2話 夜の守護者


 この社の夜はとても静かです。人の気配も消え、言ノ葉たちも物陰に身をひそめて動かなくなります。昼間とは全く違う雰囲気に私は訳もなく恐ろしくなって、日が沈むと同時にミコト様の隣で先に眠りについてしまうのでした。


 しかし今日はいつもより眠りが浅く、少しの風が木々を揺らす音でさえ気になって眼が冴えてしまいました。夜の闇に覆われてから随分と時間が経ったように感じます。ミコト様も横になってすでに深い眠りに落ちているようでした。


(どうしましょう…)


 こうなってしまってはもうどうすることも出来ないことは分かっています。再び眠りにつけるまで、気長に焦らずに待つことが重要です。私は隣で寝息を立てるミコト様の横顔をぼんやりと見つめました。こうすれば、恐ろしい夜の闇も気にならなくなりますから。

 長い睫が白い頬に影を落とし、胸が呼吸をするたびに上下しています。

 ―…生きている。

 いや、生命としての理からは外れてはいるのですが、今の彼女を見ているとどうしてもそう思わずにはいられないのです。


 しばらくの間そうしていたのですが、不意に鈴のような音色が聞こえました。

 …ちりん。からん。

 本殿の外から聞こえてきます。遠くから聞こえるとても小さな音でしたが、この静寂の中では目立つのでしょう。断続的に聞こえるその音が気になって仕方なくなってしまいました。


「ミコト様、あの音はなんでしょう」


 控えめに声を出してみるも、全く反応してくれません。揺さぶり起こそうかとも思いましたが、こんなに気持ちよさそうに眠っているのを起こすのは申し訳なく思ってしまいました。私も気にせずに眠ろうと目を瞑りますが、かえって音が目立ってしまい一向に眠れる気がしません。


 …うるさい音だ。鈴の音は最初より大きく、激しさを増してきました。

 ちりりりりりりりりりりりりりりりり。


(だめですね、ちょっと外を見てきましょう)


 ミコト様を起こさないよう細心の注意を払い、本殿の外へ出ました。辺りは月の光もない真っ暗な闇に包まれています。今日は新月の夜だったようです。

 私は身震いがして思わず両腕で自分自身を抱きながら、音のする方へ歩き出しました。

 いつも恐ろしい夜が、さらに牙を向いて私を睨んでいるかのようです。


 拝殿の方まで歩いていくと、この不思議な音の正体が分かりました。ここから石畳をずっと進んだ先、鳥居の向こうに何かが立っていたのです。

 遠目からは黒い塊にしか見えません。その黒い塊から枝のような腕が伸び、鈴を手にしています。ここからでも分かる、真っ黒で異様な鈴です。

 どうしたものかと一歩踏み出したときでした。


「やめておけ」


 どこからか声が聞こえました。驚いて辺りを見回すも誰もいません。


「上だ、石段の、ここにいる」

「!」


 見上げた先には二体の美しい狛犬が私を見下ろしていました。金の髪と銀の髪。色以外はそっくりそのままのようです。あまりの迫力に腰が抜け、その場に座り込んでしまいました。金と銀の眼が鋭く光っています。


「なぜお前がここにいる。お前は昼の者だろう」

「すみません、音が、気になって…」


 ああ、と狛犬たちは納得していただけたようで、目を伏せて苦笑しました。


「起こしてしまったようだな、すまない」

「いいえ」

「ここには入ってこれぬようだから、放っておこうと思っていたのだが」


 私たちは目を鳥居に向けました。なるほど、うるさく鈴を鳴らすだけで一歩も動かないのは、境内に入れないということのようです。私は顎に手を当てて考えてみました。鳥居をくぐれないということは。


「あの者はけがれているのですか」

「そのようだ。その上、害をなそうとしている」


 関わらない方がいい、と彼らは言いますが、果たしてこのままで本当に良いのでしょうか。隣の涼さまたちの家にまで何かされたら、と思うと心配になってきました。

 やがてその穢れたものは口を開いて何かを呟き始めました。


「あまり耳を貸すなよ。お前も穢れてしまう」

「えっ」


 慌てて両手で耳を塞げば、楽しそうな笑い声が上から漏れてきました。


「やはり何とかせねばならんようだ」


 ふわりと石の台座から二体は降り立ち、私を背中に隠すように前へと進み出でました。


「起こしたついでだ、お前にも手伝ってもらおう」

「はい」

「神の池の水を柄杓一杯分持って来い。それまでにあいつを弱らせておく」

「分かりました」


 私が返事を言い終わる前に彼らはあの者の元へと駆けてゆきました。私もするべきことをしなければ。

 柄杓…手水舎にはあるがここからは遠い上にあの穢れた者のそばに行かなくてはなりません。しばし考え、予備の柄杓が拝殿に置いてあることを思い出しました。涼さまがそろそろ交換時期だと用意して隠していたのです。


(遠いところに置かれなくてよかった)


 急いで拝殿の扉を開け、中に入りました。あった。すぐそばにありました。数本あるうちの一つを持ち出して私は池へと駆けてゆきました。


 少し迷ってしまいましたが、無事にたどり着くことができました。ここへ一人で来るのは初めてでしたので、拒まれてしまったらどうしようかと不安でしたがどうやら杞憂のようでした。

 なにぶんこの池はミコト様が作り出した結界の中にありますので、彼女に招かれたものしか足を踏み入れることができないのです。


「申し訳ありませんミコト様、少しいただきます」


 池の水は清らかで冷たい。柄杓で一杯掬うと、この水にとてつもない力を感じました。ただの水とは思えないほど重く、肌がピリピリと痛みます。手にしただけでこの圧なのですから、口にしてしまったらもっと恐ろしいことになりそうです。この清らかさは刃のようだと思いました。


 私はこぼさないように慎重に、けれど急ぎ足で鳥居へと向かいました。あの者と狛犬たちは鳥居を挟んで睨み合っているようでしたが、あの黒い塊の方が劣勢のようでした。二体の輝く毛並みが眩しいのかうめき声をあげながら縮こまっていきます。


「持って参りました」

「でかした、あやつにかけて浄化させろ」


 指示通りに水をかけると恨めしそうに何かを呟きながら泥のように溶けて消えてしまいました。ころんと最後に鈴が転がったので、残りの数滴もそこに垂らしておきました。じゅわじゅわと音を立てながら、跡形もなく消えてゆきます。


「よくあることなのですか」

「いや、あんな邪悪そうなのは滅多にいない。新月の夜はああいったものが騒ぎやすくなるらしいがな」

「害を成しそうなあやかしは、初めて見ました」

「そうか、よくやったな」


 銀の髪の方が私の頬に顔を擦り付けました。思ったより柔らかく、冷たい感触でした。


「お前は温かい。生きているからだろうな」

「あなたは冷たいです」

「石だからな。…わが神も、だからそんなお前をそばに置くのだろうな」

「生きているから、ですか」

「ああ。生あるものは儚く、温かく、いとしいものだ」


 その後は彼の背に乗り本殿まで連れて行ってもらいました。疲労でぐっすり眠れたように思います。


 …目を覚ましたのは昼を少し過ぎたあたりでした。


「やっと起きたようじゃな寝坊助が」

「も、申し訳ありません…」


 こそこそと拝殿を覗くと、待ち構えていたミコト様とばっちり目が合ってしまいました。腕を組み仁王立ちをされています。気まずくて目を反らしていると、いたずらっぽい笑いと共に抱きしめられました。


「嘘じゃ。昨夜、わらわの代わりに戦ってくれたのじゃろう。狛犬どもから聞いたぞ」

「戦ったというほどでは…」


 私もその背中に腕を回すと、さらにミコト様の腕に力がこもります。


「昼の者にとって夜の化け物は害じゃからな、よく立ち向かったの」

「…はい」

「わらわも安眠を邪魔されず済んだ事じゃし、お礼にゆっくりそなたを寝させてやったのじゃ」

「ありがとうございます」


 彼女の腕の中は体温がなく、あの池のような澄んだ匂いがしました。


「ミコト様」

「どうした」

「私は、温かいですか。生きているから、温かいのですか」

「…そうじゃなあ」


 ぽんぽんと幼子をあやすように背中を撫でられ、私はゆっくりと目を閉じました。

 どうして彼女は私を、人を見守り、関わり合うのでしょう。それは、生のある私には理解のできないものなのかもしれません。それでも、愛されているからなのだと思わずにはいられませんでした。


「生きとし生けるものはいとしいものじゃ。その生が有限と分かっていながら、いや、じゃからこそ愛してしまうものなのかもしれんのう」


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