2-2話 白百合の君②


 女性の話


 夏の暑さというものはいつの時代も変わらないものではありますが、あのころの方がまだ耐えられていたと思います。それは若さゆえの、それとも昔の方が自然に溢れていたからでしょうか。

 その時私はまだ高校生でした。それはもう規律の厳しい学校でしたので、髪を束ね、正しく制服を着こなしておりました。

 私は本を読むのが好きでした。本を読んでいれば、ルールに縛られることもなく、自由な世界を見ることができる。型にはまった人生の私にはどの登場人物も眩しく尊い存在にみえたのです。

 だからといって私は自由に生きたいとは思えませんでした。臆病者だったからでしょうね。こうしてきちんと生きていればきちんとした生活を送ることができる。それは自由に生きることと同じくらい私には大切なことでした。

 あの日も私はいつもと同じように学校へ向かうバスに乗るため、バス停のベンチに座って本を読んでおりました。高校へ行く最後の夏でした。夏とはいえ朝のうちはまだ過ごしやすかったと思います。今はもう老婆ですからいつでもつらいのですけどね。とりあえず、いつも通り本を読んでいたのです。

 ふと、本に巨大な影が落ちました。何事かと思って見上げると、一人の青年が真正面に立って私のことを見下ろしていたのです。そのときの柔らかな微笑みと、透けてしまいそうな白い肌は忘れられそうにありません。私は目が合ったその瞬間に、自分が恋に落ちたことを確信しました。ああ、これかと。


「難しい本を読んでいますね」


 透き通るような、男性にしては少し高い声でした。私はびっくりして何も答えられないでいますと、青年はゆっくり私の隣に腰を掛けました。どきりと心臓が跳ね、私は思わず辺りを確認します。私は混雑が苦手なので、皆より2本ほど早いバスに乗るため誰も知り合いなどいなかったのですが。


「何を読んでいるのですか」

「い、い泉、きょう、か」


 ろれつが回らず泉鏡花の名前も満足に言えませんでした。そのあともいくつか言葉を交わしたような気がしますが何を話したか記憶にありません。ただその日はバスを乗り過ごしてしまって、後に来た友人とぎゅうぎゅうのバスの中にすし詰めにされたことだけを覚えています。


 その後も、何度か彼に会いました。毎日ではなく、彼は気まぐれに私の元に来ては他愛無い話をして私がバスに乗り込むのを見送るのでした。

 もっと彼のことを聞いてみればよかったわ。質問をされるままに自分の話だけをしてしまって、結局彼がどこの誰かも分からないままになってしまったのだから。

 そして、彼に最後にあったのは終業式の日でした。夏も本番、朝だというのにじっとりとした熱気が辺りを飲み込んでいました。その日もベンチに座り本を広げていましたが、まったく集中できていませんでした。

 あの人が、今日来なかったどうしよう。しばらく会えなくなってしまう。そんな不安が焦りとなり、私の眼はただ本の文字の上をすべるだけで読み取ることを拒否しているようでした。


「白百合の君、」


 その本の上に、最初の日と同じ大きな影が落ちました。ゆっくりと見上げると、逆光で微笑む彼が立っていました。


「え」

「君のことだよ。白百合」


 もちろん私の名前ではありませんよ。なんてロマンチストなのでしょうと思いました。恥ずかしい話ですが、その一言で思考がぼやけてしまったのです。

 彼はそのまま跪いて、私より目線を低くしました。まるでおとぎ話のようです。ですが、依然逆光のままで、端正な顔に深い影が落ちてしまっていてとても残念でした。


「私、明日から夏休みなの」

「そう」


 彼の様子がいつもと違うような気がしました。私を見る双眼が、まるで獣のように餓えているかのような……。

 しかし声はいつものように優しく撫でるように私の耳をくすぐります。


「僕と、一緒に行かないか」

「え」


 正直何を言っているのか分かりませんでした。しかし真剣な目から、彼が冗談を言っているのではないと分かります。


「ついてきてくれないか」

「どこ、に」


 彼は何も言わずにただ微笑んでいます。頭はまだふわふわしたままで、思わず頷いてしまいそうになりました。そのまま、彼の手が私に伸びてゆき―……


 ばさり。


 手にしていた本が滑り落ち、地面へと叩きつけられた音がしました。私ははっとして拾い上げようと身をかがめます。


「あっ」


 意図せず彼の手が頬に触れました。そのあまりの冷たさに声を上げてしまったのです。


「大丈夫かい」

「え、あ……はい」


 一向に目を反らすことのない彼に言いようのない恐怖が突然込み上げてきました。

 私は彼の何を知っているのだろう。名前すら知らないのだ。


「ねえ、白百合」


 彼の言葉を遮るように、バスのエンジン音が響き渡りました。気付かないうちに目の前まで来ており、そのドアは開かんとしています。


「ごめんなさい、私行かなきゃ」

「……」

「またね!」


 私は駆けながらそう言い捨て、私はバスに乗り込んでしまいました。そしてドアが閉まる瞬間、決して聞こえるはずのない距離だったはずなのに、彼の最後の呟きが確かに耳に届いたのでした。


「残念だよ、非常にね」



***



「涼兄!こんな所にいたのね」

「(ひゃあ!)」


 女性の話に聞き入っていたものですから、いきなり月冴さまの大声に飛び上がってしまいました。耳元でミコト様のくすくす笑いが聞こえてきます。


「玲のサボり癖がとうとう移っちゃったのかと思ったわ」

「あ?どういう意味だよ」


 拝殿の方から月冴さまと玲さまが歩いてくるのが見えました。きっと私たちを探していたのでしょう。


「俺と月冴で終わらせちまったぜ」

「ああ、ごめん二人とも」

「あらあら、ごめんなさいねえ神主さま」

「いいえ、素敵な話をありがとうございます」

「おばあちゃん結局話長かったもんねえ」


 とはいえ、彼女の話はとても引き込まれる不思議な力がありました。女性も満足したのか、よいしょと腰を上げて杖を握りしめます。


「悪かったねえ、年寄りの長話に」

「いえいえ、とても興味深かったです。

 それから、彼にはもうお会いになっていないのですか」

「そうなの。今となっては後悔することもあるわ。

 ……でも、あの時頷いてしまっていたら。なっちゃんに会えなくなってしまうからねえ」

「もう、やめてよね」


 照れくささを隠すように頬を膨らます少女を皆さまは微笑ましく見ておりました。


「そうねえ、話を聞いてくれたお礼とか、お詫びをしたいのだけれど」

「いえ、そんなつもりで話を聞いたわけでは」


 急いで首を振る涼さまと対照的に、何か思いついたように玲さまがお二人の間に顔を挟んで涼さまの言葉を遮ります。


「おっと、それなら社務所行こうぜ月冴」

「そうね。今ならご朱印お札に御守り、ついでにおみくじまでセットに出来るわ」

「ちょっと二人とも!」


 お二人は商売根性たくましいと言いますか、おろおろする涼さまをよそに笑顔で社務所の授与窓から次々と色々なものを取り出し女性と少女に見せ始めました。「記念に」と言って快く応じていただきましたが、こともあろうにミコト様の前であんなことをするなんて。


「玲さま!なに勧めているのですか、ここはお店じゃないのですよ」

「まあちっとアレだ、これは例外だ」

「強要は御法度です!」

「強要じゃなくて、お勧めをだな」

「屁理屈!」


 もう我慢の限界です。玲さまに飛びかかろうとしたその時、ミコト様に後ろから抱きとめられ動きを封じられてしまいました。


「ミコト様はそれでいいのですか」

「良いとは言っておらぬが、今は玲の言うとおりにしておれ。説教は後でわらわがするから。な?」


 私はしぶしぶ振り上げていた拳を収めて、それなりの荷物になってしまった女性と少女を見送りました。お二人が見えなくなったところで、私は再び玲さまを睨みつけました。


「神職の者として、あまりこの社の品位を落とさないで欲しいのですけどね」

「まあまあ、悪かったからそんなイキんなよ」

「あら、神使さん怒っているの?」

「おお、そりゃあもう。悪ノリしすぎだって」


 私の睨みでは大して効果がないのでしょう。玲さまはへらへらと楽しそうに笑ったままでした。反対に月冴さまの方が肩を落としてしまいました。反省していただきたいのは、違う方なのですけれど……。


「ちょっと調子に乗りすぎてしまったみたいね。通信販売みたいなことをしてしまったわ」

「まあ、この場合玲に怒ってるんだと思うけどね」


 涼さまは肩をすくめて苦笑い。どう次の手を打ってやろうかと考えていたところ、玲さまが先ほどの空気とは一変して急に真面目な声色に戻りました。


「なあ神使サマ、さっきのばあさんの話どう思った?」

「どうって、あ!貴方たちも聞いていたのですか」

「まあ、そりゃあ気になるし」


 なんて耳の良い人なのでしょう、少なくとも私の視界の届く距離にはいなかったはずです。それにしても、先ほどの話に特に思うことなどなかったのですが。


「昔話、でしたよね」

「ほらな。分かんねえだろ」


 だからお前は未熟者だと言わんばかりに鼻で笑われて怒りの前に悲しくなりました。なにやらいつの間にか相手のペースになっており、形成が逆転してしまったようです。いけないことをしたのは玲さまのはずなのに、なぜ私の方が責められているのでしょうか。


「ねえ玲。あたしが答えてもいいかしら」

「どうぞ」


「あれは神隠しよね。おばあさんはすんでのところで我に返って助かったのでしょう」

「おおむね合格」

「ああ、なるほどね」


 頷き合う皆さまに話がついて行けません。私が首を傾げていると、玲さまが得意げに私の額を突きながら答えました。


「ありゃ間違いなく鬼だ。ばあさんの心の隙を狙ったんだろうけどよ、落とした本に救われたってわけだ」

「確かに、妖術とやらにかけられていたらしい症状だったかもね」

「容姿端麗とか、素性も知らないのに魅かれるとか?いわゆる“魅せられる”ってやつかしら」

「それにしてもあのおばあさん、何十年も前の話なのによくあそこまで覚えてるもんだね」

「それだけ強烈だったんだろ。今も忘れらんねえくらいにな。

 ああいうのは月冴みてえな夢見がちなおこちゃまが狙われるんだからな、気ィつけろよ」

「大変失礼な男ね信じられない」

「鬼……そうだったのですね」


 言葉が見つからずうつむきます。私はまだ洞察力や分析力が足りないようで、先ほどまでの勢いは消え失せ、なんだか自信を無くしてしまいました。

 すると急に力強く抱きかかえられてわしわしと頭を雑に撫でられました。たぶん犯人は玲さまですが頭を揺さぶられ過ぎて目の焦点が合わないので確認が取れません。世界がぐらぐらと揺れております。


「ちょ、なにを、」

「悪かったから落ち込むなよ神使サマ。お前の言うとおり、目的は大事でも手段はちゃんと選ばねえとな」

「離し、」

「鬼にも好みがあってな、一度気に入られるとその血筋が危ねえこともある。孫にあんだけ神の加護を持たしときゃ何かしら身に着けるかと思ったんだ」

「わか、分かりました、から……!」

「あ。すまん」


 やっと解放されたのは良いですが急に自由になったので平衡感覚を失った足がもつれ……る前に月冴さまに両手で受け止められました。


「もう。小動物の扱いがほんとなってないわね」

「勢い余った」

「嫌われても知らないよ、ただでさえ玲はヘイト溜まっているのに」

「それは言うな」


 心配そうな顔の月冴さまの顔が私の眼に映り、ため息をつきました。そのあとは仲の良い三人の会話をぼんやりと聞きながら、次こそは玲さまのことで頭に血が上ってしまっても、始めから冷静に話をしようと心に決めたのでした。


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