第6話 覚醒
何度殴られただろうか。
何度胃の中のモノを吐き出しただろうか。
何度脳が揺れて気がどこかに行きそうになっただろうか。
何度口の中の生温かさと喉の焼けるよな感覚に眩暈を覚えただろうか。
狂ってしまいそうだった。
狂う隙もなく痛みが僕を襲った。
僕は不良高校生たちの手によって徹底的に蹂躙されていた。
ヒロインのピンチに、格好よく登場した正義のヒーローが謎の力で大活躍。
そんなのは結局、男の子のために作られたおとぎ話に過ぎない。
この世界はどこまでも
弱い者は守れない。
弱い者は何も手に入れられない。
弱い者は誰も顧みない。
弱い者は生きられない。
誰も弱い者を守らない。神はもちろん、世界も、社会も、道行く人も、運さえも、何もかも徹底的に弱者を見放す。弱者をすり潰す。
あばらの折れる音がした。
阿佐美さんを殴った男の人の顔程ある拳が僕の右わき腹を殴っていた。
もう、叫び声も、出ない。呻くだけだ。
血と胃液が口の端から漏れ出た。
「青志先輩!!」
意識を取り戻した阿佐美さんの前で、僕は殴られていた。これから犯す前の前戯にはちょうどいいと、阿佐美さんを殴った金髪男は嬉々として僕に殴りかかった。
喧嘩慣れしている男だった。
拳は重く、たった一発貰っただけで、僕はもう何もできなくなった。
それでも、こいつは僕を立たせて、それから殴る。
何度も、何度も、意味もなく。
まるで、僕の心が折れるのを楽しむように。
弱者が立ち上がってくるのを楽しむように。
戦っても戦っても、立ち上がる弱者を、それ以上の暴力でねじ伏せるのが快感だとばかりに、男は笑って僕に拳を振るい続けた。
「ほらほら、立とうよ、青志先輩ぃ!! でないと、大切な阿佐美ちゃんが、滅茶苦茶にされちゃうよぉ!!」
「もう、止めてください!! 青志先輩は関係のない人です!!」
「関係なくないよぉ!! こいつは俺に喧嘩を売った、俺はこいつの喧嘩を買ったぁ!! なぁ、だったら取引は成立だ!! クーリングオフ、なにそれ、おいしいの!?」
オラ、立てよ、と、男は僕に向かって叫んだ。
もう、そいつがどんな顔をしているのか、見えないくらいに、視界は濁り、血で汚れ、涙で溢れかえっていた。
後悔が押し寄せてくる。
どうしてこんなことをしてしまったのだろう。
どうして彼女に関わってしまったのだろう。
どうして見捨てて逃げなかったのだろう。
どうして僕はここで殴られているのだろう。
違う。全部そんな陳腐なものじゃない。
どうして僕はこんなに弱いのだろう。
たった一人の女の子を守ることもできないくらいに脆弱で、どうしようもなく虚弱で、そのくせ、この世界で正しいのは自分だと勘違いして生きてきた――ゴミムシだ。
ゴミムシに、女の子は守れない。
大切なモノを守ることはできない。
何も思い通りに生きることなどできない。
息をひそめ。
意思を殺し。
死んだ目をして。
社会の中で。
ただ存在することしか許されない。
「ほぉら、がんばれ、がんばれ、青志先輩ぃ。負けちゃやぁよぉ」
土に交じって機械油の味がする。何度目かの地面とのキス。砂利と粘土質の土、コンクリート片、錆びたアルミ缶、枯れた草に湿った苔。
そんなものばかり目に入った。
阿佐美さんを殴った男を見ることもできない――。
僕の中で燃え上った何かは、ふっつりといつの間にか掻き消えていた。
そして、溶け残った蝋燭の滓のような、どうしようもないどろどろとした澱が、代わりに僕の頭の中で固まっていた。
もう、無理だ――立つことはできない。
「んだよ、だらしねぇ先輩だなぁ」
「ねー、ケンちゃん、もうそんなの放っておいて、早くこいつマワそうぜ」
「俺ら辛抱たまらねえよ。こいつ、よく見ると結構可愛いし」
「ビデオ持ってくるように応援呼んだわ。あと、兄貴に頼んでホテル手配して貰った。今日はたっぷり楽しもうぜ、アザミちゃん」
男の取り巻き達が下卑た言葉を並べる。
それでも、僕の中でもう心が燃えることはない。
立ち上がる気力もない、手足を動かす情熱もない。
心は全て冷え切って、ただ、空虚な僕という空が、工場の路地裏に転がっているだけだ。それだけが現実だ。
もはやどうしてここに僕が存在しているのかさえ分からない。
僕はどうしてここに居るんだ。
「オラァ!! 気合入れろや!! 青志先輩よぉっ!! おめぇ、啖呵切っといてこれだけかよ!! これっぽっちかよ!! だったら最初から喧嘩売ってんじぇねえよ!!」
その通りだ。
「ナメクジはよう、うじうじそうして地べたをはいつくばってりゃいいんだよ!! それが下手に目立つからこうして踏みつぶされんだよ!! 雑魚が!!」
その通りだ。
「くっだらねえ正義感に振り回されて飛び出てきて、ボコられて終わりとかマジかっこ悪いよな青志先輩よぉ!! なぁ、今、どんな気持ち!! どんな気持ちだよぉ!! 死にたいか、死にたいよな、死んじまいたいよなぁ!!」
その通りだ。
死にたい。
死んでしまいたい。
このまま、居なくなってしまいたい。
無力で愚かで恥知らずで勘違いした僕をこの世から消し去って、なにもなかったことにしてしまいたい。
こんな世界に存在したくない。
この世界はどうしようもなく残酷だ。
此の世は地獄だ。
弱い人間はただそれだけで――悪なのだ。
人ですらあることができない。
そんな当たり前のことに、今さら気がついたのかい、青志。
どうしようもなく僕は馬鹿だった。
「青志先輩!!」
「あぁ、もう、これダメだわ、完全に戦意喪失だわ。という訳で、今から阿佐美ちゃんとお楽しみタイム、はじめちゃいまーす。青志先輩は、そこで阿佐美ちゃんの可愛い喘ぎ声を聞いててね? もう涙と血で、大事なところは見えないでしょ?」
「ははっ、モザイクかけてあげてんだ」
「ケンちゃんやさしいー」
「感謝しろよナメクジ」
「なぁ、俺って優しいだろぉ。最高だろぉ――そう思うよな、阿佐美ちゃん」
ペシン。
か弱い音が辺りに響いた。
男の拳の音じゃない。
男が立てる音じゃない。
阿佐美さんが、最後の最後に抵抗してみせた音だった。
見えない。
僕の眼には何も見えない。
けど、よすんだ阿佐美さん。
僕たちは、弱い僕たちには、何もできないんだ――。
だから。
これ以上自分を傷つけるようなことはするんじゃない。
「青志先輩を侮辱するな!! 青志先輩はお前らなんかより、よっぽど誠実な人だ!! お前らみたいな下種とは違う、初対面の私を、生意気な私みたいな人間を、それでも労わってくれた優しい人だ!! お前らなんか、お前らなんか……」
「……なに? まだわかってねえの?」
肉を削ぐよな打撃音が聞こえた。
けれども、僕の体に痛みはない。
けれども、僕の肺腑は動いている。
けれども、僕の胃液は逆流しない。
けれども、僕の口の中は焼けていない。
誰が殴られた、誰が殴った、誰がどうなった、何がどうなった。
それを認識するより早く、打撃音と男の怒声が耳に届いた。
「お前をボコってマワしてお嫁にいけない体にしてやるってこっちはさっきから言ってんじゃんかよぉ!! なぁ、馬鹿なのぉ!! 青志先輩もそうだけどぉ、阿佐美ちゃんも馬鹿なぁのぉ!! お嫁にいけないだけじゃなくしてあげよぉかぁ!! もう、日常生活ができないようにしちゃってもいいんだよぉっ!!」
――あ。
「眼孔ファックってしってるぅうううっ!! 目の穴にねチン〇ツッコんでね、白いのドバドバ出すの!! 君の耳も可愛いよねぇ!! 僕のとはサイズ合わなさそうだけどぉおおおっ!! あとねぇ、あとねぇ、肉を割いてさぁ、そこに無理やりチン〇ねじ込むのも最高に気持ちいいんだよ!! ねぇ、全身穴だらけにされちゃう!! ねぇ、全身穴だらけにされちゃいたいのぉ!!」
――あぁ。
「別に肉さえあればこっちは構わないんだよぉ!! ねぇ、聞いている、阿佐美ちゃん!! 君の腕ってさぁ、とっても犯し甲斐があると思うんだよねぇっ!! 手こ〇だけじゃもったいないと思うんだ!! だからもっと、自由に使えるように、引きちぎっちゃってもいいかなぁあぁ、ねぇ、阿佐美ちゃぁあああああん!!」
――あぁあぁアァアァ嗚呼嗚呼。
殺されるのだ。
僕と、阿佐美さんは、この男に殺されるのだ。
もはや耐え忍ぶだけでは許されない所まで僕たちは足を踏み込んだのだ。この男と命のやり取りをするところまで僕たちは踏み込んでしまったのだ。
死にたいなんて思ったのが馬鹿馬鹿しく思える。
殺されるのだ。
ころされるのだ。
コロサレルノダ。
「あぁ、ケンちゃんぶっ飛んでる」
「バックがある奴はほんと――人生楽しくていいよな」
「ケンちゃん、もったいないぜ。ていうか、それ以上ボコると、阿佐美ちゃん、カメラ映えしなくなるからやめとけ。なっ?」
打撃音。
打撃音。
打撃音。
打撃音。
打撃音。
打撃音。
打撃音。
聞こえてくる全ての音が無機質な言葉に置き換わっていく。
悲鳴さえも聞こえない圧倒的な暴力の中で――僕は。
――僕は。
「ようやく分かった」
「あん?」
「強い、弱い、じゃ、ないんだ。正しい、悪い、じゃないんだ」
心の中に熱はなかった。
相変わらず、何もない空虚な寒さが僕の心の中に締めていた。
しかしながら。
――絶対零度。
心の中が死によって満たされていく。完全な死。万物の静止。何物も生存することが許されない摂氏マイナス273度。
まず、僕の心が死んだ。
熱い心なんて必要ないのだ。
正義に逸る気持ちなんて必要ないのだ。
ただ、静かで絶対的な殺意があればそれでいい。
「大切なのは、殺す、殺される、かだ」
「……なに言ってんだおまえ?」
「よく聞けケンちゃん。
「……這いつくばってるナメクジがぁああっ!! 調子ぶっこいてんじゃねえよ、踏みつぶしてやる!! 踏みつぶしてやるぅうううっ!! チューイングガムみたいに、靴底に脳漿をべったりと張り付けろやぁあああっ、青志せんぱ」
それ以上、ケンちゃんがしゃべることはなかった。
なぜって、それは単純な話だ。
彼の脚は凍り付き土に繋がれてしまったから。
彼の唇は吐息に縫い付けられて開けなくなってしまった。
彼の制服は液体窒素を浴びせられた薔薇のように砕けた。
彼の肌は青白く青白く凍っていた。
その肌の下を這い巡っている血管に血を送り込む機関が停止する。
――絶対零度。
即ち。
瞬間僕の体を冷たいものが覆いつくした。それが何なのか、鏡の前に立たなくても分かる。外骨格。あの、テレビの中で毎日見る
そして同時に、あり得ない速度で、僕の体が再生しているのも。
損傷された脳が再生する過程で余計な記憶まで一緒に呼び起こす。
お前は
お前は
お前は
「……青志せん、ぱぃ?」
「これは断罪ではない。殺戮だ。さぁ、脆弱な人間たちよ、
心の中を吹き抜けていく熱のない風。
僕はようやく気がついたのだ。
「人類を殺す者、それが
僕は弱者などではない。
――絶対零度。
僕は
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