5-2話 幸せの形


 暗転、暗闇が覆う。


 でも別に怖いわけじゃない。おれたちはいつだって暗闇のような道の影に隠れるようにして生きてきたのだから。心までが凍りつきそうな雨の中だって、身を寄せ合って生きてきたんだ。

 生まれたのは確か涼しい季節だった。母はおぼろげな記憶しかない。でも今こうしておれたちがここにいるということは、乳離れするまでは育ててくれたということだ。それには感謝している。だが小さな体で俺たちは冷たい風が吹く日も、雪が降る夜だっておれたちで乗り越えてきた。餌をとるのが下手な妹の分まで調達するのは骨が折れたが、それも良い思い出だ。野良の生活に慣れてきた頃には人間の残した残飯や野鳥がたくさんいる場所をいくつか把握していたので特に困ることは無かった。

 周りには同じ境遇のやつらがいたが、あんな奴らなんて信じられない。同胞と呼ぶのも忌々しいほどだ。思い出すのも嫌になるほどだった。

 なぜそんなに嫌うのか。あいつらは妹をいつも変な目で見つめてくるからだ。それには倫理も道徳もあったものじゃない。生まれて数か月、だんだん大人の体になっていく妹はあいつらの格好の餌食だった。そんなやつらから守るため立ち向かっていくたびに体に傷が増えた。

 人間は今でも良く分からない生き物だ。無差別に餌をくれるような奴や、近づいてくるだけの奴なら問題はない。だがたまに棒のようなもので追い立ててくる奴はやっかいだった。人間の種類を見極めている内に疑心暗鬼になったのでそのうち人間自体に近づかなくなった。そのほうが安全だった。


 妹はおれの半身そのものだった。いなくなるのは考えられない。


 でも、本当は、



***



“雨が冷たくなってきたね”


 涼さまの持つ傘から心配する声が聞こえてきました。私は涼さまの肩に乗りながらこれから行く先を真っ直ぐ見据えます。けっして見落とさないように、注意深く。

 私たちは雀に先導され鎮守の森を歩いておりました。それはもう立派に生い茂っていますので傘を差せるほどの空間の余裕はありません。ですが大樹の葉が雨から守ってくださいますので、この中はたまにぽつりぽつりと水滴が落ちてくるのみでした。

 ここの空気は特別に冷えている気がします。早く見つけてあげないと。気持ちばかりが急いてどうしようもない。


「あ」


 ふと後ろを歩いていた玲さまが声を上げました。それと同時に頭上を飛んでいた雀が下降しとあるところに降り立ちます。急いで私たちも向かいました。


「これは、」


 大樹でした。それも一本ではなく、二本の巨木が互いに絡まり合うように、しかも同じ速度で成長しているようです。そのさまは自然のなせる技と言いますか、言葉で言い表すことができないほど荘厳であり、見るものを圧倒するものでした。私はこの森に深くまで立ち入ったことが無かったのです。このような大樹があることはおろか、ここでの日常から切り離されたような痛いほどの静寂、吸えば肺の中まで冷えてしまうほど澄んだ空気すら知りませんでした。

 その大樹の幹の下部、二つの樹の隙間にその小さな姿はありました。この場全体が苔や葉で深碧しんぺき色や若葉色に染まる中、彼女の月白の毛並みがまるで景色から浮き出たように鮮やかでした。何かの絵画のようです。

 白猫は動かずにじっと静かに横たわっておりました。しばし見とれてしまいましたが、はっと我に返り急いで後ろを振り返ります。ちょうど玲さまの腕の中で黒猫が身じろぎして起きだしたところでした。


「あれ、おれ……」

「起きたのですね、見つけましたよ」


 ぼんやりと目を開けた黒猫を労わるように私は優しく声をかけました。彼はゆっくりと瞬きを何回か繰り返していましたが、やがて状況を呑みこんだようで素っ頓狂な声を上げたのでした。


「え、あっ!」


 先ほど眠る前まで覚束無い足取りだったのが嘘のように黒猫は勢いよく玲さまの腕から飛び出し、白猫の元まで駆けてゆきました。私も後を追おうと羽根を広げましたが、玲さまに頭を押さえられ妨害されました。


「あ、なにするのですか」


 抗議をして玲さまの手を振りほどきます。きっと睨んでやると、予想外にも澄ました顔がそこにありました。怒っていると思ったのですがどうやら違うようです。拍子抜けして肩の力を抜くと、玲さまは私の顔を見ないまま呟きました。


「野暮だなお前、追いかけんなよ」


 言われてみれば確かに、と思いとどまります。兄妹の再会に水を差すところでした。ここはとても静かなので離れたこの位置からでも二匹の会話や物音が聞こえます。ここで様子を伺い、いざとなれば動くことにします。


「ここに、いたんだな」

「ずっと、探していたのに」

「お前ってやつはさ、ほんと」


 しばらく見守っておりましたが、何かがおかしいことに気が付きました。あれ、と思って二人の顔を盗み見ます。予想通り表情を歪ませて俯いていました。


「あの、玲さま」

「何も言うな、分かってたんだよ最初から」

「え、どういう」


 声をかけてもお二人は私の顔など見ずにじっとあの二匹を見つめています。その表情は憐れんでいるでいるようです。

 私だけが理解できずにこの状況から取り残されてしまっているようでした。空気を壊すことを覚悟で玲さまに尋ねると、さらに眉間にしわを深く刻んで苦々しく答えました。


「猫は暗くて狭い、人目に付かない場所で養生する。戻って来ないなら、それは体力が回復しなかったってことだ」

「あ、」


 そこでようやく理解しました。あの白猫は事故でも事件でもなく、自ら望んで行方をくらましていたことに。猫の本能ならば、きっと兄もそれをわかっていたはずです。きっと、探しても会えないと知りながら、それでも探していたのでしょう。何も分かっていなかったのはどうやら私のみだったようです。

 先ほどこの猫の件を説明したときに玲さまが「気枯れ」の話をした意味も理解できました。この猫は“白猫を助けたいから探していた”のではなく、“白猫に寄り添いたいから探していた”のです。おそらくは、このまま……

 しばらく俯いていたところを玲さまに気付かれてしまったようです。頭をぶっきらぼうにわしわしと撫でられました。


「なんでお前がしょぼくれてんだよ。ほら、ちゃんと責任持って見届けてやれ」

「……はい」


 やはり玲さまは不器用なだけで優しい人のようです。肩を優しく叩かれ前を見るよう促されました。意を決して私は見届けようと思います。

 たとえ、どんな哀しい結末になったとしても。



***



「なあお前、バカだなほんと」


 ごまかすように悪態をつく。だが、いつものように怒ることは無かった。何を言っても触っても反応は無かった。それでもやらずにはいられなかった。

 いつだったかな。人間の子供が落とした綺麗な鈴があったっけ。お前がどんなにむくれていてもその鈴を鳴らせばご機嫌になったものだ。あいにくその鈴はおれたちの秘密基地に置いてきてしまった。


「何も言わないなんて、そんなにおれは頼りないかよ」


 近頃は雨降りが多く、体が濡れることも多かったためお前のくしゃみの回数が増えた気はしていた。だが雪の季節の時と同じく、しばらく寝ていればまた元通りになると思っていたんだ。こんなことになるとは思わなかった。


「黙って出ていくなんて」


 これも自然の定めならば、ずっと、最期に瞳を閉じるその瞬間まで寄り添っていたかった。そんなこともさせてくれなかったお前は非情だ。バカ野郎。


「置いて行くなんて、妹のくせに」


 前足で妹の頭を叩いた。予想以上に冷たく硬くなっていたので驚いた。おれはそんなにここへ着くのが遅かったのか。


「痛いわ、ばかお兄」


 なんということだ、ついに幻聴まで聞こえてきてしまった。現実を受け入れたくない一心で、現実と妄想の区別もつかなくなってしまったようだ。


「もとよりおれはお前と生きるために生きていたんだ。もうおれはダメだ」

「だからこうしたのに。なんで見つけちゃったのよ」

「ああ、なんてこったい。聞こえないはずの声が聞こえる」

「わたしの話を聞いてよおバカお兄ちゃん」


 妹の声がひときわ大きく聞こえて、さすがにこれはただ事ではないとおれは辺りを見渡した。妹の体ではない、明らかに、この頭上に君臨する大樹から聞こえてくる。見上げると妹は嬉しそうに微笑んだ、気がした。


「やっとこっちを見たね」

「何がどうなって、一体」

「わたしにも良く分からないんだけどね」


 おれが間違えるはずがない。確かに妹の声が、魂がそこにあった。


「お兄ちゃんはわたしがこうなるって知ったら追いかけてくると思ったから、だから一人で旅に出たの。生きていてほしかったの。

 でも、ほんとはね。ちょっと寂しかった。だからこんなことになっちゃったのかなあ」

「……そうだなあ」


 猫の魂は九つある。まあそれは迷信だが、実際おれたちの魂は少しばかり強くできているのかもしれない。今までの野良生活で鍛えられた精神なら、死してなお魂がそこにあるのも納得できるような気がする。


「あと、休んでた場所もいけなかったみたい。この森は神様の力が宿る森だから、わたしの心の本当の願いみたいなものが叶っちゃったのかも。

 お兄ちゃんに、会いたいって」

「お前なあ、」


 呆れた声を出すつもりが、震えて情けない声になってしまった。前足を大樹の幹にそっと当てると、妹の鼓動を感じた。気のせいかもしれない。それはただの願望だったとしても、確かに感じたのだ。


「なあお前、ずっとここにいるのか」

「それは嫌だなあ」


 こいつは危機感と言う感情を知らないらしい。こんな訳のわからない状況でも、相変わらず飄々とした態度だった。まあ、そんな奴だったからおれは救われていたのだが。


「なんだよ、それ」

「ねえ、だからさお兄ちゃん。お願いがあるの」

「いいよ。なに」


 昔から、それこそ生まれた時から妹には敵わない。おれがこいつの頼みを断ったことなどなかった。だからたった今のこのお願いもきっと聞くしかない。おれは静かに微笑んでいた。



「私の魂、お兄ちゃんにあげる。受け取って」



***



「ええと、どうしたことでしょう」

「俺が知るか、聞いたこともないぞ」


 どうしたものかと考えあぐねていると、なにやらとんでもないことになってしまっているようです。確かにこの鎮守の森はミコト様の御力で清められておりますが、まさか猫の魂が大樹に宿るとは誰も予想しておりませんでした。

 あの二匹の会話はこちらにも届いており、ことの顛末を丁寧に妹が話してくれたので他人の私たちにも充分理解することができました。


「とりあえずまだ見守るのかい?」

「そうだなあ」


 私が猫の言葉を玲さまに翻訳し、玲さまがその話を涼さまに伝えているので、なにやら人の子供がやる伝言遊びを思い出してしまいました。涼さまに話が行く頃には妹が兄に最期のお願いをしているところでした。


「おい神使サマ、なんて言ってんだ」


 私がそれを翻訳しないので玲さまが小突いて急かします。普段はすべてが聞き取れるので、分からないことがもどかしいのでしょう。動物の言葉が分からない、ある意味弱点ですね。涼さまはいつものことだと思っているのか、大人しく次の言葉を待っているようでした。


「妹猫が最期のお願いって……うわあ!」


 私が説明をしようと口を開いた瞬間、目を開けていられないほどの突風が私たちを襲いました。唸り、うねり、巻き上げていく。この勢いは凄まじく、ほんの数秒のことでしたが突風が止んだ途端に私たちは咽てしまったほどでした。やっと呼吸が落ち着いてきたので目を開けると、先ほどまでそこにいた二匹の猫、白猫の亡骸すら忽然と消えておりました。そこにはただ大樹のみが堂々と地に根を張って存在しています。


「どういうことだ……?」

「大きな力、か」


 二人は分からず首を傾げます。私も真相は分かりませんが、その突風の中確かに、


「いいよ」


 といった兄の声がはっきりと聞こえたのです。その声がなぜかとても尊く感じて、いつまでも耳に残っておりました。



***



 もうすっかり雨はやみ、日の光が降り注ぎ境内を暑く照らしております。私はまた賽銭箱の後ろです。

 あれから数日経ちました。あの後、どこを探しても二匹の姿も気配も感じなくなってしまったので、私たちはあきらめて帰ることにしたのでした。最期の声を玲さまに伝えると、なにか神妙な面持ちで「これは……」と呟きどこかへ行ってしまいました。私は隠さずすべて伝えているのになんてずるい人なのでしょう。


「ずいぶん気に病んでしまっておるのう、大丈夫か」

「はい」

「とてもそうには見えんのじゃが」


 ミコト様が私の様子を見に来てくださいました。あれからというもの、私はずっとこんな調子なのでミコト様に心配ばかりかけてしまっています。気持ちを切り替えないと。


「お、そなたに客が来ておるぞ。顔を上げて見てみろ」


 私に客人などいたでしょうか。見当もつかず渋っていると、ちりん、と透き通った綺麗な鈴の音が聞こえました。弾かれたように顔を上げて姿を確認します。


「貴方は!」

「よう、元気じゃないみたいだな」


 目の前にいたのはなんとあの時の黒猫でした。しかしあの時とは姿が大きく異なっています。凛々しい金色の瞳は生命力に溢れ、艶のある毛並みは美しく整っておりました。彼は私と目が合うとばつが悪そうに頭を下げました。


「悪かったな、心配かけちまったようで」

「いえ、その姿は……」

「ああ、これも何かの縁だし。おれたちがどうなったか報告と礼をしに来たんだ」


 そう言うと彼は嬉しそうにはにかみました。その笑顔がなんだか動物的ではないような、そんな違和感を抱いたところでミコト様が口を開きます。


「お主、猫又か」

「えっ」

「まあ、そんなところだ」


 なるほど、兄はあやかしになってしまったらしい。それも自ら望んで。通りで生き物とは違う不思議な雰囲気をまとっていた訳ですね。驚きましたが、こんな結末もあるものだ、と妙に納得してしまいました。


「でも、それが貴方の幸せの形ならそれで良いと思います」

「ありがとよ。これからは上手くやっていくつもりだ」

「応援しております」


 彼はとても幸せそうでした。その表情の通り、彼に幸多いことを祈ります。


「お前には世話になったし、何かあったら呼んでくれ。おれがすぐに飛んできてやるよ」

「はい」


 短いあいさつを終え、黒猫は背中を向けて歩き出しました。その時、私はすべてを理解したのです。


「ああ、なるほど。“彼”ではなく、“彼ら”だったのですね」


 猫又は尻尾が二本。彼が背を向け長い尻尾を揺らしました。片方はそのまま黒い尻尾、そしてもう片方はあの白猫そっくりの真っ白な尻尾でした。

 どうやら彼らはずっと寄り添って生きてゆくようです。それが二人の幸せの形。先ほどはそういう意味ではなく、慰めるように言ってしまいました。私はこれで良かったと心から思いました。

 私はやっと肩の力が抜け、安心して一人で微笑んでしまいました。彼らの姿が見えなくなるまで、私はその優美に揺らめく尻尾をいつまでも見届けておりました。

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