4-2話 紐解き


 ふわふわと自分自身の体が浮いているような、そもそも体など存在していないかのような浮遊感の中、私は気が付きました。

 ああこれは夢の中にいるのだとすぐに分かりました。たまにこうして“夢の中にいる”と認識できる時があります。さて、ここはどんな夢の世界なのでしょうか。私は今の状況を受け入れて、辺りを見回しました。


 次第にぼんやりとした視界が開けて、薄暗い森の中にいることが分かりました。地面が傾いているので、山の斜面なのかもしれません。遠くに滝があるのか、ざあざあと水が勢いよく落ちる音がします。

 ふと、自分のことが気になって足元を見ますが、そこにはあるはずの私の足がありませんでした。どうやら今の私は生物としてではなく、ただの視点として存在しているようです。もしかしたら私自身が夢の中でどこかにいて、第三者の客観的な目で夢を見る形なのかもしれません。そういった夢は以前見たことがありました。


 ここで待ってみても何も進展がないので、とりあえず動き回ってみることにしました。こんなに自由に動ける夢は初めてです。この森の中は少し不気味ですが、気にせず闇雲に進んでみました。

 しばらく一直線に進むと、開けた場所に着きました。鬱蒼とした木々はここを避けるようにして生えています。なにやら不穏な気配がして意識を集中させました。その気配はそこにある小さな池からしているようでした。

 

 その池は湖と呼べるほど大きくはないのに、深さだけは異様にあるように見えました。目を凝らして見ても、底が見えないのです。

 もっとよく見てみようと近づく前に、背後で物音がしました。がさがさと草をかき分ける音だったので、人間か、あるいは獣の出す音です。私は池から離れ、音のする方にも距離を取って様子を見ることにしました。


 出てきたのは一人の少年でした。もう空は闇に包まれている時間にも関わらず、4、5つくらいの小さな男の子が一人でこんな場所へ足を踏み入れているのです。ここは夢だと言われてしまえばそれまでなのですが、なんだか夢とは思えないようなほど現実味を帯びた世界なので私自身も現実的に考えてしまいます。

 少年の表情は険しいもので、それは自らここへ望んで来たわけではないことを物語っていました。まるで無理矢理ここへ連れてこられたような、そんな嫌悪と緊張を含んでいるように見えます。


「もう、ぼくを呼ばないでほしい」


 少年は誰もいない空間に向かってそう言い放ちました。もちろん私の方など見ていません。


「ねむれないんだよ。すごくこまってる」


 少年の視線の先にはあの小さな池がありました。警戒しているのか、少年は池から距離を取り、腰をかがめていつでも逃げられる体制をしています。

 まさか。いえ、きっとあの池はただの池ではなく、“なにか”がいるのでしょう。それが恐らくこの不穏な気配の正体なのです。

 池よりこちらの方が安全だと判断した私は少年のそばへと寄りました。よく見ると、なんだか懐かしいような、慣れ親しんでいるような姿をしております。透き通るほど白い肌に、色素の薄い髪や瞳。そして、もう既に完成されている端正な顔立ちはまさか。


 涼、さま?


 ……ぱしゃん。

 長い事沈黙を破っていた池が、風もないのに波立ちました。嫌になるほど不気味です。こんなに草木が生い茂っているというのに、時が止まったかのようにぴたりと動かず葉をこする音一つ立てません。

 ……ぱしゃん。

 この小さな水音だけが鼓膜を揺らします。


 やがてゆらりと水面に影ができたかと思うと、ゆったりとした動きで何かが出てきました。それが人型の顔だと分かるのに数秒を要しました。

 ひいいっ! 声を出そうにも私はこの夢の傍観者らしく口がなかったので声が出ることはありませんでした。代わりに少年の息を呑む声が聞こえてきました。

 どう見てもあまりよろしくない部類のあやかしです。関わらない方が絶対に良い。お願いです少年。今すぐ逃げてください。

 そんな私の必死な祈りも虚しく、少年は微動だにせずを見つめておりました。ほどなくしてあやかしの全身があらわになり、まるで地面に立つかのように水面に足を付けています。


 ぼろぼろの和服、恐らく袴のようなものに身を包んだあやかしはまばたき一つせずに少年を見つめています。伸び放題になった黒髪は水分を含んで体にまとわりついていました。大きくぎょろりとした目は遠くにいても私の心臓に悪いほどの邪悪な力に満ちていました。少年も次第に声が震えてきています。


「ぼくはかかわれない。だから、ぼくを呼ばないで」

「いいえ」


 少年の渾身の抵抗も虚しくあやかしは即答しました。にたりと口が弧を描き、邪悪な目が笑みにより少しだけ細められました。


「目が合った。声を聞いた。早くおいで」

「しらない、しらないしらない!」


 あのあやかしは池から出られないのか、うろうろと動き回ってはいますが池からは一歩も出てくる気配がありません。しかしそれでもこんなに邪悪な気配を放っているのです。万が一外に出てしまったらと思うと恐ろしい。


 これは夢だ。そしてどうやら、過去に起きたという設定の話だ。そう私は思い込んでおりましたので油断をしてしまっていたのです。まじまじと不躾に眺めていたら、ぐるりとあやかしの目玉が動きました。目が合ってしまったのです。

 そんな馬鹿な。しかしあやかしの眼は私を捉えて離しません。目が合った、それだけなのに全身に悪寒が走って震えが止まらなくなりました。少年は先ほどまでこんな重圧に耐えていたのか、恐ろしくてたまりません。

 やがてあやかしはゆっくりと口を開きました。



「おまえは邪魔」





***





「うわああああああああああああ!」


 物凄い悲鳴が聞こえたので驚いて飛び起きました。そのまま気が動転して暴れた拍子にごつんと硬いものに頭をぶつけ、今度は痛みでのた打ち回りました。


「うわああああ! うわああああ! って、あれ」


 なんてことはない、どうやら私自身の悲鳴だったようです。我に返って辺りを見ると、本殿の立派な柱が目の前にありました。これに頭をぶつけてしまったようです。


「ここは、本殿、ですね……」


 自分の気持ちを落ち着かせようと独り言を呟きました。しかしあまりの掠れ具合にきちんとした発音ができず、かさかさとした空気漏れのような情けない声しか出ませんでした。恐怖のあまり妙な汗をかきすぎてしまったようです。

 そうだ。私は夢を見ていたのでした。とても夢とは思えないような恐ろしい体験でした。


 何度か深呼吸をして落ち着いてきた頃、近くで呻き声がするのに気が付きました。なんと、涼さまがうなされてたのです。


「た、大変です! 涼さま!」


 きっと涼さまもを見ている。あのあやかしにまだ捕まっている。

 それはあの少年があまりにも涼さまに酷似していたから、きっとそうに違いないとの確信でした。

 それならば一刻も早く夢から覚めないと恐ろしい目にあってしまうと思った私は、体調などおかまいなしに涼さまを力の限り揺さぶりました。ああ涼さま、熱中症が悪化してしまったらすみません。


「起きてください! 涼さま!」

「ぐ、うう」


 数回揺さぶると、涼さまが反応を示してくれました。もうすぐだと思った私は畳み掛けるように更に力強く揺さぶりました。今起きなかったら、もう目を覚ましてもらえないような、そんな恐怖を覚えたからです。


「あ、ああ……」

「涼さま!」


 うっすらと涼さまの瞼が開いたところで私は揺さぶるのをやめ、涼さまの顔を覗き込みました。ややあって目が合い、にっこりとほほ笑まれました。


「あなた、だったのですか」

「すみません。力ずくで……」

「ありがとう。良かった」


 私は安堵のため息を漏らしましたが、何か違和感がしました。とても重大な、見落としがあるような気がしました。

 再び涼さまは横になり、本殿の天井をぼうっと眺め始めました。体調は万全ではないようですが、もう眠る気は起きないようです。


「あ」


 重大な見落とし。涼さまは先ほど私の眼を見て言葉を交わしました。そう、あまりに自然すぎて疑問に思わなかったほどです。まるで玲さまのように当たり前のようにあやかしの腕で涼さまを揺さぶり、言葉を交わしました。

 そして、鳥の私ではなく、あやかしとしての私の眼を見つめたのです。言ってしまえば鳥の姿は現世のための仮の肉体です。ミコト様から授かった人型のあやかしの姿こそが私の本来の姿であるため、玲さまや宗治さまといった見える者はこの姿の方を優先して視界に映してくださっています。ということは涼さまも見える者になったのでしょうか。

 ……いや。


“何かを隠している”


 傘の言葉がよみがえりました。何か、簡単ではない問題が渦巻いているような予感がします。


「おい涼、調子はどうだ」


 ぐるぐると考えていると、玲さまが本殿の扉から姿を現しました。用事が終わり、帰ってきたようです。

 緊張で強張る私とは反対に、涼さまはいつも通りの笑みを玲さまに向けておりました。


「もう充分良くなったよ、悪いね玲」

「まじで無理すんなよ、ほんとさ」

「反省する」

「言ったな。本当に反省しろよ」


 こうしていつも通り悪態をつきあうお二人を見ていると、先ほどの事がすべて嘘だったかのように感じます。これは、後で玲さまに相談した方が良いのでしょうか。


「神使サマは? もういいのか」

「……」

「おいおい、まずいとこでも打っちまったんじゃねえだろな」


 玲さまに何か言おうとしたその時、鋭い視線を感じました。涼さまがじっとこちらを見つめていたのです。


 もう すこし まって


 そんな風に涼さまの唇が動いた気がしました。本当は今すぐ報告した方が良い、しかし涼さまの強い視線に押されるようにして私の声は固まってしまいました。


「ありがとうございました。私ももう大丈夫です」

「……それなら、いいんだけどよ」

「この機械の風がとても涼しくて快適でした」

「おお、まさかじいさんの衝動買いしたスポットクーラーが役に立つ日がくるとは思わなかったなあ。めでたしめでたし」

「すぽっつ、ん?」

「おっと、神使サマには難しいカタカナ語だったな」

「なんですって」


 焼けるような日差し、茹だるような暑さ。まだまだこの気温は終わりが見えません。早く過ごしやすい季節になることを願います。きっと、止まらない時の流れでいずれはゆったりと夏が終わるのでしょうけれど。


 しかし私たちの平穏は唐突に、そして理不尽に終わりを告げることになるのでした。


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