1-3話 譲れない
夜が明けてすぐに家を発ち、私たちは山の麓まで歩いてゆきました。
空が明るくなり始めたとはいえまだまだ町は眠っている時間です。家の人々を起こさないように物音を立てずに出発するのはなかなかに苦労しました。
ここまでの道のりで活動している人間はごくわずかで、畑の奥の方で作業をしている農家の方を二、三人ほど見かけたくらいです。
「心の準備はいいかい」
「ええ、私はいつでも」
ここまで来てしまえばあとは進むのみです。涼さまの記憶と感覚に頼ってずんずんと歩を進めて行くのでした。
夏でもこの時間帯なら日差しが刺すように痛 むものではなく、明るいだけの無害な光です。涼さまも過ごしやすいのではないかと思います。
山はとても静かで他の場所より澄んだ空気に包まれておりました。生い茂る木々の葉の隙間から無害な光が、柱のように線を描いて山を照らしています。
それにしても、私たちが地を踏みしめて鳴らす足音の他には何も聞こえないのはどうしたことでしょう。静か過ぎるのです。
鳥や小動物、更には小さな羽虫すら見えないことには驚きました。やつらは、油断した隙に大群となって私の顔面に突撃し目や鼻に入ってくるので嫌いですが、何もいないとかえって心配になるのは不思議なものです。
さて、私たちは歓迎されているのか。はたまた威嚇されているのか。
「なんだか不思議な感覚だね。まるで異世界のようだ」
「奇遇ですね。私もちょうどそのように感じていた所ところです」
だんだんと警戒心が募り、周りを見回す眼が注意深くなってゆきます。
……それは当然のことですね。ここはいわば、相手の懐の中なのですから。
「話し合いが通じる相手なら良いのだけど、今までの事を考えると望みが薄いかなあ」
弱気な事をぼやいておりますが、涼さまのその顔は言葉に反してとても楽観的な笑顔を見せておりました。私は首を傾げます。
「やはり怖いですか」
「思ったより怖くないよ。一人で抱えていた時の方が、何百倍も怖かった」
ああ、なるほど。私は真意を理解して微笑みました。
「ええ、そうです。私も、すぐそばにミコト様もいらっしゃいますし。
玲さまも宗治さまも、皆さま私たちの無事を祈っているのですから」
決して独りなどではない。私たちは頷き合って、更に山の奥深くを目指して歩いてゆきました。
……そういえば、ミコト様はいつ私たちの前に姿を現して下さるのでしょう。私はそっと、ずっと服の中にしまっていた小さな玉を取り出して眺めてみました。
日の光を吸収しているかのような美しい輝きを見せておりますが、今のところは沈黙したままです。とりあえず再び服の中に隠して、目の前の頼りない細道を進むことに集中しました。
道は細くどこまでも続いているようでした。昔は山菜採りや猟などで人の通りもあったようですが、現在は町民の高齢化もありこの山に入る人も減ったと涼さまの祖母が言っていたのを思い出しました。確かに荒れていて、歩きづらいです。
なんだか、皮膚をざわざわと刺激するような攻撃的な気配が近付いてきたように感じます。後戻りはできません。私は自分を落ち着かせるようにゆっくりと深呼吸をしました。
「ごめんね神使様、巻き込んでしまって」
「何を言うのですか。謝らないでくださいね」
どうも涼さまは人に気を遣いすぎてしまうといいますか、遠慮してしまうきらいがあるようです。それは重要で面倒な事であるほど顕著に現れるようで、玲さまに例外ではないのです。
「もっと、頼ってください」
「え?」
「私はともかく、ミコト様や玲さまはきっとどんなことでも力になってくださるはずです。だから、巻き込んでしまったなんて言わないでください」
「神使様……」
「そばにいるのに何も力になれない事の方が、何倍も苦しいですから」
涼さまはしばらく私を見つめて、何かを口にしようと唇を動かしかけました。ですが、声に出すことは叶いませんでした。
「見つけた」
体が震え上がるような冷たく暗い声が、はっきりと私の耳に届きました。それは涼さまも同じであったようで、ぴたりと動きが止まります。私は身をすくめながら辺りを見回しました。
「近い。けれど、見えませんね」
「……」
「涼さま?」
返事が無かったので涼さまの顔を覗き込んで、私は息を飲みました。
……目の焦点が合っていない。
「涼さま! しっかり!」
「……」
何も言わぬまま涼さまはふらふらと歩き出しました。まるで意思のない人形のような危うい足取りで。
これは不味いと私は一生懸命涼さまの腰にすがり付いて歩くのを止めさせようとしますが、華奢とはいえ彼は成人男性です。体格差もありそのまま私はなすがまま、ずるずると引きずられるようにして後をついて行く形となってしまいました。
「このままでは……!」
「……」
やがて道を外れ、
がさり。やっと開けた場所に着いたようです。視界も開け、息もしやすいように思います。安堵のため息をつきますが、しかしそれも束の間でした。
目の前には、以前夢で見たそっくりの小さな池がありました。そしてそこには、
「見つけた」
あの姿がありました。
「ひっ!」
小さな悲鳴が思わず漏れます。しかしその者の眼は涼さまを捕らえたまま、口を怪しく歪ませています。まるで餓えた獣のような視線に私は震え上がりました。
……喰われる!
その間にも涼さまはゆっくりと歩を進めてゆきます。私は慌てて再び腰にしがみつきました。
「おいで、おいで」
「やめてください……!」
「ずっと待ってた」
抵抗も虚しく、どうすることも出来ません。
歩みを止められたら! 涼さまの意識を戻せたら! あの者を追い払えたら!
「涼さまは渡しませんから……!」
私はすがりつくのをやめて走り、あやかしと涼さまの間に割って入りました。守るように、涼さまに背を向けて両手を広げます。
やっと、あやかしが私の事を見ました。ぞくりと全身が粟立ちましたが、震えを堪えて姿勢を保ちます。
「守ります! 絶対!」
「おまえは、邪魔」
恐怖のあまり涙が視界をぼやけさせます。あやかしが私へと手を伸ばしてくるのがぼんやりと見えました。しかし、後には退けません。
情けなくぼろぼろと涙を溢しながらあやかしへと駆け出した途端、私の懐が
光の元は間違いなくミコト様から授かった念玉です。
「ぐっ……!」
「ミコト様!」
この光は、あの御方の力に間違いありません。やっと、来てくださったのですね。
「遅くなってすまんかった。やはり初めての術は手間取ってしまったようじゃの」
どこからともなく愛しい方の声がして、私は光で埋め尽くされた視界の中、ゆっくりと意識を手放しました。
もう大丈夫。そんな暖かな我が神の光でした。私は安心して眼を閉じ、そんな光に身を委ねたのでした。
「……さて、本番といこうかのう」
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