2-1話 白百合の君


 それはまるで陽炎でした。

 きっとこれから幾度の夏を乗り越えたとしても、貴方のその季節外れの涼しい笑顔はいつまでも私の鼓動を苛み続けるのでしょう。

 平凡な人生の中でただ一点だけ、私の心が陽炎のように揺らいだあの日の出来事は一生忘れません。



***



「あの、もし……!」


 それは7月も幾日か過ぎた平日の昼の出来事でした。さすがの私も人の世の営みというものが分かってきましたので、今日が平日か休日かくらいは答えられるようになってきていたのです。


「えっと、どうかなさいましたか」


 事の始まりは傘を差して歩く涼さまの肩に私が乗り、涼さまのお仕事についてゆこうとしたその時でした。突然見知らぬ方に声をかけられて振り返ると、一人の歳を召した女性が立っておりました。

 当然私には何の用事か見当もつきませんが、涼さまもそうだったのでしょう。困ったような笑顔で首を傾げておりました。

 といいますのも、その女性は涼さまの姿を見てとても悲痛な顔をしていたからです。お二人の間に何かあったのかと疑ってしまうほどでした。


「貴方は、貴方様は……!」

「(あっ)」


 女性は涼さまの顔をまじまじと見ては何かを口にしかけていましたが、上手く言葉に出来ないようでした。口だけが金魚のように動き、何かを求めるように右手が空をさまよいます。相当気が動転しているのでしょう、一歩歩いた拍子にからん、と左手に持っていた杖を勢いよく蹴ってしまいました。


「(危ないですよ!)」

「大丈夫ですか」


 女性と同じように焦ってしまい、周りを飛び回る私とは反対に涼さまはとても冷静でした。優しく女性に歩み寄り、杖を拾って再び握らせてあげたのです。そのまま彼女の背中をさすってあげると、呼吸も気持ちも落ち着きを取り戻したようでした。


「ゆっくり、呼吸して。落ち着いてください」

「はい……」

「(こ、これは)」


 涼さまのこれらの所作は、さすが日頃から礼儀正しい神職の振る舞いをしているだけあって指先の動きまで整っており美しく、さながら王子のようでした。涼さまを陰で慕う参拝女性が多いのも納得です。もしも私も人間の女性であったならば危なかったかもしれません。

 女性人気の理由には決して見目麗しいというだけではなく、こういった振る舞いの優雅さや気遣いの良さも含まれているのでしょう。実際には少し抜けていたり黒い部分もあるのですが、それもまた涼さまの良いところなのでしょう。それがミコト様曰く「ギャップ萌え」ということらしいのです。


「(そう考えるとミコト様の仰る通り、まだ涼さまには秘められたものが)」


 独りでぶつぶつと呟いていたところ、ふと顔を上げた涼さまと目が合ってしまいました。しまった、うるさかったでしょうか。反省してまた涼さまの肩の上に戻りました。

 ……それにしても、先ほどの涼さまの視線が刃のように鋭く冷たく感じたのは気のせいでしょうか。もう一度確認してみるといつもの優しい笑顔のままです。どうやら何かの見間違いだったようです。


「ちょっともう、おばあちゃんったら!」


 ほっと胸を撫で下ろしたのも束の間、女性の孫と思わしき少女がこちらへ走ってきました。息を切らせていましたが、息を整えることなく声を上げました。


「もう、振り返ったらいつの間にかいないし!無駄に往復しちゃったよ」

「ごめんねえ、なっちゃん」

「すいません神主さん、ご迷惑かけて」

「いえ、お気になさらず」

「ほら、今度はちゃんと手えつなぐからね。帰るよ」

「あっ」


 嵐のような勢いで少女はまくし立てていましたが、それも女性を心配してのことでしょう。口調とは反対に女性の手を取るその仕草は丁寧な動きでした。ふと、この少女は玲さまと同じ人種なのではないかと思いました。

 しかし女性は少女の言うことを聞かずにその場を動きませんでした。少女の眉間にしわが寄ります。


「少し、神主さまに聞きたいことがあるのよ」

「何言ってるのおばあちゃんは、神主さんだって暇じゃないんだから」

「あ、いえ」


 身内の言い合いに突然口を挟んだことで辺りは一瞬とても静かになりました。涼さまは気まずそうに続けます。


「あの、話していただけませんか。このままでは気になって仕事が手に付きそうもないです」

「(まあ、あそこまでの反応をされてこのまま終わりでは、あまりにも消化不良ですしね)」


 このまま暑い中で話すのもつらいので、三人は境内の端にある木陰に移動し、ベンチに女性を座らせます。ここは人目に付きにくいのでたまに玲さまが昼寝に利用しているのを見かけます。涼さまに怒られてしまうので内緒の話ですが。


「なんじゃ、面白そうな話じゃの。わらわも混ざるぞ」

「いつの間に」


 変わったことに敏感なミコト様が、やはりこの事態を見逃すはずがありません。私の背後にいきなりあらわれて、私を抱きかかえたまま女性の横に腰かけました。私はミコト様の膝に乗るような形になってしまい、恥ずかしさのあまり身を捩って抵抗します。しかし、余計にしっかりと抱きすくめられてしまいました。


「降ろしてくださいっ……!」

「まあまあ照れるな、良いではないか」


 子供扱いが以前よりひどくなっている気がします。やはり早く立派な神使になってミコト様に認めてもらわなければならないようです。いくら抵抗しても抑えられてしまうので、今日のところはあきらめて身を委ねることにしました。なにやら心臓の音がうるさいですが、仕方ありません。


「それで、さっきの話なのですが」

「なにから話しましょうかねえ」


 私たちは女性の口が動くのを急かさずにゆっくりと待ちました。彼女はじっくりと言葉を選びながら話しているようでした。


「神主さま。貴方は、貴方のご親戚に西の方に住んでいる方はいるかしら。例えば、○○県とか」

「いいえ、永代家はこの社を守る家ですから。母は関東出身ですし」

「そうですか……」


 明らかに残念そうに肩を落とす女性に、その横に立つ少女は呆れた笑顔で肩を竦めました。


「また“あの”話だったのね」

「ええ、でも、本当によく似ているのよ。本当に」


 私たちは話が見えずに首を傾げます。すると、まだ放心している女性の代わりに少女の方が説明をしてくださりました。


「ああ、ごめんなさい。神主さんが、おばあちゃんの初恋の人に似てたんですって。

 それがとても不思議な人だったみたいでね」

「そうだったのですか」

「ねえおばあちゃん。せっかくだから私以外にもその人の話をしてみたら?あ、手短にね」


 “手短に”をやけに強調して少女は女性にウインクしてみせました。お二人で参拝に来るだけあって、とても仲がよろしいのでしょう。女性も「そうねえ」と笑顔になりました。


「ごめんなさいねえ、もう少しだけ、お話に付き合っていただけるかしら」

「いいですよ。私も、自分に似ている方の話は興味があります」


 そういえば涼さまは公私を分ける方なので、仕事とそうでないときは一人称を変えているようです。まあ、涼さまは普段から礼儀正しいのでそこまで違和感はないですね。涼さま曰く、玲さまの豹変ぶりは凄まじいものらしいので機会があったら是非お目にかかりたいものです。いつになったら拝見できるのか怪しいものですが……。

 さて、女性も深呼吸をして話をする準備ができたようです。私とミコト様も姿勢を正して耳を傾けました。


「あれはもう、何十年も前の事ですが……」


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