第3章 水無月

1-1話 拾い物


 本日も6月だというのに季節外れの暑さで、じりじりと焼けるような日差しがこの社を襲っています。なんでも真夏の気温なのだそうで、遠くを見つめると景色が揺らいで見えるほどです。近年ではこのような異常気象が多発しているようですね。


「まったく。季節を間違えているのう、涼が辛そうじゃ」


 強い日差しに作られたいつもより濃い色の自分の影をぼんやりと眺めていると、後ろから声をかけられました。

 振り返るとうんざり顔のミコト様が空を睨みつけています。右手には見慣れない傘を差していて、こちらに傾けて私のことも中に入れてくださいました。突き刺すような熱が少し和らいで、私は安堵の溜め息を零しました。


「この傘はどうされたのですか」


 私は見上げて真上の傘をよく観察しました。真新しい綺麗な緋色の蛇の目傘です。太陽の光が透けた部分がより鮮やかな色味になっていて、気を許せばいつまででも眺めてしまうようなどこか危うい妖艶さもあるようでした。

 目をすぼめてじっと見ていると、ミコト様の顔が近づいてきました。


「すぐそこで拾ったのじゃよ」

「へえ…」


 好奇心に駆られてそっと柄に触れてみました。想像より冷たくがっしりしており、私が一人で持ったら動くのに不便になりそうなほど重そうです。こんな大層なもの捨てる輩がいるものなのかと驚いてしまいます。それほどに立派な傘でした。しかし、


 ……どくん、と鼓動がどこかで聞こえました。まさか。


「この傘…あやかしなのですか」

「ご名答、じゃな」


 ふふん、と得意げにミコト様は鼻を鳴らしました。ずっと柄に触れていると、鼓動の他に少し呼吸音のようなものが聞こえてきました。

 あやかし。大抵の人には見えず、けれど確かに存在する者たち。命は有れど生き物ではない不思議な力を持つ存在。あやかしそのものに出会うのは万年筆の付喪神以来でした。


「こやつは相当疲れておったようじゃから、眠らせてやったのじゃよ」

「そうだったのですか」

「もともとは人々の暮らしに溶け込んでおったようじゃが、どういうわけか境内の隅で縮こまっていたのじゃ」

「人々に溶け込む…?」

「中にはそういうあやかしもおる。気付かれないが、すぐそばにいて人々の氣を糧にして生きるのじゃ。氣といっても微々たるものでな、害はないぞ」


 そう説明しながらミコト様はくるくると傘の柄を回して弄び始めました。可哀想なことに、小さなうめき声が聞こえてきます。


「起こしては可哀想ですよ」

「なに、半日も眠れば十分じゃろ」


 そう言いつつしぶしぶと回すのはやめてくださいました。私は安堵の息を漏らします。

 しばらくすると聞き覚えのない声が聞こえてきました。きっと傘の声でしょう。口のない彼は言葉を音で発するのではなく、触れた私の指先から言葉が伝わってくるという何とも不思議な感覚でした。


“こんなに眠ったのは久しぶりです。感謝いたします。”

「礼には及ばんぞ」

“まさか神の手に触れる日が来るとは……”


 傘の態度はそれはもう恐れ多いといった様子で、感嘆の息に混じった小さな声は震えておりました。私もミコト様に続いて、彼に話しかけてみました。


「どうして貴方はこの社にいたのですか」

「そうじゃなあ、出来れば聞きたい」


 相当お気に召したのでしょう、今日のミコト様はいつも以上に上機嫌に見えます。しかしそれとは反対に傘の声はどこか重く沈んだ声で、口も鼻もないというのに湿った苦しげな息遣いを感じられるほどでした。

 しばらくの沈黙の後、やっと傘は絞り出すようにして言葉を吐き出したのです。


“長い間、彷徨っておりました”


 私とミコト様は次の言葉を待ちます。けれどそれで終わりだったようで、長い沈黙が続きました。


「まあ、無理強いはせんよ」


 ミコト様が優しく柄を撫でると、小さく深呼吸をする音が聞こえてきました。どうやら彼は疲れ切っているようでした。それは身体か、それとも心の方なのか。

 突然あ、と思いついたようにミコト様は顔を輝かせました。私が首を傾げると、嬉しそうに仰ったのです。


「気に入ったのでこの社に置きたいのう。日差しの強い今日なぞは涼に日傘をくれてやりたいと思っていたのじゃよ」

「え、涼さまにですか」

「もちろん」


 その言葉に傘がぴくりと反応したのを私たちは見逃しませんでした。再びミコト様は傘に優しく語りかけます。


「何があったかは知らんが、お主は人の世に紛れてこそ生きられる性質じゃろうて。これほど弱り果てているところを見ると長らく孤独でいたんじゃろ」


 沈黙。しかしそれは肯定の意味です。人の氣を糧にしているのならば、人と離れれば弱るということはこの傘自身も分かっているはずです。そうまでして孤独でいたのには、きっと深い理由があるのでしょう。


「涼は良い人間じゃから、安心せい。よいかお主、これほど社の袴に似合う傘はないぞ」


 そう仰るミコト様の明るい声にも傘はいまひとつ良い反応は示しませんでした。緊張しているのか浅い呼吸だけが小さく聞こえてきます。


“怖いのです。再び人の手に触れるのが、どうしても”

「人の世を渡り人と生きなければお主もやがて力を失くしてしまうというのに、困った奴じゃのう」

「私は人が怖いと思ったことが無いので分かりませんが、そんなに恐ろしい目にあったのですか」

“違う、違う……”


 けっしてそうではないとはっきり否定するも、その詳細を待ってみても傘はまた沈黙に徹してしまいました。

 私とミコト様はもうお手上げだ、というように二人で目を合わせて肩をすくめてみせました。この社の傘にする、とはミコト様のご所望でしたがあきらめた方が良いかもしれません。

 と、その時でした。ぽたり、とどこからか雫が落ちてきたのです。私の肩が濡れたので、はてどうした事かと周りを見渡しましたが、相変わらず空は青く雲は高いままです。この晴天で雨など降るわけもなければ、ましてや私は今傘の中にいるのですからとても不思議に思いました。しかし、ややあってようやく理解しました。


 ああ、涙か。


“どうしたいのだろうか”


 それは自問自答するような声でした。私たちは黙って見届けていると、さらにその問いかけは続いてゆきます。


“私はこのまま物言わぬがらくたの様に朽ちていくつもりだった。だが、ここにたどり着き、神の手に渡り、そして神に問われている。これは私が懺悔をして許されたがっている事に他ならないのだろうか”

「お主は他者に許しを請いたいのか」

“違う、違います……しかし、これも回り逢わせなのかもしれません”


 それから傘は意を決したようにひとつ、深く深く深呼吸をしました。腹の底から空気を吐き出し吸い込む様はまるでこれから長く重い話をするための力を溜めているようでした。


“神よ”

「なんじゃ」

“どうか、聞いてはくださらないでしょうか。私が今までこうして彷徨い続けてきたことを。

 今までに見てきた光景を、人間の人生を”


 ミコト様は優しく傘の柄を撫でながらゆっくりと頷きました。

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