第3話 風紀
僕の財布からなけなしの一万円を旭兄さんに渡した。
兄はそれを受け取ると、たいして感慨もなさげに、白と黒の市松模様になった長財布の中に押し込んで、それから原付の前でふかしていたたばこをもみ消し、携帯灰皿の中へと押し込んだ。
乗せていくなら運賃を寄越せ。
ゆすりの文句としては最悪だった。
誰のせいで、高校に遅刻しそうになったと思っているのだろう。我が家にそんな余裕はないといくら説明しても、兄は頑なに譲らなかった。
「真面目な奴がバカを見る遊びじゃないの」
「真面目じゃないからな」
「バカの自覚はあったんだ」
「それでも負けるからスロットってのは不思議だ」
ほれ乗れよと旭兄さんは原付のシートに跨りながら僕の方を振り向いた。
半分ほど開けたシートの上を埃が舞うほど強く叩く。
バイクと違って、二人が乗るスペースはない。当たり前だ、原付は一人乗りのなのだから。子供ならばともかくそもそも乗れるような構造をしていない。
大丈夫だろうか。恐る恐るとそれに跨ると、大人二人分の重量にタイヤが深く沈んだ。いつもより低い視界がどうにも慣れなかった。
「始業時刻は?」
「八時四十五分。今、三十分」
「余裕だな。途中でコンビニでコーヒー飲んでもまだ間に合うぜ」
「いいから、急いで」
急かすと、兄はエンジンを入れた。ドルンドルンと心臓の音よりも激しい響きが僕の中に流れ込んでくる。飛ばすぜ、そう振り返らずに言った旭兄さんは、勢いよく自宅の駐車場から道路へと出た。
兄の腰に右腕を回し、左腕で荷台を握りしめる。
彼の胸からは少しも鼓動が感じられなかった。エンジンの音にかき消されたか。それともそんなものは最初からないのか。
あるいは、聞こえないほどに脈が浅いのか。
旭兄さんの体はシャワーを浴びた後だというのにやけに冷たかった。
警察の目がある大通りを避けて、狭い生活道路を縫うようにして進む。
高校までは、そうかかりそうになかった。
「同級生に見られるとまずいから、手前で降ろして」
「分かってる。お前も小狡いところがあるよな、青志」
「旭兄さんと比べれば可愛いもんだよ」
不特定多数の女性に貢がせてパチスロ三昧に放蕩三昧。家にろくに寄り付かず、一銭だってお金を入れようともしない。不肖の兄だとはっきりと言える。その修飾語を使うのがおかしいことを理解していても、尚、僕はそうきっぱりと言い切る。
飛ばすぜと言ったが、まったくスピードは出ていなかった。
大人二人が乗っているのだから、当然、時速表示より遅くなるのは仕方ない。ただ、十分に間に合う時間ではあったし、これくらいのスピードの方が、交差点から車や人が飛び出してきた時に安全に停まれそうで安心だった。
青色のアスファルト。
濁った水色の空。
灰色の街並み。
東大阪のどこか時代に取り残されたような寂しい感じ。
なまじ、大阪の中心街の華やかさを知っているから、余計にその差が目に入る。好きか嫌いかで言えばどちらでもない。
ただただ、その光景は僕の日常だった。
「なぁ、青志」
「なに、兄さん」
「金、困ってんのか」
不意打ちだった。
旭兄さんは、今の今までまったく脱衣所で僕がした話に興味がないようなそぶりを見せておいて、突然そんなことを言ってきた。どういう風の吹き回しか。その話題が出たことよりも、旭兄さんが僕を気遣ってくれたことの方が驚いた。
振り返りはしない。ミラー越しにこちらを確認するようなこともない。
背中で僕に語り掛けて、兄さんはただ原付のハンドルを握りしめていた。
どう誤魔化そうか。
いい言葉は咄嗟に出てこない。
「宗介兄さんに頼んだらどうだ」
「無理だよ。今でも家計はカツカツなのに」
「あの人ならなんとかするだろ。残業とか、営業成績上げるとか」
「それより旭兄さんがバイトしてくれれば助かるんだけど」
「それは無理な相談だな」
何が無理なのだろうか。どう無理なのだろうか。
気遣ってくれておいてなんだけれども、その言葉に僕は静かな怒りを覚えた。
兄は高校卒業と同時に――宗介兄さんの手伝いをすると言って、大学に進学せず働くことを選択した。ただ、その宣言と裏腹に、高校卒業と共にすぐに入った土建会社を三日で彼はクビになった。
その日、旭兄さんは負け犬の目はしていなかった。
狂犬のようなギラギラとした血走った目をして彼は、ふざけやがってとソファーを蹴り上げた。そんな風に兄さんが荒むのは、割とよくあることだったので、宗介兄さんも特に何も言わなかった。ただ、僕は光太から彼の姿を隠して、寝かしつけたのを覚えている。
それから、一度も兄さんは就職活動をしていない。
アルバイトだってなにもしていない。
ニートという奴だ。
パチスロはするし、女性とも関係は持っているが、就労意識はまったくない。
あるいは、お前はヒモだと口汚く罵ってやった方が、彼を奮起させるのかもしれないが、あの日の目が僕に向くのが怖くてそれは口にできなかった。
とにかく――。
「兄さんが働いてくれれば、僕だって自由になる、宗介兄さんだって自由になる」
「手厳しいな」
「事実じゃないか」
「青志。可愛い弟であるお前に、この世界の残酷な真実を一つだけ教えてやる」
そう言って兄さんは急にブレーキをかけた。
反動で兄さんの背中に体が押し付けられる。
それからシートから僕の尻がずれ落ちた。
気がつくと、僕の通う高校が見える位置に来ていた。時刻は三十八分。ゆっくり歩いては間に合わないが、走ればどうにかなる距離だ。
礼を言いたい所だったけど、妙なセリフを吐きかけられては素直にそれを口にすることはできない。そして、それを待っている時間ももったいない。
僕は黒い原付の荷台を跨いで降りると、兄さんの横顔を眺めて、なに、と、少し声色に苛立ちを乗せて尋ねた。
なぜだろう。
兄さんがとても悲しい顔を僕に向けてきた。
「よく覚えておけ、金で自由は買えない」
「……買えるでしょ」
「人間を縛るのは金じゃない。目に見えぬ壁だ。社会というシステムだ」
「意味が分からないよ」
「村上春樹くらい読め。高校生だろう。お前」
馬鹿にされたような気がした。
いや、馬鹿にしているのだろう。
ふざけている。
どの口がそんなことを言うのだろうか。
だいたい、兄さんがそんなものを読んでいる所を僕は見たことがない。
部屋の中に散らかっている雑誌だって、コンビニの隅に置かれているような、暗い色調のものばかりじゃないか。
適当なことを言わないでくれ。
「僕は兄さんに、筒井康隆を読むことをお勧めするよ。もっと知的な関西人のセンスを磨いた方がいい」
「あれは嫌いだ。弱者に対して容赦がない」
「兄さんが人権擁護主義者だとは知らなかったよ。ありがとう」
これ以上問答を続けていると学校に遅刻してしまう。
僕は兄との話を強引に切り上げると、高校に向かって駆けだした。
「青志!!」
「……なに!!」
「一万円は必ず倍にして返す!!」
「三倍じゃなかったの!!」
本当に、ふざけてる。
青いアスファルトをローファーで蹴る。
少し、つま先が痛かった。
◇ ◇ ◇ ◇
緑色をした柵が開かれた校門を通ってすぐだった。
ショートヘアーを襟元で髪を切り揃えた少女に僕は捕まった。
白いブレザーに紺色のスカート。緑色のスカーフに、黒色の腕章。腕章には楷書体だろうか、筆で書いたような白文字で風紀委員と書かれていた。
その白と黒をそのまま持ってきたような、プラスチックフレームの眼鏡をかけた少女は、上目遣いに僕を睨みつけてくる。
頭一個分、身長が違っているのだから仕方ない。
その瞳に宿るのは悪意ではなく正義感。
許せないという義憤が、顔いっぱいに満ちていた。
冷たい顔だった。人間味がない。宗介兄さんとはまた違った硬質な――というよりも冷たい感じがした。
「見ていましたよ。原付にニケツして登校ですか」
「……いや、仕方なくって」
「事前申請した交通手段での登校は校則違反です。それでなくても、道路交通法違反です。しかも、ばれないように路地裏を通って来ましたね?」
「……それは」
「故意犯ですね?」
まいった。
僕は返す言葉もなくって、ただただ黙り込むことしかできなかった。
今日に限って風紀委員による抜き打ちの取り締まりが行われていたのだ。
風紀委員だなんて、今どき熱心に活動しているのは、うちの高校くらいじゃないだろうか。フィクションの世界のできごとみたいだ。あるいは、お嬢様が通う女学院や、金持ちの通う私立高校ならあるのかもしれない。
僕の通う学校は、東大阪でも名前の知られた進学校だ。偏差値もトップクラス。倍率も毎年2倍を上回る。いわゆるブランド校だ。
なので、一応、身なりや校外での振る舞いについてはうるさい。
風紀委員があるのも、そんなブランドを守るためだ。
迂闊だったとしか言いようがない。兄さんの口車に乗って、原付に乗ったのが運の尽きだろう。だいたい悪魔の囁きというのは、こういう絶妙のタイミングで耳に届くものである。僕がいささか馬鹿であった。
僕を睨みつける少女から距離を取る。
しかし、半歩下がったそばから、半歩詰められた。そのまま襟首をつかまれて、ガンを飛ばされそうだ。いや、事実、それに近い状態にはなっているのだけれど。
ガンという言葉が彼女の容姿にはすこぶる似合わなかった。
可憐な正義の味方に、ガンを飛ばすという表現は不適切だろう。
この場合、正義に燃える瞳を向けたとでも言っておけばいいのかもしれない。
まいった。
ほとほとまいって、僕は降参だと諸手を挙げた。
「素直に認めますから、許していただけないでしょうか」
「許す許さないは私が決めることではありません。それを判断するのは、教師であり教育委員会であり警察であり行政です」
「それを報告するのは君の一存だよね」
「それは恫喝ですか、それとも買収の持ちかけですか?」
ますます、僕を睨みつける彼女の顔が厳しくなる。悪を憎む純粋な少女の顔を前にして、僕はまた何も言えなくなってしまった。
完全に詰んだな。
そう思った時――僕たちの頭上でチャイムが鳴った。
話を逸らすのなら、ここしかない。
「授業、始まっちゃうよ。君も、僕も困るでしょう」
「騙されませんよ。そうやって、逃げるつもりですね」
「……バレた?」
「生徒手帳を預からせていただきます。放課後、生徒指導室で鹿野先生を交えて話し合いましょう。それでいいですか?」
どうやってもこの風紀委員から逃げられそうにはない。僕は観念すると、制服の裏ポケットに常備している生徒手帳を取り出して、風紀委員の彼女に渡した。
すぐに彼女はそれを受け取ると、表紙に印字されている僕の名前を確認する。
「
「すごいね。僕の名前を一発で間違えずに読むなんて、ちょっと感動したよ」
「茶化さないでください。三年生ですね。分かりました」
では、放課後に。
そう言って、手にバインダーと僕の生徒手帳を握りしめて踵を返す少女。
どうしてその後ろ姿に、僕は何か心を引きずられた。
後ろ髪を引かれる。
いや、後ろ髪に惹かれるという奴だろうか。
切りそろえられて、項がくっきりと見える彼女の後頭部。しかしながら、きっちりと着こなされたブレザーからは、いやらしさは滲みでてこない。
それでも何か、心にひっかかるものがあった。
「あのさ」
「はい」
「名前は?」
「はい?」
なぜそんなことを聞くのか。
足を止めて少女が眉根を寄せて顔をこちらに向けた。
それについてはっきりとした答えを用意出来たら、僕はもっと、上手い聞き出し方をしていたように思う。
「仲間と共謀して襲うつもりですか? それとも家族に脅迫を?」
「変な漫画の読み過ぎだよ。純粋に気になっただけ。僕だけ名前と学年を教えたのに、なんだか不釣り合いな気もするし」
「あなたは犯罪者、私は風紀委員です」
「けど、同じこの学校の生徒だろう」
反吐が出るという顔をする少女。
けれども彼女は――そのない胸の前に手を当てて、背筋を伸ばして僕に言った。
「
「あさみちゃんね」
「ちゃんはいりません」
そう言うと、頭一個分僕より小さい後輩は、校舎の方に向かって歩き出した。
遅刻は確定的。どうしてこうなったのか。
全部、旭兄さんが悪い。
「本当、自由はお金じゃ買えないね」
そんなことが書いてあるかどうかは分からないけれど、村上春樹を読んでみようかと僕は少しだけ思った。
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