第2章 皐月

1話 この社の人々


 新しい暦が始まり、本日5月1日になりました。現世の人間たちはこうやって一年、一か月、一日と区切って生活をしているようです。

 とはいえ、昨日と環境が大きく変わるということはなく、今日もまた私たちは暖かな日差しと温い風に包まれています。しかし私が生まれたのは厳しい寒さの中でしたので、それと比べると大きな違いです。その大きな変化ですら大した疑問もなくありのまま受け入れているのは我ながら不思議に思っています。

 こうして、いつの間にか私たちの気付かないところで様々な物が変わっていくのでしょう。

 季節も、人の世も。


 それにしてもこんなに暖かな陽気だとどうにも集中力が途切れていけません。私はいつものお気に入りの席、賽銭箱の後ろに腰かけて、参拝者の投げてよこす小銭の小気味いい音を聞きながらうつらうつらと惰眠を貪っていました。情けないものです。


「いい身分じゃな、いつまでそうしているつもりじゃ」


 ゆさゆさと揺さぶられて片目だけ開けると呆れ顔のミコト様と目が合いました。なんと足で揺さぶられていたのです。


「すみません……」


 しかし反論も抵抗も出来ずそのまま足で転がされてしまいました。


「まあ、そなたにとって初めての季節じゃしなあ。この陽気に抗えない気持ちも分かるが、わらわの神使ともあろうものが嘆かわしい」


 5月は皆気力をなくしだらけやすい。五月病なんて病もあるくらいですし、人類にとってこの時期はさぞ恐ろしいものなのでしょう。

 私も“寝てはいけない”という気持ちはあれど行動が伴わず、いまだこの瞼は鉛のように重たくてかないません。

 私は軽く目をこすり、頬を3、4回叩いて気持ちを奮い立たせます。なんとか目の焦点はあってきました。


「そうじゃなあ、そなたには少しばかり仕事を与えてやる気を取り戻させるとするかのう」

「お仕事、ですか」

「なに、簡単なことじゃよ」


 ミコト様は笑顔でウインクをしながら私に両手を差し伸べてくださいました。促されるままその手に自分の手を重ねると、ゆっくりと手を引かれ私はやっと立ち上がることができました。ミコト様は両の手を重ねたまま少し屈んで、私と目線を合わせます。

 私に言い聞かせるように、一つ一つの言葉を確かめるようにしっかりと言葉を紡がれました。


「そなたはこれから毎日、必ず1回はこの社の者たちに挨拶がてら交流をしてくるといい」

「挨拶はしていますが、交流……」

「ああそうじゃ。あの者たちはわらわたちのために毎日尽くしてくれているのじゃから、ねぎらって損はないぞ。それに、そなたはまだ生まれたて。様々な人々と関わった方がいい」


 交流。何度も頭の中で反芻はんすうしますが、いまいちピンときません。


「ミコト様は、御自分のお仕事の続きですか」

「まあな。これでも様々な人の縁や自然の流れを毎日見ている忙しい身なのじゃぞ。ゆえに息抜きも必要じゃがな」


 息抜きとは、この前のような人と人ならざる者との縁の行方を見ることでしょうか。考えていると、肩をポンポンと叩かれました。


「わらわがいなくても、出来るじゃろ? さあさ行って来い」

「あ、あのミコト様。交流と仰いましたが私のこの人の姿は大抵の方には見えないのでは……」

「なあに、言葉を交わすだけがすべてではない」


 理解しかねます。そう私が言い首を傾げるとくすくすと笑われてしまいました。


「とりあえずやってみることじゃよ。それに、そなたには鳥の姿がある、それで充分じゃ。」


 それでも唸っている私に痺れを切らしたのか、追い出すように背中を叩かれてしまいました。


「まあ、あの者たちは身内じゃから、そなたが多少妙な動きをしても騒ぎにはならんから大丈夫じゃ」

「……分かりました」


 私はしぶしぶ返事をして飛び立ちました。まずは探さなければ。

 背中から「頑張れ内気者―」と明るい声が聞こえてきたので、旋回して返事代わりとしました。さて、皆様はどこにいらっしゃるのでしょうね。


 この社は永代ながしろ家が代々管理を任されております。よって現在ここを任されている二人の神職は永代家跡継ぎの双子であり、先代の宮司ぐうじさまは彼らの祖父だったそうです。先代さまは今もたまに境内を散歩したり、現宮司さまをサポートしたりしておられます。

 あとは休みの日に顔を出してくださる従妹の学生巫女の方を含めると、4名の方がこの社に奉仕してくださっています。


 永代家がこの社を継ぐのにはとある大きな理由があるのですが、その理由はまた今度にしましょう。私はぐるりと辺りを見渡します。


 4人いるとはいえ、小さな神社ですので通常は宮司さまお一人だけでいることが多いのです。他の方は見つからなければ仕方がないのですが…と、一人見つけました。

 手水舎の裏、人目に付かないところに腰かけているのは巫女の月冴つかささまです。幾度も着ていない真新しい緋色の袴が鮮やかですね。


(珍しい、今日は休日なのでしょうか)


 隣に降り立ちました、が一向に気付く気配がありません。そこで一声鳴くとやっとこちらを向いてくださいました。


「あら、神使さん」


 彼女は普段は学生をしていますので、朝夕に制服姿でこの社の前の道を通るのを見かけます。基本的にここへ来るのは“気が向いた時”なのだそうですが、来たときには清掃や事務の手伝いに勤しんでくださっています。…こうして息抜きをしている姿もよく見かけますが。


「ここは好きよ。静かで落ち着くもの」

「(それは良かった)」


 私の声はただの鳥の鳴き声になってしまいますが、不思議と会話が成り立ちます。これはこれで正解なのかもしれません。


「神社で巫女服を勝手に着て自由にしてるのなんて私くらいなんじゃないかしら」

「(勝手に着ていたのですか……)」


 月冴さまは切り揃えられた短い黒髪をくるくると人差し指で弄んでいます。彼女は何を考えているかよくわからないことも多いですが、悪い人ではないのです。


 やがて私に興味を無くしたのでしょう。彼女はおもむろに懐から紙を取り出し、広げてそれを見つめ始めました。何を見ているのかと私も一緒に隣で覗き込んでいると、視線を感じます。見上げると、ばっちり目が合いました。


「あなたってやっぱり普通の鳥っぽくないわ、おじいちゃんの言う通りなのかしら」


 話が分からず首を傾げていると、彼女はまじまじと私を観察し始めました。


「本当は独り言みたいで嫌なんだけど、ちゃんと話しかけなさいって言われているのよね」

「(そうだったのですか)」


 私の知らぬところでそんな指導があったとは思いませんでした。申し訳なく思い、月冴さまから目を反らします。気を反らそうと先ほどの紙にまた目を落としました。

 時間がたっても彼女は私をじっと見つめたままなので、少し居心地が悪くて体がそわそわします。


「ねえ、この紙が気になるのかしら」

「(…はい)」


 いつまでも私の返答を待っているようでしたのでおずおずと答えます。すると、存外楽しそうな声が降ってきました。


「これはね、ここの神社の御守りのデザインよ。ずっと考えていたの」

「(御守り、ですか)」


 それは通常の形に花や名前が刺繍されたデザインに、巾着のような変形のものまでさまざまな種類の御守りがいくつも描かれていました。それは長い間、ずっと思案していた証拠でしょう。


「もっと種類を増やした方がいいと思うの、せっかく流行りの縁結び神社なのに」

「(それはそうですね)」

「私が本格的に巫女として働き始めたら授与の窓口を担当してあげるから、それまで廃れないで頑張ってもらわないとね」

「(さらっと怖いこと言いましたねこの娘)」


 現在、御守りもご朱印も存在するのですが肝心の授ける方が人手不足でおりません。月冴さまや先代が来てくださるときは番をしているのですが、だいたいの日は社務所はもぬけの殻で寂しいものなのです。そういう時は外の清掃をしている宮司さまに声をかけてもらうよう立札をしておりますが、参拝される方にとってはきっと不便なことでしょう。


 ちなみに例え社務所が無人でも心配ありません。私たちがおりますので、不審な人物は常に見張り、万が一は追い払う次第です。


「(貴女がここに仕えてくださる日を楽しみにしております)」


 ミコト様が仰っていた交流の大切さを改めて知れた気がしました。こうしてゆっくり向かい合うことで、相手のことをさらに深く知ることができました。

 月冴さまのことは今日まで正直近寄りがたく思っていましたので、その気持ちを払拭できただけでも大きな成果と言えるでしょう。これからもこうやって言葉を交わしたいと思います。

 もっとこういう機会を持つ努力をし、交流を深めてまいりましょう。言葉を介さなくても、こんなに心を知れるのですから。


 私はひとつ会釈をして彼女の元を飛び去りました。次の人物が見えたので、遠くへ行ってしまう前に急いで羽ばたきます。


 竹箒で落ちた枝や葉を掃除しておられるのは永代家長男、双子の兄で宮司のりょうさまです。日本人には珍しい色素の薄い髪と肌をしていますが、純粋な日本人なのだそうです。そのせいか年齢の割に儚く幼い顔立ちをしているので、この神社へ来られる方の幾らかは彼目当ての方もおられるようなのです。


「(こんにちは)」


 ちょうど涼さまの目の高さになるくらいの枝に降り立ち、まずは挨拶をしました。とはいえ彼にも私の言葉は通じませんので、ただの鳴き声になってしまうのですが。


「おや、今日はどうされたのですか」

「(あいさつです)」

「ふふ、こんにちは神使様」


 そう柔らかく微笑む姿はまるでどこかの絵画のようでした。


「今日はいい天気だ。あなたも、お散歩ですかね」

「(本当のことを言ってしまったら幻滅されてしまうでしょうか……)」


 ミコト様に尻を叩かれるようにして出てきたことは内緒にしておきましょう。それはさておき、涼さまは私に話しかけるときはこのように丁寧な言葉を使ってくださいます。私が神の使いであり神聖なものとして扱ってくださるからなのですが、自分が敬われるのは少しばかりこそばゆい。他の方と同じように接してほしいと思っていても、伝えるすべがないのでこのままなのでした。


「(いつもお疲れ様です)」

「……」


 先ほどの月冴さまと同じように話しかけました。話が弾むと思ったからです。しかし彼は私をじっと見つめた後、苦笑して目を伏せてしまいました。

 どうしたのかと首と傾げていると沈んだ声が返ってきました。


「きっとれいならあなたとお話ができるのでしょうね。俺にはそのような力がないので…悔しいです」


 玲さまは涼さまの双子の弟であり、すでに上記しましたがこの神社に奉仕している(はず)のもう一人の神職の方です。はず、というのはその方とはまだお会いしたことすらないので、本当に存在している方なのか少し不安なのです。一か月以上この場所を離れているなんて、一体どんな方なのでしょう。私はこの社のことしか分かりませんが、それが通常ではない事だけは分かります。


「(私は言葉を交わせずとも良いのですが)」


 こういったやり取りも存外楽しいということが今日知ることができました。なので、涼さまも自分自身を責めないでほしいと思います。

 しかしこれが彼の性分なのでしょう。きっと何事にも真剣に向き合う方なのだと。とても好感が持てる方です。


 私は枝から彼の方へと飛び移り、一つ鳴いて見せました。すると真意を悟ってくださったのか、少し元気を取り戻してくれたように思います。


「慰めてくれているのですかね。ありがとうございます」

涼兄りょうにい!」


 声のした方を振り向くと、月冴さまが先ほどいた場所からこちらへと小走りする姿が見えました。


「月冴、来るときは連絡してほしいとあれほど…」

「いーの、好きで来てるんだからバイト代なんか要らないわ」


 まったく、とぼやきながら彼女の髪や肩に付いた葉を涼さまはつまんで取り除きます。呆れた溜息もおまけで付いてきました。


「あら、今度は涼兄の肩にいるの? ずるいわ」


 私には乗ってくれなかったのに! と腰に手を当ててすねる姿は年相応といいますか、普段の澄まし顔より可愛げがありますね。彼女は彼の前でなら、こんな表情をするようです。これも心を許している証拠なのでしょう。

 仕方がないので彼女の肩に飛び移ってあげると、途端に機嫌を直してくれました。本当に自分の気持ちに素直な方のようです。


「やっぱりこの神使さんは私たちの言葉が分かるみたい。おじいちゃんの言う通りなのだわ」

「そういや今日は散歩をしに来ると言っていたよ」

「ほんと? じゃあ通訳してもらおうかしら」


 本当は涼さまの祖父なのですが、月冴さまもおじいちゃんと呼ぶほど仲が良いようです。


「玲にも早く神使様と顔合わせしてほしいのだけどね」

「あ、そうよあの男。一か月も帰ってこないなんてどういうことなの」

「まあ4月は年度始めだから色々あると言ってはいたけど…どうもそれだけじゃなさそうだし」

「どこほっつき歩いているのかしら」

「来週も帰ってこなかったらお説教かな」

「私も加勢してあげるわ」


「そういうことですから、神使様」

「(!)」


 私は二人に話にすっかり聞き入っていたものですから、いきなり呼びかけられ顔を覗き込まれて驚いてしまいました。もしかしたら今の会話は私に分かりやすいように説明も加えてくださったのかもしれません。


「玲に会うのはもう少し待っていてください。もう少しで、帰ってくると思いますので」

「(不真面目な方なのでしょうか…怖い方だったらどうしましょう)」


 話を聞いていると不安で仕方ありませんが、ミコト様が選んだ方なのですから、ミコト様を信じましょう。

 その後、世間話をしながら社務所へ向かう二人と別れて、最後の一人を探しに飛び立ちました。涼さまの言うとおり散歩をしに来られるのなら、入り口で待ってしまいましょう。

 永代家はこの神社の生け垣を挟んですぐ隣に立っていますので、先代はいつもそこにある出入り口から散歩に来られるのです。よって私は生垣の上に降り立ち、じっと待つことにしました。


 ほどなくして砂利を踏むゆったりとした足音が聞こえてきました。ああ、あの足音は。


「お出迎えとは感心だな、神使どの」

宗治そうじさま」


 涼さまの祖父であり、先代宮司を務めた宗治さまがお見えになりました。

 一日のうちに皆様にいっぺんに会えるのは珍しい事です。もしかしたらミコト様はこのことを知っていて、今日からこの仕事を私に命じたのかもしれません。


「調子はどうだ、この社には慣れたか」

「まだ未熟者で……ですが、楽しい毎日です」

「そんな顔をしているな」


 そう言って私の人型の方の頭をわしわしと撫でてくださいました。細く皺だらけの手ですが、とても力強く温かい。宗治さまは以前たった一人でこの社を切り盛りしていただけあり、今もその元気は健在のようです。相当な年齢になると察しますが、背筋はしゃんと伸び、その眼も射抜くような鋭さです。


「ミコト様も相変わらずそうだ」

「昔のことは分かりませんが、楽しそうです」

「でも常に暇つぶしを探しているだろう」


 私たちはどちらからともなく笑いました。


 宗治さまは唯一私とミコト様を見て、触れることができるお方です。なので、私も人型としての振る舞いができるのです。相当な力の持ち主らしく、現在もそれは衰えてはいないようですね。


「時代は変わったものだな」

「どうかされましたか」

「いや、わしがいたころと比べてずいぶんここも賑やかになったものだと思ってな」


 遠く、境内の方を見つめる宗治さまにならって私も耳を傾けます。参拝者か、それとも涼さまや月冴さまか。人の声や足音が聞こえてきます。


「実にたくさんの人が来るようになった。跡継ぎに涼と玲がいる。月冴も顔を出してくれるしな」

「あ」


 そう、かつてのことをミコト様から少しだけ聞いたことがありました。宗治さまが、たった一人で守り抜いてくださったこと。客足の途絶えた境内。それでも伝統を絶やさず、ずっと。


「儂の苦労も報われたかな」

「宗治さま……」


 今までその身にどれほどの苦労をしてきたのでしょう。生まれたての私には想像もつきません。なので、どんな言葉をかけたら良いのかも分からず彼を見つめることしかできませんでした。


「すまんすまん、年寄りの悪い癖だ。歩きながら違う話をしようか」

「……はい」


 それから私たちは並んで境内を歩き始めました。きっと同じ道を同じ速度で歩んだとしても、私と宗治さまとでは景色の見え方が違うのでしょう。それは歩んできた人生の価値や重さによって、感情という色が加えられるのだとミコト様が仰っていたのを思い出しました。では今、彼の眼に加えられている色はどんな色をしているのでしょうか。

 郷愁、感慨、慈愛……それとも。痛みのない色であればいいと、私は願います。


「私も、この社を、ミコト様を守ってゆきます」

「そうか」

「頑張りますね」

「うむ」


 私の言葉に頷いてくださった宗治さまの表情は、とても穏やかでした。


 本殿の前に着くと、ミコト様が入り口で待っておられました。相当待ちくたびれてしまっていたのか、段差に腰かけて足をぷらぷら投げ出しています。私たちに気が付くと、唇をとがらせて不満を並べ始めました。


「今日も平和じゃったのう。なんにもない上に話し相手もおらんかった」

「こりゃすまんな。お前の可愛い子分は返そうか」


 ほれ、と宗治さまに背中を押されてそのまま私は一歩踏み出しました。

 退屈も何も、そうしろと仰ったのは紛れもない貴女なのですが…という言葉は飲み込んで「ただ今戻りました」とだけ伝えました。


「まったく油を売りすぎじゃ。遅い」

「すみません、っ!」


 ミコト様が人指し指を曲げたかと思うと見えない力に引っ張られ、私は彼女の膝の上にすっぽりと収まってしまいました。そのままやわらかい腕に包まれます。


「ずいぶんとお気に入りだな」

「できない子ほど可愛いというじゃろう」


 そんなに私は未熟者だったのか。思い返せばその通りなので、なにも言い返すことはできませんでした。肩を落とす私とは対照的に、上機嫌な含み笑いが私の頭上から聞こえます。


「そうじゃ宗治よ、今日は久しぶりに夕拝に付き合うといい。涼がそろそろ来る時間じゃ」

「なんだもうそんな時間か、仕方ないな」


 そう言葉を交わす二人の表情は砕け、まるでいたずらを楽しむ少年のような顔をしていました。それはきっと長年の信頼関係からくるものであり、二人の間で通じ完結する特別なものなのだと思います。


 私は単純に羨ましいと思いました。そこに私の入る余地などない二人だけの世界だったからです。私もいつか、このお方とそんな信頼を築きたいと願いながら、ただただ静かに涼さまが来るのを二人と共に待っていたのでした。

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