6-1話 先代
徒然なるままに、なんて気取った言葉を心に浮かべながら、私は朝からどんよりとした雲を眺めております。本日は雨は降ってはいないものの、真昼なのに辺りは薄暗くて気分の上がらない天気でした。
何かないものかと辺りを見渡していますと、拝殿の少し遠くで清掃をしている涼さまと目が合いました。
そういえば今日は何かの準備をしておりましたね。何かお話をしてもらおうと涼さまの肩に乗ってあいさつをしました。
「(こんにちは)」
「おや、こんにちは」
人差し指を目の前に差し出されたので、くちばしで甘噛みをしました。
「明日は大祓いですね」
「(大祓い、ですか)」
何のことかは分かりませんが、今日していた準備と何か関係があるのでしょう。とりあえず、明日は何かの行事があるということですね。
「今日は俺以外誰もいないから神使様は暇なのかな」
痛いところを突かれてしまい、思わず「う」と小さくうめき声を漏らしてしまいました。今日は参拝者の数も落ち着いていて、玲さまも月冴さまもおりません。そういった意味でも社は静かで穏やかでした。こういう日もたまには良いものです。
目を反らした私をくすくす笑いながら、涼さまは竹箒を持って別の場所へ移動し始めました。清掃用の水場へと向かっているようです。
「今日は地面も乾いているし、久しぶりに大事な場所も掃除しようと思うんだ」
そう言うと涼さまはそこに竹箒を置き、小さな水道の蛇口をひねりました。下に置いてあるバケツに勢いよく水が注がれてゆきます。私は涼さまの動作を彼の肩の上からじっと見つめておりました。
「(それはどこでしょうかね。ご一緒します)」
あの水はとても冷たそうだと思いました。出来ることならそのバケツに飛び込んで水浴びをしたい気持ちでしたが、さすがにそんな非常識な真似はしません。これから清掃をするために水を準備しているのに台無しになってしまいますからね。
バケツの水が半分くらいになったところで蛇口を止め、布巾やブラシもその中に入れました。それらは音もなく水の中に吸い込まれてゆきました。
「よいしょ」
どこへ行くのか見当もつきません。社の至る場所は常日頃から涼さまが清掃してくださっております。そんな彼が久しぶりに行く場所とは、いったいどこなのでしょう。
バケツ片手に歩き出した涼さまの横顔を眺めますが、別段変わった様子はありませんでした。
「(本殿や拝殿は今朝清掃しておりましたよね。そこ以外の大事な場所とはどこなのでしょうか)」
当然涼さまに私の言葉は聞こえず、たださえずりの声のみになってしまうので答えてもらえませんでした。ですが、境内の道を逸れて木々の中に入ってしまっていることから、建物へ向かうわけではなさそうです。
この先には何もないと思うのですが、涼さまはためらうことなくずんずんと進んでゆきます。小枝や土を踏みしめる規則的な音が、静かな社に響いていました。
「手荷物があると歩きにくいな」
「(転ばないように気を付けてくださいね)」
私も荷物の一部を持って差し上げられたら良いのですが、生憎鳥の私は非力ですので手伝えないのです。ふらつく涼さまを肩の上で心配することしかできることはありませんでした。
どうやら私たちは鎮守の森の奥まで来ているようでした。この森は舗装整備などされてはいませんので、地面が大樹の根で盛り上がり、とても不安定な道なき道でした。
(あれ?)
この森はこんなにも深くて暗く、広かったでしょうか。しばらく歩いておりましたが目的地には依然たどり着かないようです。それにしてもおかしい。この距離ならばとっくに境内を抜けて外に出てしまっているはずです。この間も猫を探しに皆で歩きましたが絶対にこのような広さはありませんでした。
(ここはもう既にミコト様の結界の中……?)
ミコト様は境内にいくつも結界をつくり、秘密の場所を設けております。以前訪れた池もその一つです。
つまり、涼さまが向かおうとしている場所はミコト様がつくった現実にはない場所であり、今はその境目を歩いているということになります。
(涼さまはその場所が結界の中だとご存じなのでしょうか?……いや、この様子ですと違うみたいですね)
限られた者のみが訪れることを許される神の領域。私もまだそのすべての場所を知りません。
これから行く先がその一つであるなら、他言無用の秘密です。
(まあ、社の者なら大丈夫ですし、涼さまは誰彼かまわず言いふらすような人ではないですからね)
こうしてしばらく道なき道を歩いてゆきますと、急に開けた場所にたどり着きました。今まで鬱蒼とした木々で先の道も分からぬほど視界が狭まっておりましたが、ここは拝殿がひとつ建ってしまうほどの広さがありました。まあ面積で言うとそれほどでもないのですが、今までの道を考えると開放感があります。辺り一面には常に整えられているかのように規則正しい長さの芝生が広がり、青々とした空気が肺の中に入ってきます。周りには壁のように木々が覆い尽くしているため向こうの景色は見えませんでした。
先ほどまで空を仰ぎ見ることができなくて気が付かなかったのですが、空はいつの間にか雲が退き青空が眩しく輝いております。温く穏やかな風が私の頬をくすぐってゆきました。なんと言いますか、暑くも寒くもなく気持ちの良い気候です。
涼さまはこの景色を見てほんの少し足を止めましたが、すぐさま広い場所の中央へと向かってゆきました。
―…そこにはいくつもの石が並んでおりました。涼さまのひざ丈ほどの十数個のそれは形も大きさも統一感のないものでしたが、なぜか等間隔で並んでおります。それはいかにも長い年月が経っており風化している石や、はたまた比較的新しそうな石もありました。
「(これは一体……)」
いえ、説明の必要はありません。どのように見てもこれは墓石にしか見えないのですから。それでは一体、誰の、どのような墓地なのか。石の根元には名も知らぬ小さな白い花が自生しており、何もないこの場を唯一彩っておりました。
私がとある一つの答えに行き着こうとしていた時、涼さまが石の前で立ち止まりぽつりと呟きました。それが私に向かって放たれたのだとややあって気付きました。
「少し見せるのは酷かもしれないけれど、俺は知っておいて欲しかったのかもね。こういう所もあるんだってことを」
そしてその中の一つ、一番端の一番新しそうな石の前にしゃがみ込んで更に言葉を続けました。
「貴方たち生き神使は俺たちと同じように生きて、同じように土に還ってゆく。ここは歴代の神使様たちが眠る場所だよ」
私への言葉でしたが、その双眼は目の前の石に向けられたままで私の方を向くことはありませんでした。私はその横顔をずっと見ておりましたが、彼に合わせて目の前の石に目を向けることにします。ここの墓石の中では新しい方とはいえかなりの年月が経っているようです。微かな土埃と、我が物顔で墓石に絡まる花の茎がそれを物語っておりました。
涼さまが石に指を這わせるのに倣って、私も彼の肩から降りて石に手を当ててみます。なんだか冷たいような温いような、不思議な感覚でした。私には特に能力―たとえば触れた物の記憶を読み取るような―は持ち合わせてはいないので、どうということもなく手を離してまた涼さまの肩に乗りなおしました。このままいたら清掃の邪魔になってしまいますからね。
「ここはミコト様が最期に彼らのために建てているらしいよ。俺はここを偶然見つけてからは、暇を見てこうやって掃除をしに来てるんだ」
「(そうだったのですか)」
涼さまは持ってきたバケツを置き、布巾を水に付けて硬く絞り始めました。ここはとても静かな場所ですから、その水をいじる涼しい音が普段よりも大きく響きます。そうして絞った布巾を手に広げて丁寧に石を拭き始めました。私はその動作を肩の上から見守ります。
その表情はとても優しく慈愛に満ちたものでしたが、どこか寂しげでもあり、まるでここではないどこか遠くを見つめているようでもあります。汚れのひどいところはブラシで磨いて確実に落としておりました。
その手つきや視線から、きっと涼さまはここに眠る先代の神使にお会いしたことがあるのではないかと思いました。
世の中には赤の他人にも無償で尽くし慈しむことのできる聖人君子はいることでしょう。しかし今の涼さまのそれは赤の他人に対するそれではなく、古い友人との再会を懐かしむような、その思い出に浸っているかのような表情に見えたからです。その顔には私の知り得ない幾つもの出会いと経験が確かに刻まれているのでした。
私は先代を知りません。先代が土に還ったからこそ次代の私が生まれたのですから、その仕組み的にも万が一にでもお会いすることはまずありません。同様に私の次の代の神使に会うこともないのです。
しかし私がそうであっても、他の方々はそうではないのです。当たり前のことなのですが今まで失念しておりました。ミコト様の他に宗治さまはもちろんのこと、涼さまや玲さまが先代にお会いしていることも大いにありえることです。そのことを確信した今、言いようのないもどかしさや恥ずかしさのような感情が込み上げてきました。
そう、私だけが知らない、たくさんのうちのたったひとつ。
「(私は、先代の方たちのように上手くできますでしょうか)」
比較対象のあるものほど不安なものは無いのです。もしかしたら涼さまは私と先代を重ねて見ているのかもしれません。まだ私は生まれたばかりで人生経験も乏しい者ですが、いつかこうして先代たちと並んで後世に恥じないような振る舞いをしたいものです。しかし、何をすれば良いかは自分で考えないといけないという負担が急に重くのしかかりました。それはミコト様には“自分のしたいようにすれば良い”としかお教えして頂けないのでとても難しいものでした。せめて先代のことが少しでも分かれば倣えるのですが。
そんなことを悶々と考えている内に、涼さまは手を止めることなく次々と墓石たちを磨き上げてゆきます。なんと手際の良い事でしょう。
神使とは、神の使い。神と人との橋渡し。役目だけは一人前に背負っておりますが実際には何をすべきなのか、あるべき姿が何なのかは未だ分からないままなのでした。“自分自身で決めること”はミコト様の持論ですが、私には難しい境地です。
自分だけの方法で、人の心と神の言葉を繋いでゆく。考えれば考えるほど沼のように暗い深みにはまっていくようで、払拭するように私は首を大きくぶんぶんと振りました。
「俺は、貴方たちがそこにいてくれるだけで、救われているのだと思うけどね」
それは集中して耳を澄まさないと聞こえないようなほど小さく消え入りそうな声でした。ですが私は涼さまの肩にいたおかげでなんとか聞き漏らさずに済みました。
「俺がここにいられるのは、貴方たちのおかげでもあるのだから」
「(それはどういう……?)」
私はそう言いかけてよろめきました。涼さまが不意に立ち上がったので、私の足元である涼さまの肩が傾き、揺らいで不安定になったからでした。
「さて、終わったよ。帰りましょうか」
「(あら、もうですか?)」
気が付けば墓石はどれも綺麗に清掃されていました。涼さまは最後にバケツの中の水を花に撒いております。確かに中身は土と水ですから害はありません。中身も軽くなり一石二鳥です。
私が感心している間に涼さまは帰り支度を終わらせたようで、空になったバケツを手に早々に墓石たちに背を向けてしまいました。どこか大股で歩いているようにも見えます。帰りの手荷物が軽くなったから、というわけでもなさそうでした。
あんなに懐かしがっていたのだからもう少しここに留まっても良いのに、もうその足は森の中へと進み、あっという間にあの景色が見えなくなってしまいました。私が首を傾げていると、自嘲するようなくすくす声がすぐ横から聞こえてきました。
「こうしてここに来たくなるんだけど、長居はしたくないんだ。ごめんね」
「(いえ、私にはお構いなく)」
「いろいろ思い出し過ぎてしまうと日が暮れてしまうからね」
そう言葉を付け足した涼さまの横顔は、どこか寂しげで影が落ちているように見えました。
皆さまの過去を知らないことで困ることがあるとは思いませんでした。どのように生まれ育ち、何を経験してきたのか。私はこの社の方たちのことを知った気でいましたが、それはまったくの間違いだったのです。私と会う前にも、一人一人それぞれ何十年と長い年月の中で、私の知る由もない多くのことを見聞きし、経験し、そして多くの問題を抱えてきたことでしょう。皆さまは私の何十倍もの人生を歩んでおられるのですから。そんな当たり前のことにたった今気が付きました。
ですが、たとえ何も知らなくとももう私たちは他人ではないのですから、そのすべてを知ることはなくとも寄り添えるようになりたいと思うのはおこがましい事なのでしょうか。そうでないことを願います。それが、私たちが他人同士ではない事の証であるとも言えるのではないのでしょうか。
「(叶うならば、いつか涼さまのお話を聞いてみたいですね。この社との出会いや幼いころのお話……知りたいことがたくさんありますから)」
と、聞こえぬ横顔にそっと呟いてみました。
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