3-3話 とある男の話


 今のご時世にこんな風習が残っているのかは分からないが、田舎の小さな村では子供が一人で危険な山奥に入っていかないように大人たちが脅し文句を聞かせていた。

 その種類は実に豊富で私が小さい時も周りの大人たちから、

「あの山には鬼が棲んでいるから、一人で入って行ったら喰われてしまうよ」

 と言われていたものだ。


 無論そんなものは今となっては信じていない。しかし木が鬱蒼と生い茂りたとえ昼間でも薄暗い、言ってしまえば不気味な山だったこともあり、小さな子供に危険な一人歩きをさせない効果は十二分にもあったといえる。

 そのせいか大人になり上京するその日までその山に足を踏み入れることはなかった。



 …信じられないかもしれないが、私は脅し文句でなく、本当に見てしまったんだ。

 せっかく記憶の彼方に置いて行ってやったというのに、今になって思い出すことになろうとは思わなかった。



 あれは私が上京し数年経った頃、再び故郷に戻ってきた時のことである。

 祖母の新盆ということもあり、有給合わせて一週間ほど休みをもらいゆったりした気持ちで帰省したことを覚えている。

 いつもより派手に仏壇を飾り、仏花を生ける。両親と徒歩で墓参りをした帰り道、目にしたあの山が昔と変わっていることに気付いた。


「母さん、あの山どうしたの。伐採されてるけど。」


 山の一部が不自然に拓けていたのだ。母は私の問いかけにああ、となんでもない事のようにこたえた。


「あそこは秋になると紅葉がとても綺麗でしょう。道や展望台を作るんですって。」

「へえ」


 確かに街並みも依然と比べてずいぶん雰囲気が明るくなった。どこぞの過疎地域のようにここも観光名所として盛り上げようとしているのだろう。


「時代よねえ、どんどん変わっていくわ」


 母は嬉しいとも寂しいともとれる表情をしながらため息をついた。



 山の開拓工事は盆の三日間は休みらしい。その話を聞いて何を思ったか私はあの山を探検してやろうという気持ちになっていた。

 幼いころに出来なかったことをやってみたかったのかもしれない。近いうちあの鬱蒼とした山の暗くおどろおどろしい雰囲気を拝めなくなってしまうなら尚更今しかない。

 そのことを両親に伝え了解を得るが、母には


「新盆に帰ってきて親戚にも会わずに困った子だね」


 と呆れられてしまった。



 次の日の昼、私は山の麓に来ていた。

 幼いころはそれこそ大きな口のように飲み込まれてしまいそうなほど恐ろしい場所に思っていたが、なんてことはない。ただの山だった。

 一歩、また一歩。

 足を踏み入れる。

 工事で切り開かれた登山道はあらかた出来上がっていたが、あえて獣道の方を選んだ。昔から一部の人が山菜を取る時に使っている道だが、今はほとんど使われていないのだろう。申し訳程度の苔だらけの石段があるのみで滑りやすく登りづらい。


 ここはまだ昔のままなのだろう。木々の一本一本が太く強く根付き、私の何倍も大きな背丈に空を覆い尽くさんばかりの葉が青々と生い茂っている。真夏の昼だというのに薄暗かった。

 足元に注意を払いながら歩くのに疲れ、ふと空を見上げた。

 薄暗いとはいえ木々の隙間から細い光が直線を描いて差し込んでくる。それをぼうっと眺めながら背中に伝う汗を感じていた。


 …それにしてもやけに静かだ。

 ゆるく吹く生ぬるい風が時折葉をザアザアと揺らす音と、少し荒くなった私の息の音、遠くから聞こえる山の外の車のエンジン音だけが鼓膜を揺らしていた。

 まるでここだけ他の世界から切り取られてしまったかのように、または時間が止まったかのように静かだったが、これはこれで居心地が良かった。

 都会の喧騒に疲れていたのだろう。まあ、またその喧騒の中に戻ることになるのだが。


 だがしかし、いくら静かとはいえ動物はおろか虫の気配すらないのはおかしいと思った。

 こんな夏の盛りなのだから蝉の一匹いてもおかしくないはずだが。


 不思議に思いながらずいぶんと登った。意外に小さい山だ、もうすぐ登り終えてしまいそうだ。

 どこか辺りを一望できる場所がないか探していると、開けた場所に繋がった。

 工事の場所に無事たどり着いたらしい。どうやらここが展望台になるのだろう。広く平らに整地され、休憩所でも建てるのだろうか砂利や木材が端に寄せられていた。

 きっと秋になればここは鮮やかな紅色や黄色に色づくのだろう。我が家から見ても綺麗だと思っていたが、この場所はまた格別だろう。きちんと整備されたらまた来よう。


 私が来た道の丁度広場を挟んで反対側に広く緩やかな登山道が見えた。どうやらこちらの道は急斜面だったがあちらは観光用なだけあって環境が全く違うようだ。


 帰りはあちらから帰ろう。


 探検も終え満足したところで帰路に着こうとしたその時だった。

 ガリガリと不自然な音がした。まるで何かを引き摺っているような、擦っているような小さな音だ。

 私の他にもこんな所に誰か来たのだろうか。辺りを見回すが人影はない。

 まあいいかと興味を無くし歩き出そうとしたその時、視界の端に何かを捉えた。


 …腕だった。

 整地され押し固められた土に、肘から上だけの赤黒い腕が一本生えているように見えた。いや、埋められていたのだ。

 その腕は恨めしげに地面をしきりに引っ掻いていた。先ほどのはその音だったのだ。


 明らかに人間ではない。ふと幼い頃聞いていた鬼の話を思い出していた。

 逢魔が時に子供を喰らう鬼。しかし大人は躊躇いなく山菜を取りに出かけていた。もしかしたら、もし本当に鬼が存在していたとしたら大人を満足に襲えないあまり力の無い鬼だったのだろうか。

 今私の眼前にいる何も言わず恨めしげに、けれど弱々しく地面を掻く左腕を眺めていたら少しその存在が憐れに思えてきた。

 しかし仮に助けたところで何になるというのだろうか。所詮は人喰いの鬼である。

 日も傾いてきたので私は無視してそのまま帰路に着いた。



 その日は深夜になっても眠れる気がしなかった。

 あの左腕のことを思い出す。もしかしたら本当は助けを求めていた人だったのだろうか。

 その考えはすぐに打ち消された。あの場所はきれいに整地されていた。掘り返して埋め直した後がないのだから工事中に一緒に埋められたことになる。そんな事故はさすがに気付くだろう。

 それに、確かに人ではない“何か”であると私の本能が告げていたのだ。関わらずに逃げろと頭の中で警鐘が鳴った。


 あの鬼について考えてみた。噂が広まり何十年、何百年もの間子供が近づかず衰弱する鬼の姿を。最期は誰にも気付かれず木と共に掘り返され、土と共に重機で踏み固められる。

 忌々しげに土を掻くことしかできないその姿を、私はどうすることもできないのだ。


 その年はもうその山に近づくことはなかった。遠くから響いてくる工事の音を聞きながら私は故郷を出たのだ。



 …あれは本当に鬼だったんだと私は思っているよ。

 誰も信じないだろうと思って今まで話したことは無かったがね。


 そして何年も経った最近やっとまたあの山に登ったんだよ。あの時の恐怖はもう忘れてしまっていたから。

 今度はちゃんとした所から登った。もうあの獣道は塞がれて進入禁止にされてしまっていたからだ。

 やはり秋に行くべきだったと後悔した。展望台からの景色が絶景で、紅葉していたらさぞ綺麗だったろうに。しかし今じゃパワースポットなんて言われて何もない春の終わりだというのにそこそこの人が来るようになっていた。


 あの場所は立派な休憩スペースになっていた。有料の望遠鏡もあったかな。いつの間にか建てられた小さな社に多くの人が参拝していたね。本当に小さな社さ。


 あの日はまだ夏ではないというのにもう蒸し暑くて大変だった。油断して蚊に刺されるし、あの細かい羽虫にはたかられるし。


 しかし、それで終わりではなかった。その日の夜、私はあの鬼の夢を見てしまったのだ。あの日のように地面を引っ掻いている。私は立ちすくんで見つめたままだったが、しばらくそうしていると腕が霧のように霧散してしまったのだ。

 後には何も残っていない。私はただただその場に立ち尽くして、呆然と何もない地面を見つめていた。


 そこで目が覚めた。もう私はいてもたってもいられなくなり、何とかしてくれそうなところを探し始めた。そして一番最初に見つけたのがこの神社だったというわけだ。

 何の変哲もない神社だが、妙なうわさのあるところだ。小さい社なのに神主は多いし。私はこういうことに詳しくないので、もう助けてほしい一心でここを訪ねた次第だった。

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