5-1話 野良猫


 6月は水無月とは良く表現したもので、本日も朝からうんざりするほどの雨がしとしとと湿気た空気を連れて降り続いております。毎日の雨や水害に嫌気がさした昔の人々が“水の月”に“無”を足して、これ以上水に関わらないようにと願ったのが始まりと言われているようです。言葉の由来とは面白いものですね。

 雨ということもあり、気温も先月の暑さが嘘のように下がってしまい身が震えるほどでした。とはいえ、私は生き物としての理に半分しか身を置いていないので、どうやら暑い寒いや疲労からくる体調不良とは無縁のようです。毎日同じように快調であるので、きっと病気にもならないのではと思います。これもミコト様の御力の賜物なのでしょう。


 私は今日もいつも通り、拝殿の軒下にある賽銭箱と建物の扉の隙間に腰かけております。そこでいつも通り参拝に来る人々の表情を言ノ葉と共に観察しているのでした。


(この方は観光記念、ですかね。ああ、あの方はとても必死にお願いをしているようですね)


 ミコト様はきっと私の背後の扉の奥、拝殿の中で人々の願いをお聞きになっておられるのでしょう。なんでも、本殿にいるよりこちらにいた方が人々の声が近くに聞こえて良いそうです。言うなればミコト様にとって本殿は家で、拝殿は仕事場といったところでしょうか。


 そんなことをぼんやりと考えながら時の流れに身を任せていると、妙な影が一つ、鳥居の方から近づいてくるのが見えました。あやかしではなく、生き物のようでした。動きが不安定ですが、どうやら歩いてこちらまでやって来そうです。

 目を凝らしてよく見ると、その正体は黒い猫でした。そういえば先日、拝殿の縁の下で見たような気がします。

 その黒猫はふらふらと覚束無い足取りで、弱りきっているようでした。私は我慢ならず翼を広げて猫の元へと飛びました。


「一体どうしたのですか、そんな体で」

「……ほっといてくれ」


 申し遅れましたが、私は動物でもあるのであやかし以外の動物ともある程度は会話ができるのです。話の通じない者もたまにいるのですが、そのことは今は置いておきましょう。とりあえず黒猫と話ができるようなので安心しました。


「そういうわけにもいきません」

「うるさい」


 弱りきっているというのにこの者の態度は強気そのもので、言葉の端に誰の助けも拒絶する棘のような鋭さがありました。そんなことを言われてもこちらとて大人しく引き下がるわけにはいきません。少し卑怯な手ですが、話を円滑にするために不本意ながら神使としての権力を使わせていただくことにしました。


「ここは社の境内。用があるなら神の使いである私に話を通してください」


 動物はこの世を賢く生きるために、己の立場を即座に認識して無用な争いは避けるものです。どうやら黒猫も理解したようで、しばらく沈黙した後に弱々しくため息をつきました。


「神の御前でそのような状態では困りますので、私も出来ることがあれば手助け致します」

「……そうだな、悪かった」


 その姿は落胆しきっておりました。困っている者がいれば手を差し伸べたいと思うものです。黒猫も心を許したようで、肩の力を抜いて事情を話してくれました。


「妹がいないんだ」

「妹……いつからですか」

「一昨日。今まで離れたことなんてない、ずっと二匹で生きてきたのに」


 思い返せば以前この猫は一回り小さい白猫と一緒におりました。縁の下で寄り添うように身を寄せ合っていたのが目に浮かびます。


「白い猫ですか」

「そうだ!知ってるのか?」

「あ、いえ、貴方といるところを数日前に。すみません」

「そうか。いや、いいんだ」


 明らかにがっくりと肩を落としてしまったので私の中に罪悪感が生まれました。次からは言葉に注意しなければ、と改めます。


「一昨日の夜、おれがうたた寝をしてるうちに突然いなくなったんだ。あいつは怖がりだから遠くへは行けないと思ってたのに」

「私も探しましょう。大丈夫です、きっと見つかりますから」

「でも知ってるぞ。お前、神社から出られないんだろ」

「心配には及びません」


 訝る黒猫をよそに私は胸を張って息を吸い込みます。


「整列!」


 そしておなかに力を入れて空に向けて声を張りました。するとざわざわと周囲の木々が揺れ、いくつかの影が飛び出してきました。驚き後ずさる黒猫を横目に、私は目の前の地面を指さし影を整列させました。

 その影とはここを縄張りとして生活をしている野鳥たちです。今回は雀と白鶺鴒はくせきれいが数匹集まってくれたようです。


「集合していただき感謝します」

「用事はなんでしょう」


 彼らは自由にここで生活する代わりに、何か用があった時はこうして助けてもらうようにしているのです。ただ、糞はそこらでしないようお願いしておりますが。


「彼の妹の白い猫を探してほしいのです。弱ってしまっているかもしれません」

「じゃあ物陰を重点的に探します」

「お願いします」


 用件だけ伝えると、彼らはすぐ飛び立っていきました。それにしても誰かに指示をしたり、指揮を執るのは疲れるものです。一息ついて振り返り、まだ警戒体制の黒猫に声をかけました。


「驚かせてしまいましたね」

「うーん、いや、これは驚くというか本能を抑えていたというか……」


 歯切れの悪い台詞に首を傾げながら、とりあえず気にせずに話を進めることにしました。


「野鳥の情報網は侮れないものです。あとは彼らに任せて貴方は休んでください」

「おれも探す」

「少し休めば体力も回復します。探すのはそこからにしましょう」


 無理をしては妹より先に兄の方の容体が危うくなってしまいそうです。私は木陰に彼を連れてゆき、寝るよう促しました。


「どうしてそんなに無茶をしたのですか、一人でそんなに頑張らなくても良かったのでは」

「猫は鳥と違っていつも独りだよ。信じられる奴なんているわけがない」

「そういうものなのでしょうか」

「そういうもんだ」


 猫の社会とは生き難いものだなあと同情してしまいました。私は色々な方々に頼って生きているので、孤独では生きてゆけないでしょう。そういえば私は野生の生き方は知らないのでした。これではお話にならないですね。


「涼さまはどこに……ああ、玲さまの方が話が詳しくできるか……

 少し探してきますね」

「待て、それは人間なのか」

「大丈夫ですよ、私が一番信頼している方々ですから」


 立ち上がりかけた猫をにっこり笑顔で抑えると、反抗する力がないのか諦めたのか再び寝転がりました。そしてもうどうにでもしろと言うように、だらんと四肢を投げ出して目を閉じてしまいました。


「わかったよ」

「ええ、任せてください」



***



「……で、お前はこんな所でこの猫をかくまってんのか」

「すみません」


 今日は運よくお二人が奉仕していたので、事の顛末を話して黒猫の前まで連れてゆきました。当の猫はというと相当疲れていたのでしょう、小さな寝息を立てており起きる気配はありませんでした。


「なあ神使サマ、気枯けがれって言葉知ってるか」

「わ、分かってますけど。困っているのに追い出せるわけないじゃないですか」

「つまり、この黒猫は自分の妹を探しているんだね」


 眉間のしわが通常より深くなった玲さまの顔を正面から見れず、思わず涼さまの後ろに隠れました。人相の悪さが三倍くらいになってしまっています。それもそのはず、原因は私にあるので仕方のない事なのですが。


 神社ではどこの神様も“けがれ”を嫌っております。穢れがあると神の力が弱まってしまうからです。以前現れた害を成すあやかしや災いが大きな穢れなのは言うまでもないのですが、もうひとつ、“気枯けがれ”という人特有の穢れもあります。

 気枯れとは、例えば愛する人を亡くして悲しみの中にいる人や生きる気力を失くしてしまった人など“生命力が落ちてしまった人”の状態のことをいいます。精神の話ですが、そんな方が力の無い祈りをしても神には届きません。気持ちが万全になったらまた訪れてほしいという願いが籠っているのです。

 猫や犬は人に近い感情を持っている生き物です。なので、これはこの猫にもあてはまることなのです。


 ですが、私はまだ黒猫が気枯れているとは思えません。まだ妹を必死に探しているのです。藁にもすがる思いで色々なところを探し回っていたのですから。


「玲さま、この猫はまだ気枯れてはいませんよ。妹をこんなに必死で探しているのに、生きる気力がないわけないじゃないですか」

「いや、どうだかな」


 玲さまはどこか憐れんだまなざしで黒猫を一瞥し、小さく呟きました。


「お前は猫の本能を知らねえからな」

「本能、ですか」


 玲さまの話を詳しく聞こうとしたその時、先ほど頼み事をした雀が二匹戻ってきました。


「百舌さん、見つけましたよ。鎮守の森です」

「そんな近くにいたのですか、ありがとうございます。では早速……」

「おい待て神使サマ、俺はさすがに鳥の言葉までは分かんねえよ」

「あ、そうでしたね」


 急ごうとする私の首根っこを掴んで玲さまが引き止めました。私は我に返り、二人に分かるように説明をしました。


「白猫がいたそうで、雀たちが案内してくれます。鎮守の森なら私も行けますので一緒に行ってくださいませんか?」

「鎮守の森、ねえ。この猫も連れてくんだろ」

「はい」

「ねえ玲、動物病院に連絡した方が良いかな」

「……そうだなあ、近所はどこにあったっけかな」


 私は涼さまの肩に乗り、玲さまはまだ寝たままの黒猫を抱きかかえました。こうして私たちは先導する雀たちの後を付いてゆき、白猫の元へと向かうのでした。

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