つことができたなって、後になってから思ったもんだよ。というか、あの男も驚いていたしね」


「へぇ」


「それでね。まぁ、じゃぁ、なんで私は意識を保つことができたのかって考えるとね。ちょうどあの時、お母さんのお腹の中に、宗介そーちゃんが居たんだよ」


 宗介兄さんが。

 思わず顔を見ると、あの鉄面皮の宗介兄さんが、気恥ずかしそうに鼻の頭を掻いていた。よしてくれとでも言いたげに、顔が徐々に赤らんでいく。


 光太兄さんに宗介兄さんが懐いているのは、なんだかこれまでのやり取りや、明かされた事実で把握していたつもりだった。けれど、こんなあからさまに照れるのは、ちょっと見たことがなかった。


 というか、照れすぎじゃありませんか。宗介兄さん。


「美しい兄弟愛ですな。どうです、その兄弟愛を、国を守るのに使うというのは」


「今、いいところですので、ちょっと自衛隊の勧誘はお控え願えますでしょうか」


「ははは。これは手厳しい。流石は宗介さんの兄上だ。しかし、諦めませんよ」


 佐々岡一等陸佐の勧誘を躱して、光太兄さんは僕を見る。

 慈愛に満ちた、子供の顔には不釣り合いな兄の顔をしていた。

 こんな顔を、堂々と僕に向けてくれることが、今となっては少しうれしい。


 そして――。


 なんとなく、宗介兄さんと、光太兄さんの言いたいことがよく分かった。


「さて、上の二人が言ったことですし」


「この流れだと、アッキーも言うべきだよね」


「はぁっ!? ちょっと待て、なんでそういう話になるんだよ!!」


 金髪に日焼けという埒外ヤンキー兄さんがつんざくような声を上げる。

 兄弟相手に、こんな風に狼狽するのを、僕は――正しい兄弟関係を教えられたその日から、よくよく目にしている。というか、ほぼ毎日見ていた。


 なんというか、本当に、僕の前でこの三人は、自分を偽ってくれていたんだな。

 僕の平穏を守るために、尽力してくれていたんだな。

 そう思って、少しだけ――こんな笑えるやり取りなのに、ほろりと泣けた。


「いいだろ俺は!! ていうか、ぜってぇ言わねえ!!」


「男らしくないですね。むぅ、青志と同じく、教育を間違えましたか」


宗介そーちゃん。気にしちゃダメだよ。というか、照れてるだけだし」


「照れてねえよ!! というか、アンタら二人がちょっと頭どうかしてるだけだろう!! よくそんなこっぱずかしいことを軽々しく口にできるよな!!」


「兄弟ではありませんか」


「兄弟じゃない」


「うがーっ!!」


 旭兄さんが咆哮した。ここ、一応自衛隊の基地の中なんだけれど、大丈夫なのかな。

 このまま変身して暴れだすのじゃなかろうかなんていう不安をよそに、やってられるかという感じに、旭兄さんは僕に背中を向けた。


 その頼もしい、兄貴の背中を僕に向けた。


「とにかく、俺は言わん!! 青志、おめえもう、馬鹿兄貴たちのやり取りで、だいたい答えは分かってるんだろう!!」


「……えっと、なんとなく」


「だったらお前、説明させんな恥ずかしい」


 けど。

 男らしい、兄の背中に、僕は戸惑いの言葉を投げてしまった。

 どうしても投げずにはいられなかった。


 なぜかって、それは、僕だけが兄弟の記憶を失ってしまったからだ。

 末っ子の僕だけが、家族への愛を忘れてしまったからだ。


 もし、兄さんたちの言うことがそうなのだとしたら、僕も――。


 そう言いかけた所で、兄さんが振り返った。

 そして、また、鼻先をかすめる寸前に、拳を突き出して笑った。


「馬鹿!! 末っ子ってのはな、我儘で、自分のことだけ考えてりゃいいんだよ!! それで可愛がってもらえるように、世間ってのは出来上がってんだ!!」


「……った!!」


 拳の先から人差し指が伸びて、僕の鼻先を弾いた。


 本当に、この兄さんは。


 兄さんは。


 言わなくたって、言ってくれなくたって、もう、そんなの、分かってるよ。

 何度僕が兄さんの部屋に入って、あの写真立てを見たと思ってるんだ。

 あの日兄さんが僕のためにどれだけ体を張ってくれたと思っているんだ。

 

 もう兄さんの気持ちなんて、語るまでもなく分かっている。

 なのに、そんな風な追い打ち。


「だから、てめーが寄り添うもんは自分で見つけろ。いいな、青志」


「……分かったよ、兄さん」


 卑怯だなって、僕は思った。


◇ ◇ ◇ ◇


 部屋の中で少女は待っていた。

 制服を着た女性自衛官と一緒に、僕たちが来るのを待っていた。

 扉を開けた時に、少女の体が小さく震えたのを僕は見た。


 その恐怖が、何から来るものなのか――。

 想像できない僕ではなかった。


 だって、あんな濃厚な死の恐怖を味わって、それで無事にいられるわけがない。

 僕だって、兄さんたちが居なかったら、こんなに簡単に自分を受け入れられなかっただろう。


 けれども強いその少女は。

 決して現実から目を背けぬと決めたその少女は。

 僕たちが入ってくると、真っ直ぐにその冷たい瞳をこちらに向けた。


「……はじめまして。久留木阿佐美さんですね」


「……はい」


 阿佐美さんは、パイプ椅子に座って僕たちを待っていた。

 彼女の背後の白いカーテンが、微かに開けられた窓から入り込む風に揺れて、波打っている。西日を微かに受けて黄色くなったそれは、まるで砂浜に寄せて返す波のように僕の眼には映った。


 そんな温かい背景の中で、彼女は今日――その向ける先のなかった瞳の奥の殺意を、向けるべき相手を見つけ、よりいっそう美しく冷たい顔をしていた。


 ――本質的性。


 思わず、僕の中に眠っている、内なる自分が疼いていた。

 放っておけないと思うのは、彼女がそんな顔をするからではないか。


 いや、違う。

 断じて違う。


 僕はただ、彼女の力になりたかった。

 その悲しみに染まった彼女の顔をいつまでも見ていたかったのではない。

 彼女にそんな顔をさせるぽっかりと胸に空いた孤独の穴を埋めてあげたかった。

 僕が彼女に抱いた感情はそっちなのだ。


 だってそうだろう。

 こんな愛らしく、美しく、そして、可憐な少女が、悲嘆と怒りに苦しんでいるのを――男だったら放っておける筈がない。

 筈がないんだ。


 だから僕はここに来た。

 宗介兄さんに相談した。

 彼女に贖罪を果たすために。


「私は雪下宗介。貴方のお父さん、久留木浩平くるきこうへい一等尉を殺害した者です」


「……じゃぁ」


「はい。私が――処刑人サンソンです」


 阿佐美さんは立ち上がった。

 そのまま、座っていたパイプ椅子を握りしめて、雄たけびと共に宗介兄さんに向かってそれを投げつけた。


 宗介兄さんは微動だにせず、それを受けた。

 背もたれの縁が兄さんのフレームレスの眼鏡を弾き飛ばし、座席部分が彼の顎を打ち、衝撃で畳んだそれが、兄さんの脚のつま先を潰した。


 けれども兄さんは、それでも兄さんは、毅然としてその場に立ち続ける。

 そうすることが死者への敬意だとばかりに。

 また、彼女の感情を受け止めるのが、彼女の父を殺した自分の役目だとばかりに。


 そんな宗介兄さんの態度は――かえって阿佐美さんを怒らせたようだった。


「どうして!! どうして!! どうして!! どうして父さんを殺したんですか!!」


「私は当時、とある組織の殺戮部隊に所属していました。そのミッションの中で、彼と遭遇し、戦い、そして、勝利した。ただ、その結果論に過ぎません」


「……結果論?」


「はい。私の方が強く、彼の方が弱かった。それだけの話です」


「そんな、そんな簡単に人の死を、片付けないでください!! 父の死を、私たち家族の幸せを奪ったことを――そんな、なんでもない風に言わないで!!」


 阿佐美さんはもう、何もモノを投げるつもりはないようだった。

 兄さんにパイプ椅子をぶつけて、本能的に彼を殺すことが不可能だと理解したようだった。けれども、瞳の奥に燻る殺意は、よりいっそうその熱量を上げている。


 今にもその美しい顔は、涙と共に溶けだしてしまいそうだった。


 そんな顔を見たくなくて。

 見ていられなくて。

 僕は――。


「阿佐美さん!!」


 彼女の名を叫んでいた。


 途端、僕の方を彼女が視る。

 その殺意が、歪んだ狂気が、僕を捉えていた。


 彼女の怒りが冷たく甘美なものに変わっていくのが、僕の本性が感じていた。

 そう考えてしまう、感じてしまう、感じずにはいられない、自分が悲しかった。

 彼女は今、復讐するのにもっとも冴えた、一つのやり方を思いついたのだ。


「……償ってください」


 彼女は呟いた。

 そしてまた、最初にパイプ椅子を投げつけた時のように絶叫した。


「償ってください処刑人サンソン!! 貴方が、本当に人類の味方なのだというのなら、今すぐ貴方の弟を――その隣に居る断罪者バケモノを、断罪して償ってください!!」


「……」


「償え!! 償えよぉっ!! 貴方は、人類の味方なんでしょう!! 私たちを守護する側に回った裏切者なんでしょう!! だったら殺せるはずです!! 断罪者バケモノを殺せるはず!! それがたとえ身内だったとしても!! ねぇ、そうでしょう!! 処刑人サンソン!!」


 半狂乱、髪を振り乱して叫ぶ阿佐美さんの姿は、見ていられなかった。

 けれども僕はそれから目を背けてはいけないのだ。

 宗介兄さんもまた、彼女から目を背けていない。


 だから――。


 雪下兄弟として。

 起原の会を裏切った者として。

 人類にかつて敵対していた者として。

 そして、今、人類の側に立つと決めた者として。


 贖罪を果たさなければならない。

 そう、感じた。


「それについてはお断りする」


 兄さんは言った。

 きっぱりと、少しの迷いもなく、また、いつもの鉄面皮で、彼は言った。

 慈悲もなかった、思いやりもなかった、同情もなかった、懺悔もなかった。


 ただ、その顔の中には、矜持があった。

 決して譲れぬ者を守るために、戦うと決めた者の矜持があった。


「私は家族を守るために戦った。そして、私は家族を守るために人類の側に寝返った。家族を守る、ただそれだけのために私は戦う。これからも、この先も、それは絶対に変わることのない、信念であり、矜持なのです」


「……ふっ、ざ」


「貴方のお父様も!! 貴方たちを守るために戦った!! 私もまた家族を守るために戦った!! ただ私が強く、貴方のお父様が弱かった!! それだけの話です!! 私にそれを命じるということは、お父様の矜持と決意さえも踏みにじることになる!! それは私も本意ではない!! 故に、あえて言わせていただく!! 私は、家族を断罪しない!! 貴方たち家族への償いは、違う形で行わせていただく!!」


 普段、声を決して荒げることのない兄さんが、激しい口調でそう言い切った。

 顔はいつも通り。黒いスーツは少しも揺れない。早稲田カラーのネクタイもだ。

 兄さんはそう言い切って、それから、静かに阿佐美さんに背中を向けた。


 もはや言うことは何もないという風に。


 いや、違う。


「呪われろ!! 呪われろ!! この裏切者!! 人類にも、断罪者バケモノたちにもなれない呪われた処刑人サンソン!! 呪われてこの先の人生を生きろ!!」


 その怨嗟を背中に受けるために、宗介兄さんは背中を阿佐美さんに向けた。

 正面から浴びせかけることのできない汚辱の言葉に。弱者の嘆きをあえて背負うために、兄さんは阿佐美さんに背中を向けたのだ。


 会おう、と、宗介兄さんは僕に言った。

 そして償おうと、宗介兄さんは僕に言った。

 どう償うのかと問うと、四日前の彼は、ただ、会うだけでそれは成せると僕に言った。


 確かにその通りだった。


 どんなに言葉を尽くしても、阿佐美さんの心を兄さんが癒すことはできないだろう。

 どんなことを行っても、彼女の壊れた心と家庭が復元されることはないだろう。


 ただ兄さんにできるのは、その怨嗟の声を受け止めること。

 そして――果たすことのできなかった、阿佐美さんのお父さんの矜持を失わずに戦い続けること。


 どこまでも宗介兄さんは不器用だった。

 やはり、宗介兄さんだった。

 この人はいつだって――こんな寄り添い方しかできない。


 けれどもきっと、彼でなければ人類は救うことはできないのだ。そして、この矛盾した感情にとどめを刺すこともまたできないのだ。


「青志くん」


 宗介兄さんが僕の名を呼んだ。

 背中を向けたまま、宗介兄さんは僕に言った。

 旭兄さんとは違う、男の背中で、僕に語った。


「あとは君の出番だ。彼女を再生できるのは、君だけだ」


「――はい」


 その言葉を残して、兄さんは応接室から退出した。

 扉が閉まる音。それと共に、嗚咽する阿佐美さん。

 彼女の肩を抱こうとして、振りほどかれる自衛隊員の女性。


 そんな彼女を遠ざけて、僕はそっと――阿佐美さんの横に座り込むと、その小さく震える肩を静かに抱いた。


「阿佐美さん。ごめん。僕の兄さんが君のお父さんにしたことを、僕は本当に申し訳なく思っている」


「……あっ!! あぁっ!!」


 僕を振り払おうとして阿佐美さんは体を激しく動かした。

 けれどもそれに負けないように、僕は強く、強く彼女の体を抱きしめた。


「離して!! 離して断罪者バケモノ!! 私に触らないで!! ケダモノ!!」


「阿佐美さん!!」


「申し訳ないと思うなら殺してよ!! 貴方があの裏切者を断罪してよ!! できないんでしょう!! できる訳ないわよね!! だって貴方の本性は――!!」


「そうだよ、僕は断罪者バケモノだ。君にあの日見せた通り、内面にすべてを凍り付かせようとするどうしようもないケダモノを飼っている。そういう存在だ」


 そんな自分を受け入れる。

 そんな自分の本性を否定して、そして、人であるべしと肯定する。


 何故――。


 兄さんたちが、そうしたようにだ。

 自分が人である理由。心まで断罪者バケモノとならずに、踏みとどまる理由。

 それがそこにあるからだ。


 それがないから、僕は四言六苦の儀式に負けて、それまでの自分を失った。

 その身に自分を失うような、残酷な二苦を植え付けられた。


 けれどもきっと、そうなのならば。

 君が僕の人間側に踏みとどまる理由なのだとしたら。


「阿佐美さん、僕たちやっぱり友達になろう」


「ふざけないで!!」


「放っておけないんだ!! 君のことを!! そうやって、自分を壊そうとしている君のことを見ていられないんだ!! どうしようもないんだ!!」


 だから頼むよ。

 そう呟いて、僕は彼女の顔を真っ直ぐに見た。


 あの日みた、最後の彼女の顔。

 恐怖に引きつった少女の懇願の顔は底にはなかった。

 怒りに震え世界のすべてを呪う少女の顔はそこにはなかった。


 助けを求めるか弱い乙女の顔がそこにはあった。


「だから、友達になろう。同情も、憐憫も、下心もなく、僕は君のことが気になるんだ」


「……青志先輩」


 僕はきっと、誰かみたいにプレイボーイにはなれないようにできている。

 そんなことを歯にひっかかるような言葉を吐きながら痛感した。


 腕の中の阿佐美さんの静かな鼓動だけが、僕の空虚な心の穴に響いていた。

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