第9話 処刑人

 ――死屍累々。

 ――此世地獄。

 ――唯々地獄。

 ――本質的性。


 四言六苦を刻むは己を失うほどの痛みと聞いた。

 だが、それほどのものではなかった。


 思った以上の苦ではない。

 あるいは、何かオレの中で既に死んでいるのか。


「ほう。二人目だ。一人目は泣け叫びながらなんとか耐えたが、お前は凄い、ただの一度も喚かなかったな」


「……これしきのこと」


「そしてはっきりと自我を持っている。ふむ、術式に不備があったか」


 魔術道具について確認する老爺。

 このままでは、いつまで経っても宿命を刻む儀式は終わりそうにない。

 こんなものはさっさと終わらせてしまいたかった。


 オレには会いに行かなければならない人たちが居る。


 慕う兄が居る。

 可愛い弟たちが居る。


 だから――このオレの生は玉鋼の如き忍耐でできていた。


「残りの二苦を選ばせてくれると聞いた」


「……む、ティーチャーに聞いたのか」


「頼む。望むは、二つ」


 ――堅忍不抜。


 ――不撓不屈。


 それこそが、オレの望む在り方だった。

 全て守る。オレが守る。兄も、弟も。

 そして、守れぬならばその時は――責任を持ってオレが壊そう。


「……よかろう。しかし、その言葉、反骨の相が透ける」


「兄と弟を人質に取られて、どう反骨せよと」


「……然り。愚問であった。忘れよ、被検番号YU-02」


◇ ◇ ◇ ◇


「……本当に」


「……申し訳ございませんでした」


 僕は頭を下げていた。

 なぜかリビングで頭を下げていた。

 旭兄さんと肩を並べて、宗介兄さんとその隣に座る事情を知らない光太に向かい、深々と首を垂れていた。


 どうしてこうなったのか、なぜあんなことをしたのか、何がどういう理屈で僕の体があんな断罪者バケモノに変わってしまったのか。


 もう何もかもさっぱりと分からなかった。

 分からなかったがとりあえず、僕は宗介兄さんに頭を下げた。

 総ての責任をひっちゃぶって、この騒動を収束させた――処刑人サンソンに。


「頭を上げなさい、旭くん、それに青志くん」


「そうは言いましても」


「今回の一件、ちょっと俺もやりすぎちまったというか。自重しなくちゃならない所を、調子に乗って大暴れしちまったっていうか。いや、ほんと、兄貴たちと陸自のおっさんたちには死んでも詫びきれねえっていうか」


「青志くんを除いて、私たちが犯した罪は、どうあっても贖うことのできるものではありません。この国の人たちのためにも、そして、私たちが殺めてしまった人たちのためにも、この身は既に護国の刃であるということを忘れては困ります。いいですか旭くん」


「肝に銘じます」


「そうだぞあっきー、きもにめーじろ」


「……てっめ、元はと言えば誰のチョンボで始まった騒動だと思ってんだよ」


 旭兄さんが光太を睨む。

 はからずとも、僕たちは頭を上げることになった。


 宗介兄さんの隣に座った光太は事態のことなど何も分かっていないのだろう。どころか、隣にいつもの鉄面皮で座っている実の兄が――あの処刑人サンソンの中の人であるということにも気がついていないに違いない。


 いやはや。

 いやはやいやはやである。


 旭兄さんがあの――火炎男ヘクセの中の人だというのにも驚かされたけれども、それ以上に世間を賑わす正義のヒーローその正体が、我が家の長男であるということに、僕はもう言葉を失ってしまったた。

 ついでに言うと、その事実を認識したその次の瞬間、僕は意識も失っていた。


 僕が眠っている間、旭兄さんは宗介兄さんに、死んだ方がましだというくらいにしこたまぶん殴られて、成敗されたそうな。

 まぁ、再生能力のおかげで、今はすっかりと綺麗に元の顔である。

 かくいう僕も、あんな激しい戦闘をした後とは思えないほど普通の顔をしていた。


 目の前に置かれているマグカップ。

 そこに注がれた麦茶を覗き込んで顔を確認する。

 やはりそこに映っている表情は、昨日の僕と変わらない。


 アスファルトを溶かし、車を爆発大破させ、辺り一帯を火の海に帰る。そんな激しい戦いを繰り広げた後だというのに。超常的な、ハリウッドの特撮映画顔負けの濃厚バトルを繰り広げた後だというのに、その面影もなくいつもの僕のモノだ。

 せめて擦り傷位残ってもいいのにと思って、マグカップを色んな角度から覗いてみても、それはやっぱり変わらなかった。


 本当――断罪者バケモノなんだなと、あらためて僕は自分のことを感じる。


 そんな時だ、宗介兄さんのフレームレスの眼鏡が眩しく光った。

 処刑人サンソンが黒い外骨格の中で光らせる緑の光とは違う、研磨されたレンズの縁が発した少しコミカルな光だった。


 こんなタイミングで、眼鏡をずり上げるようなこともするんだな、宗介兄さん。


「青志くん。大切な話の最中です、その態度はどうなのですか」


「あっ……すみません」


「そうだそうだ。あーちゃんも、しらなかったとはいえ、やりすぎだよ。はんせいしなさい。めぇっ、だよ」


「光太まで。はい、ごめんなさい。僕はやり過ぎました」


 長男と末の弟に窘められる。


 三男坊は上と下から挟まれて、いろいろと難しい立場だとは思う。

 けど、正直に言って気が重い。なにせ、こっちはまぁ――自分の中にあんな断罪者バケモノが棲んでいるなんて思ってもみなかったのだから。


 宗介兄さんと光太の視線は穏やかにならない。

 彼らは僕に許す、とも、許さない、とも言ってくれなかった。


 長い沈黙を切り裂いたのは、隣に座っていた旭兄さんだった。


「仕方ねえだろ。青志が覚醒するのは今回が初めてだったんだ。それに、刻まれた二苦だって相当にえげつない。絶対零度は分かっていたが、絢爛殺戮だぞ」


「あの老人もまた、厄介な殺人欲求を宿命として刻んでくれましたね」


「んー、そうだねぇ。じょうじょうしゃくりょうのよちありかもだね」


「というか、宿命をどっかの誰かがさっさと予定スケジュールで知ってりゃ、こんなことにはならなかったんじゃねえのか」


 なぜか光太を睨む旭兄さん。

 そんな視線を向けたら光太が驚くじゃないか。

 やめてあげてよ。


 僕を庇ってくれたのは分かったけれど、その視線を向けるのは――雪下家の長男である宗介兄さんだ。そして、僕が知らなくてはいけない、自分のことを、全て知っているのも彼だ。問い詰めるのならば、光太ではなく、彼だろう。


 謝罪はすでに済ました。

 だから僕は逆に兄に謝罪を求めることにした。

 僕のことを、僕たちのことを、黙っていたことに対する謝罪を。


 いや、説明を。


「どういうことなのか、説明してくれるかな。宗介兄さん」


「ふむ。どう思いますか、光太さん」


「はなすべきときがきたということだね。そーちゃん」


「なんでそうやって、宗介兄さんも、旭兄さんも、なんでもかんでも光太に話を振るんだよ。光太は関係ないでしょう」


 三人が顔を見合わせる。

 光太は暗い顔をし、旭兄さんはなんだか意地の悪い顔をしていた。対して、残った宗介兄さんは、いつもの鉄面皮のままで僕をじっと見つめている。


 なんだこの空気。


 この僕だけを阻害したような、三人だけが共有する空気は。

 どうして何も知らない光太が居るのに、そんな空気がするのだろう。


 意味が分からず、そして馬鹿にされているようで――僕は机を叩いた。

 手前に置かれていたマグカップが跳ね上がって、ぐらりぐらりと左右に揺れた末、なんとかこけずに元の状態に戻る。


「あーちゃん、はんこーきだー。どうしよー」


「私の育て方がまずかったでしょうか」


「アンタほとんど外回りで家に居つかなかったじゃねえか。責任があるっていうなら、無責任にぶらついてた俺と、無責任に道化を演じていたどうしようもないバカのせいだよ」


「ひーどーい。アッキー、ひーどーいー」


「うっせえ、黙れ、このクソガキ」


「兄弟喧嘩はいいから、早く、本当のことを教えてくれよ!! 兄さん、僕たちはいったい何者なの!! どうしてあんな断罪者バケモノに変身することができるの!! 僕たちは普通の兄弟じゃなかったの!! どうして兄さんは処刑人サンソンなんて名乗って、断罪者バケモノと戦っているの!! 断罪者バケモノの正体はいったい何なの!! 答えてよ兄さん!!」


 だって、貴方は僕たち兄弟の屋台骨だ。

 この雪下兄弟を支える長男だ。

 この家庭の在り方を造った人だ。


 だったら、責任を持って、どうしてこんなことになってしまったのかを、この歪な家族のありかたを僕に説明する義務がある。そうじゃないのか。そうだろう。

 真っ直ぐに僕は宗介兄さんを見た。


 今日も今日とて、処刑人サンソンと同じ色をしたダークスーツに身を包んだ宗介兄さんは、今朝と同じ鉄面皮を僕の方に向けていた。感情の起伏が少ない彼は、こんな時でも柳に風、暖簾に腕押し、涼し気にして表情を崩さない。


 彼はまた、先ほどのように眼鏡を少し掌でずり上げた。そして、膝を手の上に載せたまま体ごと僕の方を向いて、それからゆっくり口を開いた。


「質問は一つずつです」


「そうだよ、あーちゃん、ひとつずつ」


「そうだ、青志、一つずつがウチの家訓だ」


「そんな家訓、今初めて聞いたよ」


「教えていませんでしたか。すみません。やはり、私の教育不足ですね」


「きにやまないで、そーちゃん」


「そうだ、気に病む必要はねえ、宗介兄さん。言うべき人間が、言わずにずっと逃げてるのが悪い。そんだけの話だ」


 だから、また、兄弟喧嘩を始めないでくれ。

 僕は今、家族について、大切な話をしているのだ。

 だというのにこいつらと来たら。


 ――殺戮してやろうか。


 そう思った時、僕の首に宗介兄さんから伸びる、黒い外骨格――それと同じごつごつとした黒色の骨のようなものが絡みついていた。

 まったくそれが出る瞬間を、僕は知覚することができなかった。


 同時に、宗介兄さんは、処刑人サンソンの姿になっていない。

 やっぱりまったく、僕には何も、この状況が理解できなかった。


「擬態を解除しなくても、この程度のことはできます」


「……聞きたいのは、その話じゃないんだけれど」


「すみません青志くん。けれど、君に刻まれている二苦は、僕たち三人と違って、より断罪者バケモノに近しいモノです。兄弟にこのようなことをするのは心苦しいのですが、少しでもその兆候が表れた時には、私も躊躇なくこの力を行使します」


「……どうして」


「それが私の贖罪であり、組織を裏切った理由であり、家族に対する愛だからです」


 落ち着いてくださいと、宗介兄さんは言う。

 処刑人サンソンの顔をしていない。いつもの無表情な宗介兄さんだ。

 どんなに暑い日でも、ダークスーツを着て家を出ていく宗介兄さんだ。

 誕生日にも笑わない宗介兄さんだ。

 漫才を見てもピクリともしない宗介兄さんだ。


 けれども、内側でまた暴れ始めた断罪者バケモノとしての自分が、目の前の処刑人サンソンに対する畏怖により急速になりをひそめていくのが感じられた。

 どうやら、僕は絶対にこの処刑人兄さんに勝つことはできないらしい。

 それは動物的な直感から分かることだった。


 殺戮の衝動が鎮まるのと同時に、僕の首を戒めていた黒い鎖も外れた。


「カーボンファイバーによる強化外骨格と武装です。私の異能は、炭素を原子レベルで操ること。旭くんと違って使い勝手が悪いですが、そこは体術でカバーします」


「嘘つけ、くっそエッグい能力のくせして」


「能力と知力と技術は組み合わせて初めて有効な力になります。あのように、力任せに能力に頼るやり方をしていてはいけませんよ旭くん」


「またきもにめーじることがふえたね、あっきー」


「……っ!! アンタにゃ、ほんと敵わないよ!!」


 さて、と、宗介兄さんが咳ばらいをした。

 光太がその隣の席に座り僕の方を見る。

 旭兄さんは頬杖をついてそっぽを向いた。


 ようやく家族会議が始まる。僕が知らなかった、今まで知らされることのなかった、家族会議が――。


「先ほどの質問を正しく分解しましょう。一つずつね」


「……はい」


「一つ、本当のことを教えて欲しい。これは内容が広範にわたります。ですので、後の質問に対する回答を総合してその答えとさせてください。もちろん、足りない部分は適宜補うつもりですし、追加で質問も受け付けます」


「分かりました」


「二つ、僕たちはいったい何者なのか。これは私よりも語るのに適切な人が居るのでその方にお譲りします」


「だってさ?」


 なぜか旭兄さんが皮肉っぽい声を上げた。

 その、適切な人がこの場に居るとでも言いたげだったが、誰も黙り込むばかりで、それに応える者はいなかった。

 調子のいい光太までも、何も言わずに黙っていた。


 咳ばらいを宗介兄さんがして、話を続けた。


「三つ、どうしてあんな断罪者バケモノに変身することができるか。これについては、私と旭くんでも回答することができます。どちらか選ぶことはできますが」


「俺は嫌だぜ」


「では、私から説明しましょう」


 宗介兄さんは膝の上に置いていた手をテーブルの上に持ち上げた。そして、すいと指先を振るうと、先ほど僕の首を拘束したのより、少しばかり細い径をした炭素繊維の糸を伸ばした。そして、鞄の中ら一枚のコピー用紙を取り出すと、彼はその上に炭素繊維の先を擦りつけてなにやら描写し始めた。


 鉛筆と同じ要領なのだろう。炭素繊維を紙の上に擦りつけて描いているのだ。しかし、兄さんが器用なのか、それとも、そういう能力なのか、あるいは技術のたまものなのか。それはレーザープリンターで印刷したみたいに精細な絵だった。


 はたしてそこに描かれたのは――。


「人体図?」


「私たちの体です。おおよそ、基本構造は普通の人間と変わりません。しかしながら、体の組成成分が人間とは変質させられています」


「変質?」


「後天的に置き換えられたのです。私は炭素、旭くんは炎。そして、例外もあります」


「……意味が分からない」


 身体の構成物が置き換えられる。

 つまり、義手義足人工臓器、改造人間だというのだろうか。


 馬鹿なそれではまるで――。


「覚えているかはわかりませんが、青志くんは日曜朝の特撮番組はご存知ですか」


「……何を見たかは覚えていないけれど。知ってる。それだと思った」


「そう、それです。私たちは、とある組織によって作り出された改造人間なのです」


「改造の域を超えている」


「そうですね。炎や氷という事象に体組織が置き換えられるというのは、残念ながら特撮の世界観から大きく逸脱しています。動物や昆虫といった他の生物の遺伝子と掛け合わせるのなら説得力はありますが。ふむ、そうですね、あえてフィクションで私たちのことを形容するなら、伝奇小説の世界が合っているかもしれません」


「伝奇小説?」


「魔術的なモノということです。事実、私たちを改造した老翁は――魔術師を自称し、魔術道具により私の体を改造しました。ですね、旭くん?」


「……あぁ、いずれ見つけ出して、ぶち殺してやる」


 何を言っているのかはさっぱり分からなかった。

 魔術師、魔術道具、体の改造。

 伝奇小説。


 そんな中二病めいた単語が、尊敬する宗介兄さんの口から出てくるのがショックだった。彼に言われてしまうと、信じるしかないのが辛かった。


 兄さんは、絶対にそんな冗談を言わない人だ。


 なんてこった。


 テレビの中で繰り広げられている、日曜朝のような特撮劇場。

 それみたいだと揶揄していたそれが、まさしく僕の正体の答えだったなんて。

 悲しくって、あまりに自分がみじめで、泣けて来そうだった。


 いや、実際、泣けてきた。

 宗介兄さんから告げられた、あんまりな内容に、僕は堪えきれなくなって、両手で顔を覆って、その目の端から流れ出るそれを意味もなく隠した。

 それは焼けるように熱く、とても、冷たい改造人間の体から出たモノとは、僕には信じられなかった。けれども、さきほどの記憶が、兄の言葉が事実であると裏付けていた。


 人々が騒ぐ様を嘲笑していた僕。

 その本質が――まさしく、笑っていたそれだったなんて。


 なんて僕は愚かな存在なのだろう。


「泣くことはありません青志くん」


「どうしてさ!! だって、つまり!! 僕は人を殺すための断罪者バケモノに違いないってことだろう!!」


「正義の味方と悪の怪人。初代にまでさかのぼれば、その本質は同一です。元々、アレはバッタの怪人として改造された者が、組織に反旗を翻す物語です」


「……知ってる。じゃぁ、それが、兄さんだっていうの」


「そうなりますね。もちろん、僕だけではありません」


 顔を上げると、いつの間にかぐちゃぐちゃになった視界の先で、僕を皆が見ていた。


 宗介兄さんが。

 旭兄さんが。

 光太が。


 みんな僕のことを見ていた。

 宗介兄さんの言葉を、そうだと肯定するように。真面目な顔で僕を見ていた。


「幸いながらこの世界は現実。どちら側であるかを決めるのは、脚本家の仕事ではなく私たちの心です。私は、私の心と信念に従って、人類側に立つことにしました」


「五つ目の質問、兄さんが処刑人サンソンをしている理由はそれ」


 はい、と、宗介兄さんは頷きもせず言葉を紡いだ。

 裏切者。口々に、断罪者バケモノたちが処刑人サンソンに浴びせる言葉の真意はそこだ。

 宗介兄さんは、かつて所属した組織を裏切り、人類側につくことにした――。


 けれども、なぜ。


 阿佐美さんは言っていた。

 彼の父を殺したのは処刑人サンソンだと。

 どうして、組織と袂を別つたのか。


「六つ目の質問についても答えましたね。断罪者バケモノの正体は、先ほど述べた通り、改造人間です」


「追加で質問させて兄さん。どうして兄さんは組織を裏切ったの?」


 宗介兄さんが黙り込む。

 彼の眼鏡が傾いて、光の反射によりその瞳が隠された。

 けれどもそれはすぐに元に戻り――代わりに僕ではなく旭兄さんに向けられた。


 旭兄さんが僕の肩に手をかける。

 なれなれしいといつもなら跳ねのける手だった。

 女ったらしで、スロットばかりしていて、とても触れてほしくない、荒々しく汚らしい手だった。


 けれども僕をあの狂気の中から――確かに引っ張り出してくれた手だった。


「それも私が語るより、適切な人が居ます」


「……旭兄さん?」


「どっかの誰かと違って、俺は逃げないぜ。青志。俺が言い出したんだ。もう、こんな生活はまっぴらだ。兄弟四人で組織を裏切ろう。それで、まっとうに日の当たる生活をしよう――」


 いや、と、口ごもって旭兄さんはかぶりを振った。

 目からは彼が視界一切から蒸発させると豪語した、温い涙が零れていた。


「お前だけは普通に生きて欲しかったんだ。青志」


「兄さん?」


「人を殺めることなく、人類の憎悪を背中に受けることなく、ただ、普通の人間として生きて欲しかったんだ。もちろんそんなこと、俺たち兄弟にはできないことだと、あの組織の中に産まれた瞬間から理解していた。覚悟していた。けれども、俺にはどうしても我慢できなかった」


「……意味が、分からないよ、兄さん」


 言葉にならないのだろう、兄さんはそう言うなり僕に抱き着いて、今まで一度だって聞いたことのない吼えるような泣き声を上げ始めた。首から背中に回った腕が僕の体を締め付ける。痛いくらいに、兄の慟哭は僕の体にしみ込んだ。


 どうしていいのかと、光太と宗介兄さんが顔を見合わせる。


 口を開いたのは――宗介兄さんだった。


「青志くん。君は、改造手術のショックで、過去の記憶を失っている」


「失って、いる?」


「過去、自分がどのような生活をしていたか、君は思い出せるかい?」


 言われて、確かに思い出すことができなかった。


 中学校に通った記憶も。

 小学校に通った記憶も。

 幼稚園に通った記憶も。

 日曜朝の番組を楽しみにしていた記憶も。

 父の顔も、母の顔も。大切なものは何一つとして頭の中にない。


 僕の中からすっぽりと僕を構成する何かは気づかぬ内に抜け落ちていた。


 何もかも、最初からなかったようだ。

 いや、強制的に失わさせられた。

 蒸発してしまったようだ。


 ただ、旭兄さんの部屋に飾ってあった、青い服を着て肩を組み、笑いあう僕と彼の写真だけ――それだけが僕に残された唯一の過去にして記憶に感じられた。


 押し寄せてくれる、混乱と絶望に体は震える。

 今度こそ、僕は力強く机を叩きつけて、テーブルの上のマグカップを覆した。


 茶色い液体が茶色いテーブルの上を滑ってフローリングへと落ちる。

 水たまりがひたりひたりと落ちるより早く、僕の体から漏れ出た本質的性――絶対零度の力が、それを凝結させて氷柱へと変質させてしまった。


 こんなにも、いい訳ができようない状況なのに。

 もう、僕は、これを受け入れるしかないのに。

 それでもかみしめた奥歯を解き放って、僕は叫ばずにはいられなかった。


「もう散々だ!! もうまっぴらだ!! これが真実!! これが僕たちの正体!! こんなの嘘っぱちだ!! きっと旭兄さんが仕組んだドッキリなんだろう!! やめてくれよ、やめてくれよ、やめてくれよ!! 僕は――僕は――」


「けれども唯一これだけは、間違いのない真実なんだ」


 はっきりとした口調で彼は喋った。


 いつの間にそんな大人びた口調で喋れるようになったのか。


 そんな悲しい顔をすることができるようになったのか。


 いつも見ていたのに、僕は彼の成長にちっとも気がつかなかった。

 いや、正体に。


 光太が僕を見ていた。

 そして、その小さな口を開いていた。


「長兄として、はっきりとあーちゃん、君に私は言う。私たちは兄弟だ。宗介そーちゃんあっきー青志あーちゃん。同じ母から生まれ、老爺から四言六苦の宿命を刻まれ、それぞれがそれぞれに変質しても――僕たちは間違いなく兄弟だ。だから、僕と宗介そーちゃんは、あっきーの裏切りに協力した」


「組織に与えられた役割と生に反逆した」


「……俺たちが兄弟であり続けるために!! 組織を裏切ってこちら人類側に回った!! 兄貴、このクソ兄貴!! どうしてアンタは長兄の癖に、だらしねえんだよ!! それで、こういう大切な場面で、いつも俺たちを肯定してくれるんだよ!! クソ兄貴!!」


 四番目の問いの答え。

 それを、答えてくれたのは――。


「もう、逃げるのはやめるよ。あっきー、ごめん。私がしっかりしなかったのが、全てよくなかったんだ。そして、宗介そーちゃん。ごめんね。君が大人しいのに私は甘えてしまった」


「言わないでください、光太さん。私は、望んで貴方の計画に賛同しました。事実、貴方が長兄だなんて状況は、青志くんにとって受け入れられない話です。それでは、旭くんと私たちが、命を賭して成そうとしたことが無駄になってしまう」


「……ありがとう。本当に、私は、君たちの優しさに甘えっぱなしだ」


 話を引き継ごう。

 雪下光太は、とても幼稚園児とは思えない顔で僕を見ていた。


「最も大切な問い――僕たちが何者なのかについては、私から語ろう。青志あーちゃん

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