第1話 雪下兄弟
「あーちゃん、さっそん!! さっそん、でてるよ!!」
「本当だ。出てるね光太」
「かっこいーねー。らいだーみたい」
「そーだね……よっと!!」
僕は赤茶色をした丸形フライパンの柄を握りしめる。
手首のスナップを利かせてその上で焦げている四つの目玉焼きをひっくり返すと、急いで水を入れて蓋をした。
我が家の目玉焼きは
どうしてそう決まっているのかと言えば、一人の遊び人と一人の高校生、そして一人の未就学児をその細腕で養っている、一人の
彼は言う。
目玉焼きというのはカリッカリでなければいけない。端が焦げて茶色くなっているくらいでちょうどいいのだ、と。
普段は寡黙で仕事の話もろくにしない彼が、こと、目玉焼きに関しては熱弁を振るったのがおかしかった。
だからその日以来、僕はそう仕上がるように朝の支度をしている。
もう一人の兄は熱心な半熟党だが、遊び人なので基本的に発言権がない。
光太はどうでもいいと言った。
僕もどうでもよかった。
なので彼――宗介兄さんの好みに合わせて、僕は目玉焼きを焼く。
四人分。
四つの白磁の皿の上にレタスをちぎって盛り付ける。
目玉焼きの隣のフライパン――緑色。使い古して、テフロンのはげかけた奴――で温めていた、健康的な風を装った肌色のウィンナー。
それを四で割って、レタスの横に箸でつまんで一つずつ並べていく。
並べ切った所にチンと背後でトースターの音が鳴った。
振り返って、中から八枚切りの食パンを二枚取り出すと、それをぴったり重ねてまな板の上に置いた。よく研いだ包丁でさくりと対角線を結ぶようにして切る。
レタスとウィンナーが盛り付けられた白磁の皿。その空いているスペースに四枚になった三角の食パンを重ねた。
トースターの音を目覚まし代わりにしているのだろうか。
「おはよう」
抑揚のない冷たい声がリビングに響いた。
そこで僕はようやく顔をキッチンから上げる。
リビングの入り口には、まるでこれから葬式にでも行くような飾り気のないダークスーツに身を固めた兄が立っていた。
顔の前にはフレームレスの眼鏡。
ネクタイは、早稲田卒でもないのに赤と白の縞。
誰がそんなルールが造ったのだと、次兄にからかわれても変わらなかった鉄面皮は今日も健在で、眠たさを少しも滲ませない鋭く涼しい目がこちらに向いていた。
視界の端。ソファーに膝を抱えて座っていた光太が振り向いたのが見えた。緑色に白色のストライプが入ったお気に入りのパジャマを着た彼は、そーちゃんおはようと、我が家の大黒柱に無邪気で無礼な朝の挨拶をした。
兄はサイドショートの髪を静かに揺らしてそれに応える。
弟は茶けたミディアムマッシュを揺らしてさらにそれに応えた。
「おはよう、宗介兄さん。ちょうど朝食ができた所だよ」
「いただこう」
目玉焼きを造っていたフライパンの蓋を開く。
吸い込めば喉を焼きそうな水蒸気が立ち上がって、攪乱されることもなくそのまま頭上の換気扇に吸い込まれていった。
プレーンなたんぱく質の焦げるにおいだけが残る。
そんな残り香が霧散する前に、ガスコンロの火を消し、くっついた四つの目玉焼きを黒色をしたなんの変哲もないフライ返しで、ふたたび四つに切り分ける。
その一つをこそぎ取るようにフライパンから剥がして、僕は瑞々しいレタスにかからないように注意しながらプレートの上に置いた。
微かに、ウィンナーにかかったが、それは問題ないだろう。
プレートをオープンキッチンのカウンターに置く。
兄はそれを手に取ると、カウンターの端に立てられている箸置きから、自然な流れでナイフとフォークを抜いた。そしてそのまま、光太が座るソファーに向かう位置――キッチンから見て左奥前方――の指定席に座った。
「いただきます」
朝食の前で宗介兄さんは手を合わせる。
彼はまるで英国紳士か何かのような綺麗な所作で朝食を食べるが、これだけはしっかりとした日本式だった。まるでそればっかりは勘弁してくれというばかりに、彼は毎日必ず手を合わせてから食事をする。
会社でもそうなのだろうか。
国内でも一二を争う大手証券取引会社。その大阪支店に宗介兄さんは勤めている。取引先と、食事も兼ねて商談ということもあるだろう。
その時も、こんな風に手を合わせているのだろうか。
きっと合わせているのだろう。
そう思うと朝から少し笑えた。
「そーちゃん。さっそん。さっそんでてるよー」
「さっそんではありません。
「いつになったら覚えるんだろうね光太は」
「青志くん。そういうことを言うものではありません」
兄は基本的に末の弟――光太に甘い。
仕方ない。
末の弟というのは、父から母から、そして、兄や姉から無償の愛を注がれるようにできているものなのである。それは人類の歴史が証明する不変の理だった。
もっとも僕たちには、父も母も、祖父母もいない――たった四人の兄弟だけれど。
「褒めて伸ばすのもいいけれど、躾って僕は大切だと思うな」
「人間には知るべき時というものがあります。今はまだ、その時ではありません」
「そうだよー、あーちゃん」
「そうかもしれないけれど。けど、
「だってかっこいいじゃん。ねー、そーちゃん」
「コメントは差し控えさせていただきます」
宗介兄さんはそう言って、黙々とパンを咀嚼し始めた。
ぶぅ。剥くれ面を宗介兄さんに向けて、光太が再びテレビを見る。
カッコいいのだろうか。
僕にはただただ、
光太のプレートを準備しながら僕もリビングに置かれたテレビを見た。
画面の中に先ほどから映し出されているのは黒々とした外骨格を纏った人型の何か。それが、ぶよぶよとした緑色の肉をした人型の何かの首を締め上げている。
黒い方が
そして、緑の方が、今日の
その時、現場に居合わせたリポーターが緊迫した調子で声を上げた。
場所は市街地。どうも住宅街のただなかのようだ。
「捕らえました!! 今、
視聴率を取るためにそれを流すのに、チャンネルを変えろという。
この国のマスメディアは本当に滅茶苦茶だ。矛盾したことばかり言う。
しかし、事実、これから始まる光景は――おおよそ朝の番組として相応しくない、日曜日の特撮番組にしてもおっかないものである。
チャンネルを変えろと警告するのは、当然の配慮のようにも思えた。
できればチャンネルを変えたい。
けれど、変えると光太が五月蠅いので変えられない。
僕は黙って光太のための目玉焼きを白磁の皿の上に盛り付けた。
「断罪の時だ。懺悔があるなら聞こう」
「……くたばれ裏切者!!」
緑の断罪者の声には怨嗟が乗っていた。
菜種油のような眼が鈍く光り、黒い
黒い
「それは懺悔の言葉ではないな。だが確かに聞いたぞその怨嗟。よろしい、確かに私は裏切者。お前の怨嗟の言霊と、屍の上に立つ者だ」
それでいいな。
そう言って、
「
もはや聞き飽きた決めセリフと共に黒い
浜辺に打ち上げられた雲丹のように尖ったその手が、緑の
それは残酷に、まるで中世・近世で咎人たちに行われた拷問のように、何度も緑の
ごとりとアスファルトの地面の上を転がる緑色のぶよぶよとした体の断罪者。もしそれが特殊メイクやコンピュータグラフィックスを使って撮影されたものならば、すぐにでも粉みじんになって消え去ることだろう。
しかし、それは消えない――。
液晶画面の向こう側で
朝から、見る、物ではない。
カメラが空を映したが、あきらかにそれは意図的な遅延だった。
「やりました!! やってくれました!! 今日も
鱗雲が漂う空を映してリポーターが叫ぶ。
高揚を抑えきれない感じで、映せない代わりにせめて声だけでもこの感動を伝えようと、そのような気負いが籠った実況だった。
気持ち悪い。
こんなものを喜ぶメディアも。
それを見て喜ぶ人々も。
なによりも――自分たちが今、危機にさらされているという実感が足りないのが、どうにも僕には歯がゆかった。
まるでそう、子供向けの特撮番組を見ているようだ。見せられているようだ。
しかもとても
そんなものを喜ぶのは子供だけでいいのではないだろうか。
「日本人は平和ボケしてるって言うけど、改めてこういう番組を見ると実感するね」
「平和ボケ。結構なことだ」
「へぇ、兄さんは
まさかと宗介兄さんは首を横に振った。
いつの間にか――このわずかなやり取りの間に――彼の前にあった皿は空になっており、手にはフォークの代わりにティッシュが握られていた。
それで口元を拭って、彼は目を閉じる。
鉄面皮が少しだけ赤みを帯びていた。
「恥ずかしい限りだ」
「……だよね」
「面と向かって言われるとことさらな」
大人に向かって聞くような話ではないか。
あんな
兄さんはそういう人ではない。
それは一緒に暮らしている僕がよく知っている。
なにせ、
いや、僕たちを養うので手いっぱいで持てないと言った方が正しい。
ごちそうさまとまた皿の前で手を合わせる宗介兄さん。
置いといていいよというのに、彼は律義にそれをオープンキッチンのカウンターまで持ってくる。口を拭ったティッシュで表面が綺麗に拭かれていたそれは、そのまま食洗器にツッコむことができるくらいに綺麗だった。
こういう細やかな気遣いは、いったいどうすれば身につけられるのか。
血でないのは――もう一人の兄が証明している。
証券会社で働いていると普通に身につくものなのだろうか。
だとしたら、僕も将来は証券マンになろうかな――なんてことを夢想してしまう。そんな地頭どうやったって出てこないというのに。
「仕事があるのでこれで。青志くん、ちゃんと学校に行くんだぞ」
「分かったよ兄さん」
「光太さん、大人しくしていてくださいね」
「うん、わかったよそーちゃん」
いつの間にか鞄を手にしていた兄さんは、入って来たのと同じリビングの扉から、颯爽と出て行った。
これを見送る相手が、早く彼にもできてくれればいいのだけれど。
「あぁっ!! また、いつの間にか
録音された中継リポートからスタジオに画面が切り替わる。
苦笑いをした壮年の男が――ライダー登場でテンション上がってるんじゃないよ。アイツはオタクかよ――と毒を吐き散らしていた。それに合わせて笑うしかないのが、こういう、コメンテーター番組の悲しい所だ。
兄と同じように、
もう少し、何かあってもいいだろうにという感じだったが――やはり特撮番組ではないということだろう。人類の守護者などと勝手に呼ばれているが、どうも、彼には彼なりの理由があって、
だからこそ、なお、気持ちが悪い。
そんな得体のしれない奴を持ち上げるのも。
そして、そんな得体のしれない奴が、自分たちを守ってくれると信じているのも。
2025年。
日本各地で、得体・素性の分からない人型生命体――
容姿も様々。
そして生態もまったくの不明。
ただ、人間を襲い、殺害するということだけは共通していた。
この
彼は、似たような容姿をした
そんな異常な事態だというのに。
政府も、自衛隊も、警察も、世論も、まるで人ごと。
マスコミに至っては、彼らのやりとりを見世物にする始末である。
世も始まったばかりだけれど、末なのではないか。
この国の未来にあまり明るい希望が持てなくなるそんな事態が、ここ二年ほど――僕の高校入学から続いている。
あまり、いい気分ではない。
さて――。
「光太。そろそろごはん食べよう。幼稚園行く時間だよ」
「えー、まだー、ほしうらないみてなーい」
「今日はちょっと用事で早く出なくちゃならないの。お兄ちゃん、この後高校もあるんだから、のんきなこと言わないで」
うーっ、と、こちらに恨み節を乗せた目を向けてくる光太。
リビングのソファーの上で足を抱えてこちらを睨む彼は、残念なことに少しも怖くなかった。当然だろう、弟を怖いと思う兄なんて、世の中にはそうそう居ない。
光太がぐずる前にごまかしてしまおう。
僕は冷蔵庫を開くと、そこから二つの容器を取り出して、すぐにそれを閉めた。
一つは円筒状の黒々とした液体の入ったもの。
もう一つは茄子形の赤色のどろりとした液体が入ったもの。
「光太、ケチャップとソース、どっちで食べる?」
「けちゃっうー!!」
笑う光太。
そんな彼に食べさせるパンの焼ける音が後ろでした。
「えぇ、
とにかく早く光太を幼稚園へと連れて行こう。
僕にはやらなくてはいけないことがあるのだ――。
そう、家族に知られてはいけない、秘密が。
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